いとしい銀色の魚へ③
英輔は恥ずかしげもなく女子トイレから出ていく。彼はしばらく大股に歩いてから、わたしの手を離した。
手首は赤くなっていた。わたしはそこをそっとなでると、口をゆすいでから英輔の後を追った。彼の二倍の速度で足を動かす。
「ねえ」
斜め後ろから小さく声をかける。
「何」
「さっき、何かしたの」
「さっきって?」
「教室で。わたしが寝ていたとき」
英輔はわたしに目を落とした。
「どうして?」
「みんなが笑っていたから」
「そう。ミワちゃんを笑っていたんだ」
わたしは黙り込んだ。
英輔の唇が、かすかに歪んでいる。
英輔が十歩歩く間に、わたしは二十歩歩く。
彼は唐突に言った。
「見ていたんだ」
わたしは顔を上げる。
「ミワちゃんが寝ているのをじっと見ていた」
彼は低く笑った。
「あのヒトたちがどう思ったか、わかるだろう」
廊下に足音が響く。
教室に戻らないうちにチャイムが鳴った。教室の中がざわざわと騒がしくなったと思うと、色とりどりの魚群が廊下に溢れ出す。前にも後ろにも言葉が行き交っている。
わたしは群れの中から突き出る英輔の頭を目印に進んでいく。
「ああ、深田。佐野」
向こうから声がして、目印が動きを止める。
わたしはやっと彼と並ぶことができた。
「大丈夫か。深田」
わたしは魚眼にまじまじと見つめられて、黙って頷く。
「一年生の時おまえと同じクラスだった生徒に事情を聞いたよ。時々こういうことがあるんだってな」
魚眼は戸惑い混じりの、心配そうな顔でわたしの顔を覗き込む。
「前任の先生は誰だったかな。おまえのことをまだ何も聞いていなかったんだ。もう平気か。無理はしなくていいんだぞ」
わたしが小さく口を開こうとすると、英輔が口をはさむ。
「平気じゃありません。彼女、トイレで吐いていたんです。帰ったほうがいい」
魚眼が眉をひそめて英輔に向き直る。
「佐野。おまえは、心配なのはわかるが、黙って教室を出て行くのはやめなさい」
英輔は無言で魚眼を見返した。
何でもない仕草なのに、魚眼が背筋を伸ばす。立ち位置を変える。
英輔は軽くボールを投げつけるように言った。
「それは、すみませんでした」
「わかればいい」
魚眼は英輔から視線をはずした。
英輔はどこか勝ち誇ったような微笑を浮かべている。魚眼教師もしょせんは魚の一種なのだ。英輔にかなうはずもない。
「もう今日の授業は終わっているんだ。ミワちゃん、帰ってもいいでしょう」
英輔はあっさりと言って、さっさと教室へ戻っていく。
わたしも帰ります、とだけ言うとすぐに彼の後を追った。
息を詰め、掃除をはじめようと騒がしい教室へ戻る。自分の机に向かう。
「深田さん」
二人のクラスメイトがわたしを見つけて声をかけた。
「さっき、大丈夫だった?私たち先生に聞かれて、深田さんのことを少し話しちゃったんだけど、かまわなかった?」
「うん」
わたしは懸命に微笑んだ。
「心配してくれて、ありがとう。ごめんね」
自分の頬が引きつっているのを感じた。わたしはへらへらとして、二人を交互に見つめた。
「ううん。どういたしまして」
一瞬、二人が目を合わせる。何となく笑い出しそうな、奥歯に何かはさまっているような表情をする。二人の様子に、わたしは自然と視線を落としていく。
二人が愛想よく微笑みながらいなくなる。
彼女たちの後ろに、机に頬杖をついた英輔がいた。彼はすらりとした足を組んで、こっちを楽しげに見ている。
「お。おかえり、佐野」
英輔にクラスメイトの一人が話しかけた。
彼は唇だけでにこりとして言った。
「ただいま」
「深田さん、平気なの」
そのヒトが笑い出しそうな、不思議な表情をしてわたしを見遣る。
まるで動物園のサルになったような気持ちで、わたしは無理やり気づかないふりをした。
「うん。治ったみたい」
英輔が遠くにいる人のように、だけどあからさまにわたしを見る。
「ふうん。こういうこと、よくあるの」
「あるみたいだね。おれも、ミワちゃんとは今年からクラスが一緒だから」
「なあ」
「何?」
「付き合ってんの?深田さんと」
英輔は今にも吹き出しそうな顔をして相手を見返した。大きな目が弓なりに曲がり、目尻にできたしわがピクピクと動く。口の端が奇妙に歪む。
見られた方はぞっとしたように身を引く。
ペリカンみたいに大きな、英輔の口が動く。
「どう見えるの?おれと深田さんって」
笑うように震えているが、声色はごく冷たい。彼の目は相手をじっと見つめている。彼らの周りに薄い膜が張りつめている。
わたしはその様子に引きつけられた。
話しかけてきたクラスメイトは何でもない、とごまかすように言った。
「そう?」
英輔がまたにこりと笑う。彼の獲物は、とたんにぱっと離れて行ってしまった。
シャボン玉が弾けるような感触がして、水槽にざわざわと音が戻ってくる。
わたしはふと英輔を見た。英輔の目や口は、今度ははっきりわたしに向けられていた。
「帰ろうよ。ミワちゃん」
わたしは小さく頷いて、荷物をしまいはじめた。
英輔は先にカバンを持って席を立つ。
「何?帰るの」
「うん。じゃあね」
「また明日」
声をかけられてそれに応えながら、彼はゆっくりと歩いていく。
わたしも小走りに英輔の後をたどる。
「深田さん、お大事にね」
「気をつけてね」
通り過ぎる時にかけられた言葉に、ぎこちなく頷いた。
わたしたちは水槽を抜け出した。
つづく