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空想と小説

 初めて空想をした日のことを今でも憶えています。それは小学校1年生の頃。両親が共働きだった僕は学童保育に入っていました。そこでは月に一度、子どもたちに100円のお小遣いを渡して好きなお店で好きにおやつを買ってよいという日がありました(なんて素晴らしい日!)。そんな「100円おやつ」の日に仲良くしてもらっていた3年生に連れられて、僕は駅前の暗い横丁に初めて足を踏み入れました。

 そこは八百屋さんや乾物屋さんなどが数軒あるだけの小さな横丁だったのですが、その中で子供の目に一際輝いて見えたのが駄菓子屋さん。今と違って、当時は100円でも結構な買い物ができました。なのに、そこで僕が買ったのはビックリマンチョコレートを3つ(創造性のカケラもないお金の使い方だなあ)。まだ爆発的に流行る前で、僕はビックリマンを知りませんでした。3年生が見せてくれたキラキラ輝くシールが格好良くて僕も買いました。おまけのシールはショボかったと思います。お守り2枚に悪魔1枚だったかなあ。

 そのシールを眺めている時に僕の頭の中で突如として「物語」が形成されました。物語といっても、たいしたものじゃないです。悪魔とお守りが戦っているくらいなものです。だけど、僕の脳はシールのキャラクターに留まらず、次々と新しくキャラクターを創造しはじめ、新たな世界を作りだし、物語が膨らませていきました。気づけばビックリマン以外の、完全にオリジナルと言ってよい物語も作りだしていました。

 これが僕の中でエポックメイキングになりました。それまで、キン消し(キン肉マン消しゴム)を使ってお人形遊びをしていたのですが、人形を使わずとも、頭のなかで架空のキャラクターで架空のお話しで「世界」が作れるということに気づいたのです。
 といっても別にカミナリが落ちたというような激烈な体験ではなかった。僕はそれを当たり前のように受け入れました。みなさんもきっとそうだったんじゃないかと思います。

 あの日の体験から40年近く経ちましたが、今でも僕は空想に耽っています。たぶん空想をしなかった日は1日もないんじゃないかと思います。

 ひとりっ子だった僕には空想はよい友人になりました。その友人を得たことにより、僕はどこにいたって、ひとりだって、寂しさを感じることはあまりなかったように思います。もしかしたら、空想は子供の心を守る防御機構みたいなものなのかもしれません。

 こう書くと、僕はいつも空想に耽っていつもぼーっとしていたとか、授業中に先生の話しを聞いていない子供だったんじゃないかと思われるかもしれませんが、実のところそんなことはなかったです(周囲がどう思っていたかは知るよしがありませんが)。頭の中の物語は、ちょっとした空き時間に、ひとりの時に、むくむくと首をもたげてくるのです。
 むしろ大人になってからの方が空想に耽る時間は長くなりました。ひとりでいる時間が増えたからでしょう。また、体を動かしている方が空想の世界に没入しやすいことにも気がつきました。近年では、空想に浸りたいがために運動したりするほどです。

 どんな空想をしているかというと、魍魎が闊歩する侍たちの時代、地球とはまったく異なる進化の過程を経た異星、銃弾が飛び交う戦場、意識を持った素粒子が高速で駆け抜けていく世界などなど。
 ひとつの空想は長続きしません。ある空想がだいたい2、3日程度続き、また別のものに置き換えられる傾向があるようです。
 そんななかで、僕には10年近く続けている、シリーズとも呼べる空想がひとつあります。それは世代間宇宙船のお話しなのですが、こちらは別の機会に詳しく書きたいと思っています。

 前置きが長くなりましたが、ようやく今回の本題に入りたいと思います。

 僕は2023年から小説を書くようになりました。きっかけは村上春樹さんブームが自分の中で再来して、いくつかの小説を立て続けに読み返したこと。なぜだか僕にも小説が書けるんじゃないかと思ったんです(すごく烏滸がましいのですが)。
 書けるんじゃないかと思ったことに特段の理由はありません。僕にも書けると思ってしまったのです。
 強いて言えば、村上春樹さんの日常に潜む非日常的な物語に強く惹かれたんだと思います。僕の非日常的な空想の世界を誰かに読んでもらえるカタチで外に出してみたくなったのだと思います。

 いくつかの小説を書いてみて僕なりにわかったことがあります。それは空想と小説は似て非なるものということ。空想はどこまでも自分の感性を広げていくものですが、あくまでも自分のコントロール下にある。小説は登場人物が勝手に動きはじめて制御できないものと感じました。命がそこにあるように彼女/彼らは動きだすのです。

 でも、脳の使う領域は重なっているようで、空想に耽りながら小説はかけないようなのです。なので小説を書いている時期は空想は(時には妄想も)ほとんどお留守になりました。反対に楽しい空想や淫靡は妄想にのめり込んでいるような時期は小説はひとつも書けない。たぶん僕は脳のリソースを上手く振り分けることができないんでしょう。

 では小説を書く上で空想は邪魔な存在なのかというと、そんなことはない。空想は思考の柔軟性とキャパシティを拡げてくれると思っています。
 それに、小説を書き始める時も空想は大いに役立ちます。物語の世界観や登場人物を考えるとき、僕は空想に耽ります。そこから空想の域を突き破って、登場人物たちが勝手に動きだせばこっちのもの。あとは彼女/彼らが小説をどこかに連れて行ってくれるでしょう。

 特段の理由もなく小説を書きはじめてしまった僕ですが、これからずっと小説を書き続けるんじゃないかという予感がしています。それが世間に受け入れられるか受け入れられないかは、もっと言ってしまえば売れるか売れないかは大きな問題ではありません(本音を言えばお金は欲しい)。
 小説を書くのは、突き詰めて考えると自分のためです。でも、空想が僕にずっと寄り添ってくれたように、僕の書く小説がたった1人でもいい、誰かに寄り添うことができるんじゃないかとも思っています。そうだったらいいな。


写真は実家の愛猫:マイコさん(雄)です

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