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物語構成読み解き物語・24

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「暗夜行路」の読み解きするにあたって、流石に大作なので他人の批評を読んだ。まずはネットで批評を漁った。宮越勉という人の読み解きが一番優れているように感じた。本になっているのだが、絶版のようである。珍しく身銭を切って古本で購入した。

そもそも、本をあまり買わない。図書館派である。金の節約である。買う場合にはKindleが主役である。それでも実物の本が少しづつ溜まってゆく。そこで定期的に易姓革命を発動する。大量に捨てるのである。捨てたくないという気持ちと戦って、乾坤一擲、気合を入れて捨てる。ブックオフには出さない。捨てなければならないのだ。過去との決別というやつだ。凄い快感である。それを快感と思えるほどには、自分は本が好きなんだろう。

捨てるのは、それが身の丈だと思っているからである。記憶力の良い人は蔵書を沢山貯めても良い。むしろ貯めることをお勧めしたい。しかし私の頼りないおつむだとそれが無理そうなのである。ある日、蔵書に本体が負ける感じがして、以降捨てることに熱心になった。蔵書は所有者を支配する。強すぎる飼い犬はやがて飼い主を食い殺す。

文学含む文化資産も同じだと思う。私達は日本伝統の、ということは中国とインドを含めた文化伝統を受け継いで、なおかつ明治以降西洋文化を大量に輸入した。生活の周りが文化にみちみちている。大変結構なことである。しかしあんまり整理していない本棚になっているとも思う。本棚に比べて本の量が多すぎる気がする。時々肥満しすぎて寝室から出られなくなった人のニュースが流れるが、実は日本人は文化的にはそんな状況ではないかと思っている。過剰なのがカロリーか情報かの違いだけである。

過剰な情報の弊害を抑えるにはどうすればよいか。十分な理解と整理である。文学で言えば、読み解きである。ところが宮越勉も蓮實重彦(こちらは図書館にあった)も、一見読み解きしているようで、その実なんにも整理になっていない。かえって情報増えている。で、作成した表をこねくり回して1ヶ月、なんとなく見えてきたのは例によって例のごとく、「連中なんにも読めていなかったんだな」という定番のオチである。読み解きやっていると何度も有る事件なんですがね。今回はわかりやすくそうでした。

だいたい志賀本人があとがきに書いている。「伏線をいくつか張ったが、中途で書くことが二三度途絶えたりしたので、伏線倒れに終わるのではないかしらという多少の不安を感じた事もある。が、通読して見て、それ程でなかったので満足している」。

だったら読解には伏線発見が必須でしょう。両氏も少しは伏線を意識はしている。でもろくに発見できていない。志賀の書き方も良くはなく、伏線倒れの部分も確かにある。しかし最低限の伏線を見つけなければ、読解したうちには入らない。これは一種のスキャンダルなのである。もっとも作者も評論家も地味なおじさんなのでスキャンダルとしての価値が低い。大きな問題起こしてさえ芸能界のような華やかさが欠落するのが文學界のつらいところだ。

私の知る限り「暗夜行路」は、内面問題克服物語として理解されてきた。心のしこりを解消する物語である。間違いではない。ただその内面問題が単純に作者個人の問題であってほぼ普遍性がない性質と理解されてきたのが間違いであった。
作家が世間に作品を問う場合、問題として取り上げるのは、世間一般の事象のはずである。本作は日本の生活風俗を問題にしているのだが、作者は個人の問題かのように表現した。そして読者はそれ以上探求しなかった。探求しなくても、つまり明示的に言語化しなくても、構成の見事さや伏線の緻密さはおのずから感じられ、末尾の結論は日本人なら直感的に理解できる。だから名作の誉高かったのだが、具体的にどこが名作かという探求はされていなかった。

ある程度の解読すれば、実はかなりユーモラスな、コミカルな、活発な、軽薄さすらある、楽しい物語になっていることがわかる。感触はサラリーマンドタバタ喜劇に近い。夜這いのルートを「暗夜行路」と言い換えるのだから、喜劇だろう。


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