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京都の路地の思い出

 京都の町はご存じのように東西南北碁盤の目のように道路がひかれている。
「うなぎの寝床」と言われる一軒の町家が 東西に長く玄関を構えるように立ち並ぶ正方形の一区画を、当時は一つの「町」とされていた。その周りを一回歩くことを 私たちは「一町まわり」と言って、散歩にしていた。
 しかしいつの間にか、東西南北にひかれた道幅3 or 4メートルの道路に沿って立ち並ぶ家々は道路で向かい合う家並みをひっくるめて、一つの町内になっていた。
 その町内には通称「ロウジ」と呼ばれる入り組んだ細い「行き止まり」の道路がある。 「路地:ロウジ」とは「辻子」又は「図子」と書き 昔は「つじ」と呼ばれていたものであったが、関東の「路地」と同じく字が改まって書かれるようになり、「路地」がなまって「ロウジ」と呼ばれるようになる。この「ロウジ」という言葉の響きは京都ならではの庶民の愛着が感じられ、生活の中で自然発生的に出来、そして増えていったという。

 しかし、中には曲がりくねって行き止まりかと思えど、もう一つの広い道幅3or4メートルの道路に突き抜けられるものもあり、「え?出られた!」という京都の迷路さながらのこの「ロウジ」探索は 子供にとってもミステリアスで楽しい遊び場所だった。

 小学校から帰ってきて宿題を済ませると、もう夕方になっている。それでも、小学1~6年の町内の子供が6,7人集まって「ロウジ」で縄跳びや鬼ごっこをした。「ロウジ」なのに道幅が表通りくらいある「オオロウジ」には両側に家が建ちならび、あたかも「抜けロウジ」の様な石畳の奥には小さな広場があって、別の道に出られるどころか生き止まりになっていて、そこが子供たちの恰好の遊び場所になっていた。
夕方暗くなるまできゃ~きゃ~と騒いでいて、「オオロウジ」のおばさんに怒られたこともあった。そんな記憶が大きくなっても懐かしい。
 そんな入り組んだロウジの町は戦国の世に敵兵を惑わすために豊臣秀吉が作ったとか…。
 京都を焼野原にした「応仁の乱」では 敵兵がこのロージに惑わされ大いに戦力を削がれたと聞いている。

 戦乱が終わり、焼野原に家がぽつりぽつりと建ちはじめると、いよいよ町衆の都合のいいようにロウジは増えて行った。
(これまでの資料は京都市歴史資料館:野地先生のご協力で得られたものです。野地先生ありがとうございました)


 京都に長年住んでいても、この迷路を知り尽くした人は そう多くないと思う。
 私の町内にもロージが3か所あった。3か所とも行き止まりであったが、幅も長さも形も大きさも違った。そこがミソである京都の「ロージ」。

 私の町内にある「ロウジ」の1つは「オオロウジ」で、後の2つは道幅も狭い行き止まりの「ロウジ」だった。
その行き止まりの狭い「ロウジ」は 片側に家が数件連なり隣の家に行きかう時「人一人行き来」できるくらいの石畳が敷いてある。それが「ロウジ」の道幅半分に当たり、もう半分は土の道がつづいている。向かいの家はなく隣りの大きな商家の庭の塀になっていた。

 京都に住んでいる人に生粋の京都人は少なく、近隣の地や多くの場合滋賀県の近江商人が働きに出て来てそのまま居ついてしまう人が多かった。 「糸片の商い」つまり呉服関係の商売で成功した人などは勿論のこと、京都に30年以上住んだ人が京都人と名乗っていることが多かった。

 成功した近江商人の家は立派に構えられた。その家の塀は5段ほど石が積み上げられ杉の皮が張られた板塀で、その頭には瓦が並んで置かれいる。   雨の日など瓦から滴り落ちる雨水は 塀越しに並べられた数々の植木鉢にしたたり落ちていく風情はなかなかのものがある。
 路地の入口は広い道幅のある碁盤の目に玄関を構える家の2階が両方から大きく張り出して、路地の入口の門構えのようになっていて、ロウジの入口であることがわからないように造られていた。
だから、夏の紫外線の強い日などロウジに入った瞬間 目の前が真っ暗になりひんやりした空気の中、足元の石畳だけの感覚で、ロウジの奥に進むことになる。この感覚はとびっきりなのだ。

 当時、内職をするおかあさんが多く、夏休みなどロウジに入ると夏の日差しが反射して真っ黒く浮き出た木格子戸からラジオの高校野球の試合実況放送が大きく流れていたことが 今になって京都らしい風情として、とても懐かしく思い出される。
 

