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エッセイ⑪「いろめがね」
書いた時は黒縁メガネでしたが、今では茶色い縁のメガネです。
ふだんはコンタクトなので、もう何年も新しいメガネを作っていません。
ネジが緩んできたのか、少し下を向くとつるんとずり落ちてきれいに鼻メガネになります。
それ以外の不便がないから、視力もだいぶ落ちているだろうにメガネを新調するタイミングがわからない。
いろめがねも変われば、自分の顔も変わっていくものなので、年数を重ねた自分にぴったりのメガネにそろそろ出会ってみたいです。
めがねというものに愛着がある。
めかし込むときはコンタクトを使うことが多い。家でのんびりする時は、たいていめがねを掛けている。裸眼にする時は、その日の時間をすべて手放して眠りに落ちる時。
だからわたしにとって、めがねはくつろぎの象徴である。
中学生までは裸眼で視力検査2.0の高得点。クラスメイトから「おー」という歓声を起こしていたわたしも、携帯電話を使い始めてから、とても目が悪くなった。
これだけ電子機器が普及しているこの国で、大人になっても裸眼でいられる人はどのくらいだろう。コンタクトを作るときの視力検査で、あのマークが見えないのに見栄を張って勘で方向を答えてみたりするわたしは、成長しても視力の成績がいい人を尊敬している。
人の印象を変えるのもめがねというアイテムだ。めがねはファッションアイテムになったりする。(とくに丸めがねは一部のおしゃれな人しか掛けられない高度な一品だと思っている。)賢そうに見えたり、ひょうきんに見えたり、繊細そうに見えたり。
女友達には、男性のめがねが好きだという人がいる。
それはただおしゃれだというのではなく、その男性を少しななめ後ろから覗いた時、同じひとつのめがねを通して見ている景色を共有することがたまらなく好きなのだという。
実にもの珍しい友人だが、少しわかるところがある。
つまり「いろめがね」の言葉通り、めがねとはその人が世界を見つめるフィルターを象徴するものなのだ。
フィルターとは人生観、人間観、その風景をどう見ているか、対する人に何を思っているか。そんなものが含まれる。
すべての生き物は、自分のフィルターを通してしか、世界を見ることができない。どんなに客観的に物事を捉えようと努力しても、あくまでその見方は自分ならではのものだ。
ひとつの林檎を見て何を思うか。ある人間の行動がどう映るか。
それは人それぞれであり、そこには決して他者と被ることのないフィルターがかかっている。
面白いと思う。その象徴たるめがねに、不思議な愛着を持っている。
誰しも自分にぴったりないろめがねを掛けている。
それは他人の発言や行動、表現物に触れて、色を微妙に変化させる。
だから友人は、その男性のめがねを後ろから覗いた時、彼に強い共感を抱いて嬉しく思ったのではないだろうか。
いろめがねは生きている。産まれてから一生涯外すことのないめがねだから、よりたくさんの物事を見聞きして、極彩色の世界を見てみたい。
自分がやがて死ぬとき、世界は何色に見えるだろうか。
愛用の黒縁めがねに指先で触れながら、次はどんな色を世界に足してみようか、楽しく思いを巡らせる。