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昨年までの 風景(18)

<千葉県習志野市大久保屋敷>

娘も幼稚園にあがる頃 社宅の同級生は女の子3人男の子1人いた。   今まで、社宅の中での世界で完結していたので 地域状況音痴の私たちは 私立の「みもみ幼稚園」に全員行くことになった。しかし、残念なことに 最初は いい感じだったのが、だんだん親の競争意識が出てくるようになった。 どなたも社宅生活を経験してられる方は ご存知と思うが、グループの中で 一人ボスなる存在を占める人が出てくる。そういう人が現れると、その人に追従する人が必ず出てくるのだ。出来たばかりの社宅に せ~の!で入居した新婚さん、同じ位置づけの夫君にそろそろ出世の凸凹が出始めることも合わさって、かなりシビアなム―ドになっていく。 が、この話は 置いといて…

その頃 社宅の一番端の列5軒に 突然「家を買って 出るように!」とのお達しが出た。なんで?といえば、習志野の社宅は 破竹の勢いで伸びている白物家電の会社の社宅という。一列5軒の私達は なんと、間借りだったとわかり、早々に 駅寄りの社宅の近くで 家をみつけて引っ越すことになった。 


<はじめての持ち家>

私達は はじめて「我が家」なる持ち家に住んだ。 娘小学2年生息子幼稚園入に入ったばかりの春だった。社宅から近かった沼の向こうに広がる畑に古い町並みの入口辺り。畑があり その畑の一画を宅地として6軒分の区画をとった中 5軒の家が建てられていた。私たちは最後の一軒を決めたことになる。おかげで 後の一軒分の空き地は、ラッキーなことに我が家の隣で 太陽の光を注ぐ有難い場所になっていた。

道路沿いの白い塀から見えるちいさな芝生。門扉の側の小さな物置小屋は 娘が手伝って出来たもの。その芝生を前に四・五畳の小さな洋室があり、その背後に六畳の和室そして、すぐ横に 板張りの四・五畳のキッチンがあった。二階は六畳二間で 子供達と夫婦の寝室になった。         小さい洋室だったが 社宅から運んで来たピアノを置き、千葉のデパートで四点セットを買い求め、私は刺繍にはまった。 もともと娘が幼稚園に通うためにいろいろな持ち物に刺繍したばかりだったので、「戸塚刺繍」の本を買い求め 社宅の人と始めた。「戸塚刺繍」はとても凝った刺し方で、最初文章が理解できず難儀だったがようやく ピアノカバーを仕上げた。この刺繍のカバーは 今もこの部屋でピアノを引き立たせている。何十年経って、色は褪せているけれど、なんと長持ちなのかと感心する。この家での思い出は生涯忘れることは出来ない充実した二年半だった。


<思い出>

洗濯物を干している時 かすかにマイクで「二等00##さ~ん!」と聞こえたような気がした。それは娘の名前のようだったが、そのあと何も聞こえなかったのでそのままになっていた。後で知ったのだが、その時長距離競争で二等をとっていたとの事。なんで聞いてやらなかったのか悔やんでも悔やみきれない。 幼稚園の時も猿渡鉄棒がクラスで一番に出来ていたというのに私は知らなかった。話を聞いても話さなかったのは 私がよろこび褒めてあげなかったことに由縁する。私もそのようにして ほめてもらったことがなかったからなのか…

一軒家に住み始めてから 私は墨絵を「サロン・デ・ボザール」という通信ではじめた。しかし、幼稚園の息子は友達を数人連れてくる。 それも墨絵の前の精神統一をした途端 バタバタと泥んこ足でなだれ込むのだ。その上三か月に一回、新宿まで通わなければならず それはいくら考えても無理なので やはり通信もあきらめた。

子供達に短い間だったけど、寝る前にお話を読み聞かせることも出来た。 楽しかった。 子供達は「吉四六(きっちょむ)さん」が好きで、読み方が面白かったのか、ゲラゲラ笑ってこれは何回もせがまれた。

社宅での精神的な苦痛を「転居するまでの辛抱!」と決め込んで がまんしていたのが、転居して間もなく「メヌエル氏病」として 突発性のめまいとして現れた。延々「津田沼の耳鼻科」まで毎日通うことになった。私、三十三才~三十四才の厄年だった。

そして、大阪単身赴任して家を探していた夫から「家が見つかった」と連絡が入る。

転居の前ご近所のみなさんに あの当時流行ったタオル掛けを刺繍した。 何個作ったのか忘れたが 荒い目のクロスステッチのお人形を かなりの数を作った。そこで二人の子供に手伝ってもらったけど その時驚いたことは 娘より息子の方が一生懸命で早く作ったことだった。