 この細いロウジの最初の一軒目の家が「喜多さんのおばちゃん」の家だった。

私が3,4歳の頃だったと思う。どういう訳か我が子のように、いやそれ以上に可愛いがってもらったあたたかい記憶がある。
それは断面的なのだが…

 私が2歳になった時、もう妹は生まれていた。
2歳と言えばまだ母親に抱っこされたい時だ。けれど、母親は妹にかかりっきりで、何かと言えば「おねえちゃんやから 辛抱し!」と 言われ続けてきた。

 喜多さんのおうちは新婚さんでまだ子供が出来ていなかった。
子供を欲しいと思っていたおばちゃんは 私を見つけて母親に了解を得て 自分の家に連れて帰って遊んでくれた。

 喜多さんのおばちゃんは小針仕事が得意だったようで、着物を縫う内職をしていたが、その合間をぬって私にいっぱいフリル付いた真っ白なサロンエプロンを縫ってくれ、丸いお膳に合う子供用の椅子を準備してくれた。  そこでよばれる昼ご飯はきっとおいしく楽しかったに違いない。

 実家のお墓詣りにも電車に乗って連れて行ってもらった。

喜多さんのおばちゃんのお母さんも、その当時相当なお年寄りだった様で、腰が曲がっていて色白で痩せた面長な顔と白髪が 着古したそれでも洗濯 のりの効いた濃い紺絣の着物姿と一対になって、今でもはっきりと思い出すことがある。

 おばちゃんは電車を降りたところから「おばあちゃんの家しってるやろ? おばちゃん目つぶってるさかい00ちゃん(私)手ひいて連れってって!」
私は今でもまるで自分自身を映像で見るように、ニコニコと喜多さんのおばちゃんの手を引っ張っておばちゃんのおばあちゃんの家へ連れて行っている姿を思い描くことが出来る。

 おばちゃんはお墓まいりをして、墓石に柄杓で水をかけながら
「00ちゃん、こんなして水かけたげたら、気持ちええ! 気持ちええ!てゆうて喜んだはるんえ~」と、教えてくれた。
私は 幼心でもその時はじめて、ああ、そうなんや! と、学んだ。

又、ある日お風呂屋さんに連れて行ってもらったことがあった。
運悪く、そこでシラミをうつされたのだ。
それは妹にもうつり、私たち姉妹は毎日お酢につけた柘植の櫛で髪の毛を空いてもらうことになった。その痛さと酢の匂いを忘れることはない。


 そんな ある時私の母親が「もう、喜多さんのおばちゃんとこ行ったら あかんえ~」といった。幼い私は理由も聞かず「ふん」とうなずいて、ぷつり!と、あのロウジを訪れることはなかった。
後で知ったことだが、おばちゃんに赤ちゃんができたのだ。


 あれから、何十年私は喜多さんのおばちゃんのことを、すっかり忘れていた。結婚して千葉で7年半、大阪へ転勤になって数年後、私は子宮筋腫の手術のベッド待ちだった。
なんのことからか、突然喜多さんのおばちゃんのことが気になりはじめた。
あまり長らくのご無沙汰だったのと突然のことだったので、手紙を書くに しても なかなかペンが走らなかった。日が過ぎるごとに気になる気持ちが強くなり、思い切ってペンを取り書き始めようとしたところ電話がなった。受話器を取ると北野病院からで「ベッドが空きましたから明日入院してください」とのこと。これは、心配かけるといけないから退院してから手紙を出そう!とペンを置いた。

 そのころ、子宮筋腫の手術が流行っていたのか、手術する日の患者は10人もいて、若い患者はまるで修学旅行に行った時のような気分で、みんな仲良く手術を終えた。
見舞いに来てくれた母が「ああ、そうや!」と言って告げたことばは
「あんたが手術やったんで、黙ってたんやけど、喜多さんのおばちゃん亡くならはったんえ~」だった。
「え、いつ?」
「あんたが丁度手術する日やったかなあ」
あ~、やっぱり!気になってはったんや!
虫の知らせやったんや、おばちゃん、かんにんえ~! 
心の中で 私は謝っていた。
「胃がんやったらしいわ」と、母がぽそり!っと言った。

退院してすぐに、私はおじちゃんに会いにいった。
私の虫に知らせを聞いたおじちゃんは
「よ~、来てくれたなあ。子供が出来ひんかったら、おじちゃんたちの子供になってたかもしれんよ~」おじちゃんは昔の記憶どおりの顔で言ってくれた。そして「あれはなあ、手先が器用やったさかい、ベッドの上でテッシュケース入れを看護婦さんみんなにひとりづつ作ってあげて、喜んでもろてなあ、みんなから可愛がってもろてなあ…」と、涙声になった。

そのおじちゃんもすぐに娘さん宅に引っ越してそのままになってしまった。

中学生になって偶然会った時も、喜多さんのおばちゃんはいつも私に向かって「おばちゃん、00ちゃんだいすきや~」と言ってくれていたのに…。


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あのねのね、アネモネささやく路地の角

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