金文から見た論語
死ぬまでには論語の読み解きしたいと考えているが、全く進捗しないのは漢文もろくに読めないからである。つまり無茶なのだが、夢というのは往々にして無茶だから価値があるのである。
最近面白い研究サイトを発見したので、今回はその紹介である。著者は書家。サイトスピードが歴史遺産級に遅いので、その点は要注意である。私は手元に全文コピーして読み返している。
http://www.seikeikai.net/essay/date_12-10-2010.html
以下雑に要点しるす。
1、そもそも論語には、盲人の話、音楽の話は出てくるが、字を書く話がほとんどない。弟子が袖に書きつけた、くらいしかネタがない。要するに連中はさのみ字を書いていない。
2、甲骨→金文→篆書→隷書→楷書と漢字は変化する。
孔子の春秋時代には金文体で書かれていた。戦国時代から篆書が始まるが、各国で書体がまちまち、秦の始皇帝が書体を統一したが、秦がすぐに滅亡したから統一性はすぐに失われた。やがて隷書体でほぼ統一されたのちに楷書が成立するが、これは紙の発明を受けての変化である。今日確認できる古い論語は隷書で書かれている。
ところが隷書と金文では字が違いすぎる。金文で書いてみるとどうなるか。意味がまるで違ってくる。
3、冒頭の
「學而時習之。不亦説乎。」
通常は
「勉強してまた復習、喜ばしい」
と解釈する。
書家が金文に書き直して読むとまるで違った意味になる。
「いわゆる學殿に起居して、呪詛などを繰り返し行っている巫祝の徒は、己れを失った忘我の状態にある。これはあやうくはないかね。(私たちの学はこれとは正反対だね。) 」
色々論語関係は読んできたが、ぶっ飛び係数ではダントツの一位である。書物としての「論語」の研究というよりは、孔子という人物がどういう発言をしたかを探る旅なのだが、漢字が大幅に変化している以上、こういうアプローチも必要なはずである。
以前は、
読んでいた。こちらも大変革新的で、「公冶長と孔子は身分が孔子が下すぎて話せない」「王と話したというエピソードは恐らく全部ウソ」。しかし今回の金文置き換えは、それ以上のインパクトである。
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