言の葉を紡ぐ、思いを見つける。何より誰より自分のために。
私はどうも言葉で言い表すのが苦手だ。
おしゃべりだし、自分の言葉で意見をズバズバと言っている気がしていたが、自分の安全地帯でないと自分の気持ちを言えない臆病者なんだと、日に日に感じている。
やりたくないことも、もはややりたくないと強く思わず、あ〜、くらいのものだったら受け入れてしまう。
そして受けいれた後に、他とのバランスを取れず地団駄を踏む。
もう少し上手くやれればいいが、元々「上手くやる」というのがめっぽう苦手な性分で、むしろ特技は不器用さと言わんばかりだ。
「やりたいことをやる」ということに最近、難しさを感じる。それはやりたいことができない歯痒さではない。やりたいことが少なくなってきているのだ。
昔抱いていた、あれやりたい、これやりたい!こうじゃなきゃ絶対に嫌だという強い感情が薄れてきて、よく言えば調和、悪く言えば様々なことに関心が薄れてきた。
新しく色々やってみること自体は相変わらず好きなので、やってみよう。という気持ちは変わらず持ち続けているものの、そこにワクワクやドキドキは感じない。
とある私をよく見てくれている人に言われた。最近、そのような良くない傾向にあると。「う〜気づいていたけど、やっぱり気づいてた!?」と改めて、問題を目の前に持ってきてくれた。
ただどうしようも、うんともすんとも、湧き上がる情熱が出てこない。コロナ禍のせいだと責任転嫁したいほどに、生活基盤を整えることを重視しすぎて、輝く思いに蓋をしてしまったのか。それとも、一つの大きな目標が叶ったことで、完全燃焼し、そこからというもの灯火が宿らないのか…。
この数年で、人の話を聞いたり合わせたりすることを覚えていった。心の感情の起伏も前よりは落ち着き、人の話を前よりは聞けるようになり、成長したとは思うが、ある意味代償として灯火を失った気がしないでもない。
とはいうものの、与えられたものに良い、悪いは言えるわけで、そうするとただ単に思いを言葉にするのが苦手なんじゃないかとも思うのだ。自分の気持ちと向き合うには、時間もかかるし心に余裕がないとなかなかできない。
このまま自分が鎮火したまま前を進むにはなんとも面白くないのだから、今ある仕事が落ち着いたら、隠れた灯火を探そうではないか。言葉をゆっくりと紡いで、誰のためでもなく、自分のために。