九月のお月見は 散歩をしながら、ススキや萩を探して、月見団子をこしらえてお供えした。その時の 中秋の満月のすがすがしい夜の空は もう二度とこちらでは見ることが出来ないお月見だった。

社宅の三階で居た時、息子は三輪車もこげなかった。一軒家に移ってからあっという間に三輪車どころか自転車まで乗れるようになった。ある時社宅の人から、息子が 三~四人の子供たちと補助輪をつけたまま自転車で 国道を走っていたとの情報が入ったけど、私は黙認した。 

息子が 帰宅時間を守らなかった時のことを 娘が作文で書いていた。  「時計を見ながら おかあさんが心配していた。あんまりおそいので ごはんをたべていると 弟がかえってきた。 弟の声にお母さんは『だれ?うちの子はもうみんな帰ってきてごはんを食べてるよ~』といいました。弟は泣きながら二階へ上がっていきました。私は心配になって弟にお母さんにあやまっといで!と言いました。弟はあやまりにいきました。私も約束はまもろうとおもいました。」 なかなか、りっぱなおかあさんですねえ。と、いう 先生の赤い字が 胸に突き刺さった。私はこんな冷たい母親だったのか~? と 自分で驚いている。 


<バレー青い鳥>

新しい家の坂道を下ったところに「大園バレー団」があった。娘が「バレーをしたい」といったので、バレーを習わすことにした。バレーを習いはじめて二年目の発表会の演目が「青い鳥」だった。 娘がなんとチルチルミチルのミチルに選ばれたのだ。自信のない母親の私は 先生にたづねていた。「こんな 大役できるでしょうか?」っと、先生が私の目を見つめながら おっしゃった「才能のある子は 大役も大丈夫!こなせますよ」と。         その頃幼稚園に通い始めた息子は 病気のオンパレードだった。だれしもそうだったので仕方がないにしても バレーの付き添いや衣装づくりが大変だった。しかし、発表会の時のお化粧も私がしてあげられて、娘はとても可愛くきれいだった。今でもあの写真を見て娘を誇らしく思う。しかし、残念なことに、あれから続けるも 三度目の発表会を待たずして 大阪に転勤することになった。


<八千代台のプール>

転勤の命が出て一年間、夫は単身赴任しながら 家を探すことになった。 夫単身赴任の間、私は 八千代台にある市民プールに子供達をよく連れていった。水が苦手な娘にプールを好きになって欲しかったのと 私自身プールが大好きだったから…。元々水遊びがすきだった私なのに 飛び込みが出来なかった。それが高校の時、市民プールでボ~っと立っていたのか誰かに背中を突かれて落ちたのがきっかけになって 飛び込む快感を知った。そこは三メートルの深い場所だった。よく映像に出てくるのとまったく同じシーンが目の前に広がる。ざぶん!と水に落とされた時のあの肌感触、白い細かな泡と自分の吐く息の泡、ボコボコッと耳もとで鳴る水の音、もがきながら浮き上がっていく自分の体、そして プハッと水から出た時吹き出る息、それはまるでイルカのように頭をだした瞬間の快感! それが忘れられなくて それからというもの 自ら飛び込むようになった。そんな快感を少しでも!体感して欲しくって…

朝、お弁当のおにぎりを作って すぐに出かけた。自転車の前に息子を後ろにバッグをかかえた娘を乗せて ピーナツ畑を一目散に!朝、一番の入園は気持ちがよかった。火照った体に冷たいプールの水。この水は地下水?娘に潜る楽しさを知ってほしかった。昼のおにぎりを食べ、途中息子がお昼寝をしている間も 流水プールを一回りして「まだ、寝てるから もう一回まわってこようか?出来る?」「うん!」ということで、また一回りする。そんなこんなで「ホタルの光」が流れる迄。夕陽を背に大久保駅に着くと 馴染みの中華屋さんに入りぺこぺこのお腹を満たした。大阪へ来てから「よく お母さんプールへ連れてくれたね~」と 娘が憶えてくれていたことは 今の私には 大きな救いの記憶です。

まだまだ 千葉県習志野の思い出は 尽きないけれど一旦 終わりにしようと思います。この「昨年までの 風景(15)~(18)」は 私にとって「巡礼の旅」に  なったような気がします。長い間、お付き合いくださいましたこと、幾重にも 感謝しております。ありがとうございました。 

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