金曜の獏③
「亮介くんは、学校に行かないの?」
ある朝、朝食を食べていると、莉々が嫌な質問をしてきた。
僕は今まさに口に入れようとしていた玉子焼きを諦めて、口を閉じた。
「亮介くんは高校生なんだよね。どうして毎日、家にいるの?」
「高校生は、毎日が夏休みなんだよ。だから行かなくてもいいんだよ。」
「でも、亮介くんの部屋にあるのと同じ制服を着た人たちが、毎日登校してるよ。」
「あれはただの物好きっていうんだよ。」
僕は、投げやりに呟いた。
「いいから黙って食べて。早くしないと遅刻するよ。」
莉々は、僕の家から小学校に通っている。元の家からよりも通学する距離はむしろ短くなったらしいのでよかったと思う。
もうすぐ学校も夏休みだが、一年生の彼女は文句を言うでもなく、毎朝元気に通っている。
「亮介くん。」
「何。」
「学校に、行きたくないの?」
僕は、たったそれだけの質問に、自分がどうしようもなく苛立つのを止められなかった。
気がつくと、莉々を無理やり立たせ、荒々しく外に追い立てていた。怯えたように身を竦める彼女に、黙りこくってランドセルを押し付け、その小さな女の子を蔑んだ眼差しで見下ろしていた。
口がきけなくなったように、ただ目を見開いて僕を見上げる莉々を見ていると、冷たい感覚が体中を走り抜けた。
「そんなだから……。」
喉のすぐそこで、言葉がつかえた。目の前に、その一言だけで、一瞬にして凍りついてしまった莉々がいた。その目が暗く深く、康則さんそっくりに翳っていく。
僕は急に恐くなり、外のもの全てから逃げるように、大きな音をたてて扉を閉めた。
康則さんの話を両親に伝えたとき、母がこうぼやいていたことを、ふと思い出した。
「まったく。うちの家系は、神経の細い人間が多すぎるのよ。」
多希子さんといい……僕といい。
唯一実家で神経が細くなかったらしい母は、そのせいか、自分が結婚してからは、そう家が遠くないはずの妹夫婦とはあまり交流がなかった。顔を合わせるのも、お互いが実家に帰る、盆や正月の時のみ。三つ上の僕の兄が、高校受験のときに実家で会う機会を逃してからは、ぱったりと交流がなくなり、せいぜい年賀状を送りあう程度の付き合いだ。といっても仲が悪いわけではなく、ただ二人ともが相手に少しだけ苦手意識があるのだという。年が離れているせいもあるのだろうか。姉妹のくせに、おかしな話だ。
その叔母の方の血が強かったのか、あんな母から生まれたのにも関わらず、僕はずいぶんと神経質なようだった。自分ではそんなつもりがないのに、いつの間にか人を苦手に感じ、また相手にも自分を苦手に思わせてしまう。ややこしい人間関係のいざこざの挙句、僕は不登校にまでなってしまった。将来の心配もあるが、今はとりあえず行動を起こす気にもなれずに、ずるずるとこんな状態を引きずっている。
そんなどうしようもない人間に、小さな女の子の面倒ひとつも、みれるはずがない。
僕は金曜の夜中に、ついさっき、やっと掛かってきた、康則さんからの電話の内容を思い返していた。
あれ以来莉々と碌に口をきいていないことは伏せ、もう彼女はだいぶこの家にも慣れている、といった当たり障りのない会話の後、僕は莉々が多希子さんを話したがっていると伝えた。
「あぁ、そうか。……だが、悪いけど、多希子はその、まだ話せないというかな……。」
「莉々とは話したくないっていうんですか?」
僕は意地悪く訊ねた。
「うん……まぁ、そうだな。回復してはいるんだよ。しかし、まだ……少しかかるな。あの子には、いい子にしていなさいと、よく伝えてもらえるかい。」
電話は、曖昧な様子のまま切れてしまった。康則さんも、莉々とは話したくないということなのだろう。
僕は、ふと莉々が寝ている寝室を覗きに行った。
耳を澄ますと、中から微かな呻き声のようなものがした。
静かに部屋に入り、明りをつけると、顔を伏せて必死に泣き声を殺す莉々がいた。
今の電話の内容を聞かれていたことを、僕は悟った。
近づくと、莉々は『赤ずきん』の絵本を涙でぐしょぐしょに濡らしていた。
「亮介くん。」
彼女は体と同じように震えた声で、小さく僕に話しかけた。
「わたしはどうして連れていってもらえなかったの?どうしてつれていってくれなかったの?」
僕は、ゆっくりと目に付いた絵本を手に取った。
「リリー。今日は、ヘンゼルとグレーテルを読もうか。」
ゆっくりと本を開く。
莉々は顔を上げると、黙ってベッドにもぐりこんだ。
僕はじっと聞き入る莉々の表情を見つめながら、ポツリポツリと、つたない朗読をはじめた。
僕の面倒見がいいなんて、まるで見込み違いだ。莉々に対して、どう声をかけていいのかもわからない。
そうだ。康則さんは莉々のことが邪魔だったんだ。
でなければ、こんな僕にでまかせを言ってまで、大事な娘を預けるわけがない。
「そういえば、今日は金曜日だね。」
「うん。亮介くん、バクがこのまえ会いにきたときにね、ラプンツェルのきれいな髪の毛をかじっていったのよ。」
「絵本のことを夢に見たの?」
「金曜日はいつもそうだよ。」
「そうか。じゃあ、今日はヘンゼルとグレーテルの話だから、バクがお菓子の家を食っちゃうかもしれないね。」
莉々は、おかしそうに笑った。
つづく
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