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初恋【中学生、体育祭】


僕の初恋はいつだっただろう。


そう、中学1年生の頃だ。
入学して間もない頃、途方もなく惹きつけられた、あの時、あの女の子だ。


彼女は自己主張をしない物静かなタイプで、絵が上手だった。
もし10代の時の大和撫子は誰だったかと論じる機会があれば、当時の熱量を持って、僕は彼女の名前をあげるだろう。いや、むしろそれ以外にない。


彼女は美術部に入るらしかった。ならば僕もそうしたかったが、しかしそうもいかなかった。美術部には女性しかいなかったからだ。自分に自信がなく、たじたじだった僕が、女の子ばかりの空間に飛び込むことは躊躇われた。自主規制に従って、できなかった。
結局、バレーボール部に入ることになったのだが、僕はこのことを思い出すと、今でもたじろいでしまう。




2年後、転機が訪れる。
中学3年生の始業式、つまり3年生の組分けが明らかになるその時。僕は静かに歓喜した。あの子と同じクラスだ。



「組分けは爆発だ!」




爆発というと、ものすごく大袈裟で凄惨な事態をイメージするけれど、実際はそうじゃない。





それは驚くほどの静寂である。しかしそれでいて強烈な波紋を生み出す心理現象だ。





我々の世界における物理法則とは画一した現象であるのだ。いやむしろこれは、より高次元での出来事だから、画ニ、画三……画Nした現象かもしれなかった。


これほどのインパクトを受けたから、26歳である今、12年の歳月を経てもこの時の衝撃を文字に起こすことができてしまうのだ。



僕は中学3年間のどの思い出、どの体験よりも先立って、彼女を見ていたことしか思い出せない。友情よりも恋心を優先してしまう不義理なやつなのだ。すまない友よ。



好きな女の子と同じクラスになる。これは一大事だ。



当時の僕は女の子と付き合うとか、手を繋ぎたいとか、そういった欲望を持っていなかったから、同じクラスになるというただそれだけで、目標達成に至ってしまったのだ。




また組分けという自動的なイベントによって、自動的に目的が果たされたことによって、むしろ自分を見失ってしまうものなのだ。だから、この瞬間に僕は、天に昇ったような無気力感も同時に味わうことになった。ある種の燃え尽きと言ってもいい。




そして僕は、2度目の昇天を迎えることとなる。
体育祭だ。


体育祭というのは、クラスが一同になって共同となる青春のイベントのことだ。
僕らは各々の持ち味を活かして各ポストにつく。


それは応援団だったり、クラスのシンボルであるバックボード制作だったり、競技指導だったりする。


僕はバックボード制作に抜擢された。しかも1年生の頃から片思いしていたあの子と2人で。


いや、他にあと2人いたはずだけれど、悪いけど思い出せない。だから始めに言っておいたのだ。すまない友よ、と。




それほどまでに衝撃的な至高体験だった。この出来事は、僕の自分史におけるセカンドインパクトとなった。




そして、この後が重要であり、それだけが肝要である。そう、テーマだ。バックボードをどんなデザインにするかということなのだ。この初動によって、夏休みのモチベーションが左右される。

僕らは意見を交わした。日本神話に出てくる神が良いのではないか。いや、グローバルな時代に合わせて、北欧神話の神にすべきだとか。ああでもないこうでもないと4人で雑巾絞りのようにアイデアを絞りあった。


絞りに絞りあって、最後に捻り出されたもの、それは戦国武将だった。
最後に彼女がそう言ったのだ。

「戦国BASARAとか」
「それだ!」


僕は彼女の意見を満場一致に仕立てるべく、あらゆる手を尽くした。

体育祭とは、いわゆる合戦だ。中学生であろうと、そこにあるのは血みどろの戦いであり、闘争なのだ。実際、毎年負傷者が出るのはそのためだ。僕らは戦国武将を描くべきだ。


戦国BASARAは無双の物語だ。やるならば、体育祭も徹底的に勝つ必要がある。その意味でもこれ以外の選択肢はないのだ。

やはり僕らは日本人なのだから、日本人をモチーフとして描くべきだ。どこの誰かもわからない神ではなく、人を描くべきなのだ。


とにかく、こじつけにこじつけ、論をこねくり回した。彼女の案の確証を得たいが為に、先手を打った。
彼女が「もういいよ」と言うまで攻撃に徹した。




それから、約1〜2ヶ月をかけて作業にあたることになる。



顔料の硬い缶を開けるのに失敗して床を汚したり。筆を走らせた先に彼女がいて、彼女の体操服を汚してしまったり。
作業に没頭するあまり、指が顔料で接着されてしまったり。




とにかく、言葉を交わしたと言うよりは、絵の具を通して、筆と刷毛を交わした。




表現というコミュニケーションに、言葉が必要ないことを知った。



僕らは文字通り、体育祭の準備期間を無双した。
結局、体育祭当日にバックボードで優勝、競技のトータルでも優勝することができた。




こうして、僕の初恋は、勝利と共に刻まれた。




しかし、物事はそれ自体よりも、その過程にこそ意義がある。体育祭で優勝したことよりも、好きな女の子と共同になれたことの方が何倍も重いのだ。


その意味で、体育祭当日の勝ち負けは僕にとって重要ではない。


好きな女の子と同じ場所、同じ目的、同じ想いを共有することでのみ、青春は成就された。



今の僕からすれば、なぜ告白しなかったのかと疑問に思うところであるが、当時の僕にそんな先のことまで考える脳はない。



ただそれだけに、ある気づきを得るに至った。
「人間の人間に対する情熱には、合理性や将来性などの介在する余地がない」



その瞬間に爆発的なインパクトを生み出す感動体験こそが肝要であり、それを感じることが重要だ。それ以外の理屈は後付けでしかない。体験は理屈ほどシンプルには通らない。





僕らは人を好きになった時、なぜ好きなのか。どこが好きなのかと問うことがある。しかしこれは愚問だ。



感覚的な事象を理屈でこね回してはいけない。そういう主義は酷くナンセンスだ。


それよりも、どれほどの感動なのか、どれほど重要な出来事なのか、それだけを知ればいい。


ただ、知ることが重要なのだ。

引用元

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