他人は他人、自分は自分
他人を動かそうとするな。自分が動け。母に昔散々そう言われたが。他人のことは放っておいて自分の人生だけ考えなさい、という意味かと思ってた。他人は他人、自分は自分、という意味なのに今更ながら気づいた。他人なんか動かそうとしてないで自分から動かなければ、なにも意味はないのだ。
しかしそれを貫き通すのは難しい。我々はつい他人に期待しがちである。見返りを求め、好意をよそおわられる。
特に恋愛方面においてはこれは全く通用しない。他人に期待をし、依存し合い、傷をなめ合い身を寄せ合う。世界には二人しか存在しないかのような錯覚に落ち入れられる。
わたしは他人は他人、自分は自分という母をずっと家庭から逃げてると思っていた。そうやって他人と区分けをすることにより、我が家がおかしいことを認識することを怠り、子供にこの家庭は何も悪くないのよおかしくないのよと逃げてるように見えた。
特に家に母が人を呼びたがらないのは、それを指摘されるからだ。この家庭はおかしいと露見するのを恐れてるようにしか見えなかった。
だから動物一匹飼うのも、怯えて躊躇うのだ。結局自分では決められず、ぐずぐずと文句をつけては先延ばしにしようとする母がわたしは大嫌いだった。
他人は他人、自分は自分という考えが、いい訳がない。個々とはそんな簡単に区別をしていいものではないからだ。他人と比べるのが普通である。
他人と比べられて疲れた人は言う。
『他人は他人、自分は自分』
一人で生きてるつもりにでもなったのだろうか。大勢の人達のお世話になりながら今の自分がかあるのに、あまりにも驕った考えである。
だからわたしはその諺が大嫌いだ。