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essay #13 忘却

忘れたくない、と思うことがある。
変わりたい、前に進みたい、と思うことも多々あるけれど、同じくらい、刻んでおきたい、無かったことにしたくない、と思うことの多い人生だ。

昔はひとからもらった愛を、忘れたくないと思っていたようだ。
思い出ボックスと呼ぶにふさわしい箱を持っていて、小学校の頃に友人からもらった手紙やプレゼントに入っていたカードなんかをぽんぽんと保管していたその箱は、今でも自室のクローゼットにしまってある。
誰かからもらえたありがとうやおめでとうを詰め込んである、まさに愛の箱だ。

大小に形を変えながら、その思い出ボックスに色んなものをしまってきたわけだけれど、そのおかげで、大人になった今も折に触れてひとや出来事をふと回想することがある。
面白いのは、昔の自分が誰かに渡せなかった手紙や、こうしてnoteを始める前に書いていたつぶやきのような紙も、たまに入っていることだ。今となってはとても読めない、拙い文章だけれど、16-7歳の鈍い痛みを伴った時間がゆっくりと蘇る感覚がそこにはある。

世の中には、未来を見ること、過去を活かして次のステップを進めることを良しとする文脈がよく見られる。
もちろんそれは正しい考え方だと思う。飲み会でいつまでも自分の武勇伝を語る管理職は嫌だし、昔はこうだったのにと新しいルールや制度をなかなか受け付けずに周りを困らせるお局様も、どの現場にもいるようだ。

けれど、企業や組織と違い、個人的な人生の話になると、過去それ自体が私の人生そのものなので、なんというか、過去を抱きしめたい、という気持ちになる。
未来にむかう道筋を描いていくことも大事なんだけれど、私の後ろにできた道を、何ならその中に落としてきた小石や、道端に描いた落書きを、そこで摘んできた花を、ふと眺めたくなるのだ。

私の後ろにできた道には、もう掴めないもの、訂正できない言葉、やり直せない失敗が、たくさん転がっている。
その間には、もっと小さな諍いや、独り言や、一人の夜が、それはそれはたくさん転がっている。

けれども、実はその間に、ひとからもらったあたたかい言葉や、誰かが向けてくれた眼差し、なんとなく共有できた気がした心地よい時間や、もう忘れられているかもしれない幸せだったひとコマも、無数に散りばめられている。

共に過ごした相手が、もうそんなこと覚えていなかったとしても、ものによってはとうに無かったことにして前に進んでいたとしても、私だけは抱きしめていたい。

そういう時間があったということ、そこに自分がいたこと、動いた心があったということ。

そのひとつひとつをすべては覚えていられないことが、とても悲しい。
今この瞬間にも、記憶の端のほうから、無意識のうちに思い出が逃げていっている。

オレンジ色に照らされたキッチンで一緒に映画を見ながら作った有り合わせの夕食。
土曜の朝に寝ぼけまなこで食べた甘いフレンチトーストにかかっていた木漏れ陽。
ユキヤナギのお香を焚いた部屋で夜中に悩み相談を聞いた電話口のあの子。
そしてたまに、張り裂けそうな気持ちを言葉にできなくて、でも耐えきった夜が明けたときの、窓から差し込む朝陽。

きっと緊急性とか重要性とかに負けて少しずつ忘れていってしまう1ページ。

でも、
できるなら忘れたくない、
一瞬の、
私だけの視界に映ったものたち。
そのひとつひとつが、また私の後ろに道を作っている。


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