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People In The Boxの『Camera Obscura』のドッペルゲンガー的仕掛けについての覚え書き

■はじめに

People In The Boxの新アルバム『Camera Obscura』が5月10日にリリースされた。
一聴した感想としてはバンドが長年研ぎ澄まして来たポストロックのサウンドを再解釈/再構成しながら同時に大文字の「ポップミュージック」としても聴くことのできる、複雑とシンプルさの両面を兼ね備えた傑作だと感じた。
ただし、今回触れたいのはアルバムそのものについてではない。
アルバム冒頭曲の「DPPLGENGR」、そしてラストを飾る「カセットテープ」の2曲に施されたミステリー的な仕掛けについてメモを残しておこうと思ったからだ。

さて今作だが、一聴して分かるようにアルバム1曲目の「DPPLGNGR」と最終曲の「カセットテープ」には関連性がある。

「DPPLGNGR」のイントロ部分で耳に飛び込んでくるのは、禍々しいディストーションがかった周期的なシンセベースのループフレーズだ。
一方、「カセットテープ」は最初こそ軽快にスタッカートするピアノが印象的なポップソングだが、楽曲の終結部分で途端にノイズが濃くなり、やがて全く別のフレーズが顔を覗かせる。そしてこれがよく聞くと「DPPLGNGR」のイントロ部分で鳴っていたループフレーズと同じものになっている。
つまりアルバム全体のイントロとアウトロが同一のフレーズで結ばれる構造を持つことで、アルバムの世界そのものがループする仕組みになっているのだ。

とは言っても、こうした円環的な構造を持った作品は珍しいものではない。スマッシング・パンプキンズの『メロンコリーそして終りのない悲しみ』やフランク・オーシャン『Blonde』など、過去の名作で類似の構造を持ったものはいくつも想起できる。
一方でPeople In The Boxの『Camera Obscura』にはそうしたループを繋ぐ構造に加え、とある興味深い仕掛けが施されている。
結論から言うと、それは「DPPLGENGR」に現れる「上書き」という仕組みである。

■「DPPLGENGR」の楽曲内容について

まず楽曲の構成を大まかに確認してみよう。展開をまとめると以下のようになる。
イントロ(0:00~1:25)→Aメロ(1:25~2:10)→Bメロ(2:10~3:15)→Aメロ(3:15~4:00)→Bメロ(4:00~4:20)→間奏(4:20~4:30)→Aメロ(4:30~)

なおAメロ、Bメロとここでは言っているが、どちらかと言うとメロディのモチーフが2つ存在し、それを交互に配置しているというイメージの方が近い。また、イントロ(0:00~1:25)と間奏(4:20~4:30)では前述のシンセベースのフレーズが中心に置かれ曲が展開する。

では、次にフレーズの確認だ。「DPPLGNGR」イントロと「カセットテープ」アウトロで聞こえるシンセベースのループフレーズだが、大まかなメロディは以下のようになっている。

score1:シンセベースフレーズ(イントロ)

ここで注目してほしいのは細かい音程ではなく、その音の流れ/造形にある。このフレーズは各ブロックの形そのものを大きく捉えると、下に矢印で記すように、左上から右下に傾斜するような「下降型」のパターンを有している。このシルエットだけ覚えておいてほしい。

シンセベースフレーズ(イントロ)は下降形のシルエットを持つ

イントロを経過し、一転してディストーションで歪んだ激しいAメロが掻き鳴らされると、今度は映画のカットが切り替わるように、ピアノのアルペジオが美しい伸びやかなBメロのパートに展開する。内省的で混沌としたそれまでに対比して、ここの展開やメロディは眩い解放感とどこか虚で幻覚的なイメージを感じさせる。
さて、Bメロの骨子となるピアノのメロディを採譜したものが以下になる。


score2:ピアノフレーズ

ここでも一個一個の音符ではなく音の流れ、シルエットに注目してほしい。イントロのシンセベースとは異なり、こちらのメロディは各ブロックごとを見ていくと、いくつもの山なりの動きを繰り返していることがわかるだろうか。

ピアノフレーズは山なりに動く。

さらに楽曲はもう一巡Aメロ、Bメロを経過し、間奏で再びイントロで聞こえていたシンセベースのフレーズが現れる。
しかし、音色やフレーズの形式こそ同じものではあるが、よく聞くとそれは冒頭のものとはパターンがわずかに異なっている。
このパートはいくつも音が重なっているため、正確な音程を取りづらく申し訳ないが、大まかに表すと間奏のシンセベースのフレーズ以下のようになる。こちらも先ほど同様、その形を見てもらいたい。

score3:シンセベースフレーズ(間奏)

