会員制の粉雪〜音が舞う〜
毎日会社と家の往復だった。
歌手になるため上京した。三十歳までにはと思っていたが、オーディションに通過することはなかった。
実家に帰ることも考えたが、諦め悪く東京にいる。
「兄さん、飲みに行かない?」
東京の大手IT企業で働く弟から連絡がきた時、転職を考えている最中だった。
「いいよ」
断る理由はない。だが、気乗りしない。
弟を見ていると自分が惨めになる。
「兄さんも気に入ると思う」
地下にある重々しい扉の前で弟の会員証を見せて中に入る。
眼前に広がる光景と耳に届く音に体と思考が停止する。
「音が粉雪になるんだって」
間接照明に照らされた粉雪が落ちてくる。
店内奥には小さなステージがあり、絶えず誰かが歌っている。
「兄さんも歌う?」
戸惑うのを無視して、弟が店員に声をかける。
店員がステージに案内してくれた。
ちらほらといるお客さんはステージを見ていない。
緊張しながらも声を出す。
澄んだ高音と安定した低音ボイス、音にも表情をつける。ひとつひとつ言葉を丁寧に音にする。
粉雪が輝きを増してステージに色を添える。
嬉々とした弟の表情がステージからはよく見えた。
マスターから専属契約の話を持ち掛けられ快諾したことは言うまでもない。
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