essay #3 友情
異性との友情は成立すると思っている派だ。
なぜなら、グラデーションで存在する感情に友情という概念をつくったのは人間である上に、人間は自分の選択によって人生の舵を切ることができるから。
つまり本人の意思次第じゃない?え?違う?みたいな感じだ。
男女の友情は成立しないと言っている人のしたり顔を見ていると、なに自分の意思ではどうしようもない大いなる力によって漏れなく恋しちゃうみたいなこと言っちゃってるの?あなたがその相手に対してそう関わりたいだけだよ?なんて煽りたくなってくる。
さて友情というものは、性別関係なく非常によいものだ。
恋愛も素敵だけれど、友情はまた違う良さがある。
できればひとりでも多くの人と、心地よい関係を築きたい。
私にとってたったひとり、本当の意味で幼馴染だなと思える友人はたまたま異性で、今年で22年の仲になる。
小学校に入る前はお互いの家の前の道路で追いかけっこやフラフープで遊んだり、お気に入りのビーズを交換したりした。
学校にはほぼ毎日待ち合わせをして一緒に登校したし、名前順でも前後だったのでよく話した。
高校が違った上に携帯を持っていなかったので2年ほど会わなかったけれど、受験を前に区の図書館で再会して、今度は休日に待ち合わせて一緒に勉強する仲になった。
彼とは半年に1回か1年に1回程度の頻度で今でも近況を報告し合い、その度に変わった部分と変わらない部分を確かめては、お互いの成長と安心感に笑い合えている。
彼とは恋愛関係にはならなかったし、今後もならないだろうと思うけれど、それが夫との関係よりも劣る人間関係かと問われたら、私はそうは思わない。
彼が私のことを何もかも知っているわけではないし、私にも彼の人生の中の限られたエピソード集しかインプットされていないけれども、その前提において、圧倒的な安心感がある。
それは彼が私の選択をきっと軽蔑しないし、今後も女性として過度に守ることも、鼻息荒く接近してくることもないだろうと思えるから。
私の方から力を借りたいと頼れば応えるだろうが、そうでない限り基本的に対等で、性差を感じないコミュニケーションが私たちの間にあるのは、それが心地よいとお互いに感じていて、その関係性を保つために、お互いがある程度のリスペクトと節度を持って相手との対話のしかたを模索してきたからだ。
厳密に言うと中学生のころは、彼が私のことを好きだという話をされたこともあった。
けれども、当人同士で今後も友人として仲良くし続けたい意志を確認して、その良い関係が続くようなコミュニケーションを(無意識下でも)実践してきたから、気まずくなることなく今でも仲良しでいられている。
女性同士だと腹の中が解りすぎて勘繰ってしまうような話もストレートに伝えられたり、今のコミュニティ内で話せないような話をすることもできたり、同性とは感性が違うからこその意見交換や情報提供を面白いと感じることもある。
女友達だけがいれば人生は豊かか、と聞かれると、やはり私はNOだ。恋愛のあれこれを排除した、サバサバとした彼との関係は、不思議と温かさを感じる。
つまるところ、自分にとってその人との心地よいコミュニケーションが何かを自覚すること、そしてそれを相手と共通理解にして、互いに変化を楽しみつつも守っていくことで、男女(に限らないが)の「恋愛ではない関係性」を楽しめる。そんな気がする。