小説 冬の訪問者 スミレの恋人 最終話
積雪に、反射した透明な朝日が、部屋に差しこんでいた。
一郎は目を覚ました。
(朝だ‥‥‥ 俺は生きているらしい‥‥‥)
体を伸ばしてみると、意外にも、しなやかに動くのだった。
一郎は、おそるおそるベッドから起き上がった。すると腰の痛みが消えていることに気がついた。昨日の苦痛がまるで嘘のように、体は回復している。
(まさか、すべて夢だったのだろうか‥‥‥ すべて夢か)
窓から、あたりの景色を見ると、雪はすでにやみ、銀世界がまぶしいほど光り輝いている。
彼はゆっくりと窓から離れると、サイドテーブルに置かれた花に、ようやく気がついた。
一輪のスミレだった。一郎はテーブルの花を、大切なものを扱うように、やさしく手にした。
スミレは不思議なことに、朝露にぬれている。
「夢じゃなかった‥‥‥」
あのユリのぬくもり、あの唇、すべて現実だった。そして、今もこの体のすみずみに彼女の息づかいが感じられるのだ。
スミレの朝露は、ユリと俺の涙の残りだと彼は思った。
月曜になり、一郎は自分が顧問をしている医療法人に出かけて、診察をしてもらった。念のため、感染症の検査もしたが、結果は陰性だった。
医師が一郎に処方したのは、シップ薬と痛み止めだけだった。
一郎は病院から戻ると、香奈子に言った。
「山形さん、宮浦さんの連絡先、わかるか?」
「宮浦さんって、あの事務所に来た人ですか?」
「そうだ」
「まだ受信歴が残っているから、わかります。どうするつもりですか?」
「宮浦さんの依頼を受けることにした。気が変わったんだ」
「ほんとですか」香奈子がすっとんきょうな声を上げた。
「そんな顔するなよ。早く調べてくれ。俺が電話する」
香奈子はびっくりした様子で、宮浦の携帯の番号を調べると、それを一郎に渡した。
翌日、一郎の法律事務所が朝開く時間より、少し早めに宮浦に来てもらった。その時間帯がちょうどあいていたからだ。
宮浦は娘の久美と二人で来た。
久美はおとなしい娘で、母親に寄り添うようにしていた。
一時間ほど話を聞いて、一郎はだいたいの構図がよめた。
おそらく社長の市川は、この不祥事を隠したいと思うだろうから、穏便にしようとして、徹底的に争うことはないだろうと一郎は思った。
話が終わると、宮浦親子は深々と一郎に頭を下げた。
「先生、本当にありかとうございます。これで安心して眠れます」
娘の久美は涙ぐんでいた。つらい思いをさんざんしたのだろう。
「宮浦さん、ひとつお聞きしたいんですが、私を推薦した人って誰ですか?」一郎は気になっていたことを聞いた。
「それが‥‥‥ 娘のことで悩んでいたときのことでした。亡くなった主人のお墓まいりに行こうと思って、花屋に立ち寄ったんです。私の様子がおかいしかったのか、そこの店員さんが声をかけてくれて、それで、つい、苦しいときだったので、いろいろとお話をしましたら、いい弁護士さんがいるって教えてくれたんです」
「そうですか」一郎は冷静な顔をして聞いていた。
「どんな店員さんでした?」と一郎は言った。
「その人ですか、マスクをしていても、とっても綺麗な人だとわかりました。でも不思議なことに、次に花屋に立ち寄ったときには、もういませんでした。先生、心当たりがありますか?」
一郎はふと笑った。
「そうですね。たぶん、私の知っている人だと思います」
宮浦親子が帰ったあと、香奈子が出したお茶を片付けるために、部屋に入って来た。
「先生、良かったですね」香奈子は感動しているようだった。
「なにがだ?」
「宮浦さん、すごく喜んで、私にも何度もお礼を言っていました」
「そうか」一郎もほっとしていた。
「でも先生、どうして気が変わったんですか?」
一郎は考え込んだふりをした。
「うーん、そうだな。週末に、昔読んだ童話を思い出したんだ」
「童話?」香奈子の目が見開いた。
「魔女に恋した男の話だ」
「はあ‥‥‥」香奈子は意味がわからず口をぽかんと開けた。
一郎はその顔を見て、くすりと笑った。
「山形さん、俺はこれから裁判所に、用事があるから行って来る」
「あ、はい」香奈子は真顔に戻った。なんだかわからないけど、まあ、いいや。
一郎はいつものように、黒い鞄を持つと、颯爽と事務所を出て行った。
ビルから出ると、明るい陽射しがあふれ、春が近くに来ていることを感じさせていた。
「遠く離れていても、いつもそばにあなたを感じている‥‥‥か」彼は空を見上げてささやいた。
そして車に乗り込むと、目的地に向かって走り出した。
世の中には、よくわからない人というものが存在しています。
突然あらわれた娘もそんな人の一人でした。
娘は実は魔女でした。その美しい魔女の娘は、ある青年に恋をしました。
でも、魔女の娘は人間とは結ばれることは、できなかったのでした。
そこで魔女の娘は、青年に魔法をかけました。
スミレを見ると、魔女の娘への愛と、そのときの青年の心が戻るようにと。
それは永遠にとけない魔法でした。
了
* ショートストーリー 花屋のユリ はこの作品の
プロローグにあたります。
作品掲載 「小説家になろう」
華やかなる追跡者
風の誘惑 他
「エブリスタ」
相続人
ガラスの靴をさがして ビルの片隅で