愛に忠実であれ
アイスが冷凍庫にあったら、とりあえず幸せだと思う。
わたしがそういうと彼は変な顔をした。
変わってるね。
わたしは頷いた。
そう、わたし変わってるのね。
それがバーで交わした彼との話だった。そこから何をどうやって話しついたのか、彼には中学生の息子がいて手を焼いてて、わたしは独身だけど恋人もいない身分であることをつまびらやかにした。
「今日君の部屋に行ってもいいかな。」
彼が申し訳なさそうにいうと、わたしは「ええ、もちろん。」と答えた。
朝日が上ると肌寒い。暖を求めて彼に抱きつくと、彼はまだ寝ていた。わたしがやったことを、かつての彼の女、つまり奧さんはやったのだ。わたしはそれになぞらえたのだ。そう思うと少し虚しくなって、布団を抜け出ると彼は半身を布団から飛び出していた。布団が狭かったのだ。全然気づかなかった。
「おはよう」
彼が寝ぼけ眼でいうとわたしも「おはよう。」と返した。
「調子はいかがかしら。」
「まぁ、悪くはないよ。」
そうして笑い合う。
「朝御飯はパン派?ご飯派?」
「お好きなように、」
わたしはわかったわ、といって彼のつむじにキスをする。
「ねぇ、名前なんていうの」
台所を漁りながら尋ねると彼はかすれた声でいった。
「楊、大葉楊だよ。運転免許証見る?」
「ううん、いい。」
トーストをオーブンにかけ卵を二つ割る。
「わたしは猫。あなたの猫よ。」
彼は低く笑った。
「僕が名前をつけてもいいの。」
「もちろん。」
目玉焼きに水を回しかけて蓋をする。
「君の名前はじゃあ、たまこ。たまこちゃんでどうかな」
(内心子どもっぽい名前と思いながら)「素敵だと思うわ」とわたしは答えた。
「たまこ、トーストのバター、僕は焼いてから塗る派なんだけど」
わたしは「覚えておく。」と答えた。
それから彼との奇妙な縁が続いた。彼の訪問はいつも突然だったし、わたしはスケジュールを合わせなければいけなかった。それに憤慨すると彼はやるせなく「仕方ないんだよ」と言った。疲れたみたいに。
「ねぇ、本当に離婚しているの。」
ある日わたしがそう尋ねると彼は笑った。
「疑うの?」
一呼吸置いて「もちろん」とわたしは答えた。
「僕がもし既婚者で離婚してなかったとしても、君と結婚する気はないんだよ。」
黙りこんで「別れましょう」と告げると、彼はあの手この手で思い止まらせようとした(今度ヒルズのディナーでもどうかな。もしよろしければの話だけど。それともケーキビッフェがいい?)。
「全部お断りよ。早く荷物をまとめてこの部屋からでてって」
彼は肩をすくめた。
「君がそんな人だと思わなかったな、」
玄関で見張るように彼が出てくまで見ていると(彼が出てった瞬間に部屋に鍵をかけるつもりだった)、彼はこういった。
「君は後々までこういった馬鹿げたことをしでかしたことを後悔するはめになるよ」
「早くでてって」
わたしはドアを開けて促した。楊はそれこそわたしのせいで仕方なくと言わんばかりの態度で、気だるげに家を出た。ほんの少しの荷物をもってーーーなんと彼は残りの荷物は郵送で全部送れという。
部屋が静まり返るとため息がこぼれでて、わたしは冷えた体をお風呂で温めることにした。
心の中がぽっかり穴が開いて、そこを埋め込むようしばらく努力をしなければいけなかった。例えばテニス(ボール拾い!)、お菓子作り(焦げたラスク!)、お裁縫(雑巾しか作れないのに?)。そのどれもこれもに失敗して途方にくれていると不意に泣きたくなった。なんだっていうんだろう。本当にもう。
彼の暗記してある携帯番号を何度も見つめながら、それだけはしてはいけないと思った。思ってるのにそれと心は裏腹だった。
「もしそれを、言葉で例えるならーーー」
親友のシズちゃんは言う。
「あんたは彼に惚れてるのよ」
巨漢で強くて、それなのにとても女性らしいシズちゃんは言う。
「そうして彼を欲しがっている。」
シズちゃんはパスタをとてもきれいに食べる。食べ終わったあとのお皿まできれいで、いつも見習わなきゃと思う。
「我慢することない。欲してるものには貪欲であるべき。」
わたしは「例え既婚者であっても?」と泣きそうな気持ちで言うと、シズちゃんは「もちろん。」と力強くいって、生ハムを口にいれた。ルージュの口紅の向こうへ生ハムが消えていく。
「結婚しても恋愛をしてはいけないと言うのは無理な話よ。」
「それは分かってるの。」
「じゃあ、なにに我慢しているの?」
わたしは黙りこむ。
「道徳や正義感なんてあんたが痛い目をするだけよ。うわべだけのいい子ちゃはやめなさい」
「ねぇ、シズちゃん」
なあに、とシズちゃんは顔をあげてワインを飲んだ。グラスの口紅をぬぐうのも忘れない。
「わたしはわたしに素直になってもいいの?」
シズちゃんは笑って「オフコース」と言った。
久しぶりの楊の体は、わたしを満たしてくれた。この体温が、この舌が、この囁きがほしかったのだと思うと心の底からほっとした。今、彼はわたしのもの。
「楊。」
楊は首をかしげてこちらを見た。
「早く入れて。」
汗が滴って、楊は笑った。
終わったあとのベッドで一緒に寝そべっていると、わたしは「本当ね」と言った。
「わたしはわたしのしたことが正しいことだと思ってた。でも」
「でも?」と彼は軽い響きで返す。
「死ぬほど後悔したわ。愛してる。」
「もちろん、分かってたよ」と楊はわたしを抱き締めた。その腕の中でわたしは、安息を見つけた宿なし子のように満足していた。
「愛に忠実であれ、」
「悪い人ね」
そう声を立てて笑うと彼は「そういうものさ」と笑い返した。