負けたら痛い、勝っても空しい。現代社会は未だ戦場である
ここ最近、人生に行き詰まりを感じる。
何をやっても喜べない。一切の空。孤独。
まさに袋小路に迷い込んだねずみのよう。
今いるここはなんなのだろう。
昭和型教育で育った、ゆとり世代の終着点かもしれない
学業と部活、職業と家庭、これまであらゆる競争にさらされてきた。これまで何も疑わず、考えることもなく、結果を出せない者は、努力不足なのだと競争に明け暮れてきた。
無論、心が休まることはいつもなかった。
小学2年くらいの頃、土曜日が休みになり、学習内容が少し変わった。そのせいで学力が下がったといわれるようになって久しい。
学力のみで競わず、柔軟な生きる力を育てるべく画策された、ゆとり教育というものだったらしい。
しかし社会に出たら、ゆとりは能力が不足しているだの、利益にならないなどと、わけのわからないことになっていた。
そこで初めて疑問を持った。なぜ結果を出さない者は人間性を評価されないのだろう。
そうか、彼らとは生きた時代が違ったのだ。
力を求める社会の様相はやたらと歪に見えた。それは怒らないからやってみなさいと言われて、やっぱり怒られた時と同じ味がする。一体何を求められているのだろうと思った。
社会はおそろしい。お前は無能だから使い物にならないとか、こんなこともできないのかと言われた人たちを、これまでたくさん見てきた。
無能とはどの能力のことだろう。こんなこととはどんなことだろう。
これらの言葉は「お前には価値がない」と言っていることと同じではないだろうかと思った。単なる言葉の綾だと思ってよいのだろうか。
彼らとは見えているものが違うのだろうか。
疑問は日々膨らむ。
あるとき勇気を出して人を励ました。するとこんなことを言われた。「お前にはわからない」「情けはいらない」。
ならば僕にはわからない。情けも一切無駄だった。僕には他人の気持ちはよく分からない。
こんな集団の中にいると、誰が傷ついても自分が痛い。こんなところにはいたくない。
競争と勝利。その先は袋小路。それゆえにゆとりを求めたというのに、そこにもやはり、ゆとりはなかった。
戦争はまだ終わっていない。
1945年、日本はポツダム宣言を申し入れ、白旗を挙げたという。
それ以降国内では、戦争の恐ろしさと空しさを広く語り、平和こそ是とする思想を説いてきた。そういう動きがあった。
さて、戦争はなくなっただろうか?
平和になっただろうか?
確かに、人を殺すための武器はなくなったかもしれない。だが、戦場はいまだ無くなっていないと思う。
だから戦いが続いている。今度は他国との争いではなく、みにくい内輪もめである。彼らは武器ではなく、言葉で人を傷つける。
言論は武器にも勝ると聞いたことがある。ならば、心無い言葉こそ、刃物よりも鋭いと言える。これは相手を生かさず殺さず、戦意喪失させる形のない武器にもなる。手を汚すことをしなくていい分、良心も傷まない。
たった一度、人を殴れば捕まる。それは痛みを与え、死に繋がるからだ。
何度も何度も、人を無価値だ罵ってもよほどのことでない限り捕まらない。それは痛みを与え、死にもつながる。
戦いに明け暮れていた時の血がまだ収まらないのだと思う。
戦場よ、さらば
「武器よさらば」というヘミングウェイの作品がある。しかし、戦場にもまた別れを告げなければいけない。そこにいる限り、戦いは終わらないように思える。
僕はもう、戦場には戻らない。
能力や利益を超えた、美学のようなものを獲得したい。
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