摂津国長柄人柱(せっつのくにながらのひとばしら) [現行上演のない浄瑠璃を読む #3]
初演=享保12年[1727]8月 大坂豊竹座
作者=並木宗輔・安田蛙文
蘇我入鹿の叛逆を藤原鎌足がおさめるまでを描く王代物。
物語の枠組みは『妹背山婦女庭訓』に近い。物語の舞台として大神神社も登場し、ここから『役行者多峯桜』そして『妹背山女庭訓』へと繋がってゆく浄瑠璃の系譜を感じられる。
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すごいのが、蘇我入鹿が逆心を起こした理由。
帝(女性)に懸想して、それが叶えられなかったから。
そんな大胆な奴、おる?????
かねてから帝に恋文を送りつけまくって父・蘇我蝦夷子に勘当され、それでも帝の行幸先に現れ、牛車へ文を投げ込む。このめちゃくちゃすぎる行動に、蝦夷子も呆れ果てる。やがて、鎌足夫婦は入鹿と帝の仲を取り持つとして、入鹿に夜忍んでくるように言う。実はこれは罠で、鎌足の妻と“帝”は祝言の盃にかこつけて入鹿に斬りかかる。入鹿は自分を殺そうとした“帝”を逆に殺害し、帝位につく。この殺された“帝”というのが、実は帝と入れ替わっていた鎌足の娘・藤照姫だったというのが種明かし。
入鹿のやばすぎるストーキング行動に、蝦夷子も藤原鎌足も、入鹿には別の本心があると思っていたし、私も、天下掌握の野望のためうつけのふりをしていると思って読んでいたが、そういった「実は」は存在せず、本心からだったという設定になっている。
かなり少女漫画的なロマンチック展開だが、そこに深い書き込みはない。邪恋という描き方でもなく、その行動の描き方、取り扱いにはかなり不思議な印象を受ける。
↓ たぶん、左から鎌足の妻、蘇我入鹿、皇極天皇実は藤照姫。
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さて、題名にある「摂津国長柄人柱」とは何なのか。
摂津の国の長柄川は激流で、船を渡すことも困難だったが、遷都先になったために橋をかけることになった。しかし何度かけても橋が押し流されるため、天文博士の言により「68歳(癸の亥)の男」を人柱にすることになる。入鹿の命令で近隣の「68歳の男」が集められるが、その中に岩次兵衛と呼ばれるジジイがいた。この岩次兵衛とその一家が因縁の物語を紡ぐ。これがまた『仮名手本忠臣蔵』のおかる一家の業がさらに深くなったような話で、悲惨のピタゴラスイッチ状態。
集められたジジイズの中から誰が人柱になるかという話になったときに、岩次兵衛が、はいている袴を川に投げ入れて、沈んだ者が川に望まれている人柱だと言う。みなが次々と袴を投げ入れ、いずれも浮いてくるが、岩次兵衛の袴だけが沈んでしまう。
なぜ彼の袴は沈んだのか?
岩次兵衛が呼び出されて外出する前。年貢に詰まった岩次兵衛の妻は、夫に黙って娘を売ってしまった。娘が売られたと知ったら切腹するくらいに前のめり一本気な岩次兵衛に知られないよう、妻は彼の袴に娘を売った金を縫い付けて隠していたのだが、人柱集めに呼ばれた岩次兵衛が偶然その袴をはいて出ていってしまった。彼の袴は、娘を売った金の重みで沈んでしまったのだ。
さらに、岩次兵衛が年貢に詰まったのにはわけがある。帝位についた入鹿は、わがまま放題に無理難題を民草に言いつけて横暴を働いていた。その入鹿に呼び出された人々の中に、岩次兵衛がいた。実は、入鹿は蝦夷子に勘当され放浪していた頃、岩次兵衛に世話になったという過去があった。入鹿はその礼に岩次兵衛の願いをなんでも叶えると言うが、岩次兵衛が願ったのは「地元である長柄を裕福な土地にすること」。入鹿はそれなら長柄に内裏を遷都すると言い、その代わりに年貢を倍にすると吹っかける。
もっと時を巻き戻そう。この岩次兵衛というのは、もともと長柄に住んでいた者ではなかった。彼はかつては讃岐の住人で、面向不背の玉を龍神から取り返した海士の父だった。藤原不比等(鎌足の息子)のために死んだ娘の恩賞をもらうのが嫌で、故郷を捨てて長柄にやってきて入り婿をした人間だった。彼の入鹿対鎌足の「物語」への宿命は、讃岐にいた頃からすでに始まっていたのだ。
こうして、岩次兵衛の妻は夫を人柱にした責任を感じて自害、岩次兵衛は人柱として川へ沈み、娘ひとりだけが生き残る。
この因縁を通じて、「雉も鳴かずば撃たれまい」のことわざの起源は実はこの一家の物語だった、という巨視的 ・浄瑠璃的結末に落ちる。
↓ たぶん、左から岩次兵衛、女房、娘おこよ。右の二人は鎌足派の人々。
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鎌足はこのあと、岩次兵衛の娘にものすごくひどいことをする。他人の子供の命を紙より軽く扱うとは、源蔵並みのクソヤバ行動。『妹背山』でもそうだが、鎌足は心無い設定が定番なのか。そしてやっぱり鎌を家宝にしている。わかったわかった。
本作には、先日読んだ『清和源氏十五段』とともに、登場人物の無力感、抗えない宿命、運命に押し流される人々の悲哀が描かれている。
近松半二のドラマティックな主人公たちは、たとえ無力でも健気に運命を切り開こうとするけれど、これらの作品に登場する主人公たちは運命のままに押し流されてゆく。
これは作家性の違いなのだろうか。それとも、人形の違い? お人形さんたちはやはり操られる存在である。
(画像=『あやつり画番附』国立国会図書館蔵 *製本方法の問題で1枚の番付が2枚の画像に分かれてしまっている資料ですが、元の通り1枚絵になるよう加工しています)
読む方法(翻刻)
水谷不倒生=校訂『続帝国文庫 第19編 並木宗輔浄瑠璃集』博文館/1900
池山晃=校訂『叢書江戸文庫 10 豊竹座浄瑠璃集 1』国書刊行会/1991
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