こちらも動きを矢印で示すと以下になる。そう、Bメロのあの美しいピアノフレーズと同様、山なりの動きをしていることがわかるだろうか。

シンセベースフレーズ(間奏)の動き。山なりの動き。

では、ここで改めてイントロと間奏のシンセベースのフレーズがどのような変化を遂げたのか比較してみよう。

score1:シンセベースフレーズ(イントロ)
score3:シンセベースフレーズ(間奏)

2つのシルエットを比べると分かるが、最初に現れたフレーズは坂のような形をしていたのに対して、間奏のフレーズではBメロに現れたピアノのパターンと相似形を為すように山なりを描く。いわば、ここでフレーズの造形の「上書き」が行われているのだ。

要点をまとめよう。
「カセットテープ」アウトロ~「DPPLGNGR」イントロで繋がっていたシンセベースのループは、Bメロのピアノが持つフレーズの鮮烈な印象を経由した後、間奏部分では「似ているがよく聞くと別のフレーズ」に書き変わる。それは一瞬先ほどまでのものと同じものように見えるが、しかし明らかに別質に切り替わった「何か」だ。

つまり楽曲内で、曲タイトルの「DPPLGNGR」=ドッペルゲンガー的な現象そのものが起きているのだ。

この問題の間奏部分で、ボーカルの波多野氏は「また会えたね」と一見希望に満ちた歌詞を歌っている。しかし間奏の終了と共に、その希望の糸を切断するように「別人だよ」という宣言を告げる。
この言葉は単にドッペルゲンガーという存在を示唆するだけでなく、アルバムの世界をループさせていたはずのフレーズ/因子そのものが別のものにすり替わってしまっている事実とも重なって見えてくる仕組みとなっているのだ。

■変質するフレーズの謎

では、このフレーズは一体何を意味しているのだろう?ここからは単なる推測でしかないが、これは歌詞の主人公の「記憶」を表しているものではないかと思う。

このフレーズはもともと「カセットテープ」のアウトロから流れ出てきたものだ。
カセットテープという曲は歌詞を見ると「カセットをセットして初めて音楽を聴く/ラットは何度も何度もレバー押し続ける」「毎晩悪夢でおかしいよ(中略)さて、そろそろお時間です、なんて」という言葉が並ぶ。

これはおそらく、何かしらの悪夢のようなシチュエーションを何度も繰り返し、その度に記憶をリセットされる人物のことを歌っているのだろう。それはまさにカセットテープのリールを巻き戻す行為に似ている。
同時にその世界観は、今回のアルバムが持つループ構造そのものにも当てはめて考えていいだろう。

しかし一方で、「DPPLGNGR」は先述のとおりフレーズが上書きされる。
まるでそれはカセットテープが何度も何度も巻き戻すことでテープが劣化し、元の音からかけ離れた何か別の音像を獲得する瞬間に似た現象だ。

記憶はループを重ねることで変質し、同じだった筈のものが、いつの間にかよく似た別人の記憶のようにすり替わってしまっている。
つまり、ここでドッペルゲンガーは外的な世界で自分によく似た誰かを「見かける」のではなく、内的な記憶の中で、もはや自分が「かつての自分とよく似た別人」となってしまった事実に「気がつく」ようなものとして描かれている。


■終わりに
人間は自分自身の顔を自分の眼では捉えられず、鏡ですらそれは反転した像になる。他人から見えている正しい自分の姿は、自分が写った写真を見ることでしか確認できない。
裏を返せば自身の姿形の認識は、「カメラオブスキュラ」の発明後——近代的な技術によって初めて成り立ったと言ってもいいだろう。

私たちの像は技術の中で転写され、そして同時に技術によって劣化し、複製され、多義的に移ろう。その度に確かにここにあったはずの自己と呼んでいたものは揺らぎ、その歪みの中に私たちのドッペルゲンガーは立ち現れる。

それはまるで「また会えたね」と聴く自分に、紛れもない自分自身が「別人だよ」と答え続ける、奇妙な繰り返しの喜劇だ。もっとも、そのループは永遠のようでいて、その癖すぐに劣化してしまう空虚な円環にすぎないのだが……。



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