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[大伴旅人について]の訂正とお詫び

上の記事で、私が描いた「大伴旅人」について、りーだーさんからメールをいただきました。
それによりますと、私の書いた文に謝りがあることが わかりました。
りーだーさんのメールを 添付させていただき、訂正してお詫びいたします
以下 りーだーさんのメールです

今晩は


noteの文書は


数年後、他の流人が許され 都へ帰るが、旅人は許されることなくその地で寂しく果てることになる。


下記の説明を見て下さい  ↓


大伴旅人 - Wikiquote

     その他も

      万葉集に  76首 掲載されている

1.大宰帥として筑紫赴任時の歌。  神亀五年(728年)  64歳で左遷、

8-1473: 橘の花散る里の霍公鳥片恋しつつ鳴く日しぞ多き

(ア) 詞書「大宰帥大伴卿の和ふる歌」。大宰府にて。

3-0338: 験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし

(イ) 詞書「大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首」。その第一首。

         2023.12.15の例会

2.第五  挽歌

5-0793: 世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり

  • 大宰府にて。『万葉集』の注によると神亀五年(728年) 六月二十三日。このころ 妻と弟 を続けて喪っている。


3.大宰府にて   梅花の宴    ⇒令和の出典

     書き下し文は

「時に、初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。」


天平二年(730年) 正月十三日

-巻五・815から852  の32首

5-0822: 我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

              2023.2.17の例会


4.帰京途中・・・鞆の浦にて     天平二年(730年) 11月に大納言に任ぜられて帰京する

(参考:大伴家持は 中納言で終わる)

天平二年(730年) 冬十二月

-巻三・446・447   の2首

3-0446: 我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき

3-0447: 鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも

5.帰京途中・・・敏馬の崎(みねめ)にて

天平二年(730年)冬十二月

 -巻三・448・449・450    の3首

3-0448: 礒の上に根延ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむ

3-0449: 妹と来し敏馬の崎を帰るさにひとりし見れば涙ぐましも

3-0450: 行くさにはふたり我が見しこの崎をひとり過ぐれば心悲しも

6.帰京後。奈良の都にて

-巻三・451・452・453   の3首

3-0451: 人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり

3-0452: 妹としてふたり作りし我が山斎は木高く茂くなりにけるかも

3-0453: 我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽せつつ涙し流る

6.死亡    奈良の都にて   67歳で死亡

 天平三年(731年)秋七月   

          余明軍(よのみょうぐん)の歌

    -巻三・454・455・456・457・458   の5首

人生後半の5年間は、あわただしい 日時であったことがわかります


よろしくお願いします。


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