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物語構成読み解き物語・13

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ワーグナーは「ニーベルングの指環」で通貨発行権を問題にした。

ではワーグナーはなにを参照したか。通貨発行権を取り上げた文学として先立つ作品は「ファウスト」しかない。それで次に「ファウスト」やろうと思った。そのために「ヨブ記」と「夏の夜の夢」を先にやっておこうと思った。「ファウスト」が難解なのは以前に一度読んだ時からわかっていたからである。第一部はすっきり理解できたが、第二部はさっぱりわからなかった。素手では登れないと見当がついていたが、下敷き研究きっちりやると六合目からの富士登山になる。それくらいでないと私の弱足では登りきれない。

しかし「ヨブ記」なんぞ文学ファンが読めたものではない。解説も出版されているのだが、解説している人もどうも良くわかっていないようである。信仰心がたっぷりないと、こういう宗教作品ははじめっから読む気がしない。ヨブ記の解説書くような人物は、ディープなクリスチャンに決まっている。だから信仰告白にはなっているが、作品解説には絶対にならない。なるはずがない。テキストに対して客観的になることが出来ないからである。仏典だってろくすっぽ信仰心がない富永仲基ではじめて客観的に読めるようになった。
仕方がないから大幅に文章削っていって、なんとなく戦略が見えたのでよしとした。私見では「ヨブ記」は深遠な哲学、信仰を内包していない。単なる宣伝文句の羅列である。特に中間部に顕著で、出来が悪い。しかしバイブルに対して「出来が悪い」というのは、なかなかハードルが高い。全部が神の言葉ということになっているからである。そのヨブ記がこれほどまでに有名なのは、「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も」等々のインパクトの強い表現のおかげである。文学的には見るべきものは十分ある。無駄が多すぎるのが難点だが。

ついでに富永仲基紹介しておく。読み解き業界(なんてものは存在しないのだが、寂しいのででっちあげて楽しむことにしている)で重要なキャラである。江戸時代の人である。
江戸時代は町人たちが自由な学問をした。それらは西洋の学問と十分互角以上にはりあえるオリジナリティの高いものだった。
富永は仏教を研究した。なぜ釈迦は輪廻からの解脱を唱えたか考えた。それ以前の教祖が「私を信じればより高いランクに生まれ変われる」競争をしたからである。競争が極限に到達し、それ以上に行こうとするともはや出来ることがなくなった。残ったのは「輪廻競争からの脱落」くらいである。しかし脱落では負け犬くさいので「解脱」とよんでいる。私なりに富永説を紹介するとこうなる。

この仮説は不遜ではある。しかし読むとはこういうものなのである。これ以外の読み方はない。江戸時代の在野の日本人たちは、自分たちの言葉で自分なりに考えた。権威にすがらず、裸一貫のカラダを物事に直接ぶつけることで、自分なりの結論を導き出していた。中国文明の理解も(徂徠)、インド文明の理解も(仲基)、西洋文明の理解も(玄白)、日本の古い時代の理解も(国学者たち)、少ない手持ちの材料ながら、思考と探求を繰り返して誰にも頼らず掘り進めていった。銛一本持ってクジラの背中に飛び乗る連中である。痛快極まる。

現在ネットで経済論じている人々は、ほぼこの雰囲気が再現できている。危険にしてダイナミックな探求の世界である。一方で経済学部教授などという連中は、なんの創造性もなく財政破綻論を繰り返している。ほとんど同じ民族とは思えない。では江戸時代の在野ではない、つまり幕府やら藩で学問やっている連中がなにをしていたかというと、「朱熹は権威なので従わなければならない、なぜなら権威だからだ」みたいななんの探究心もないことを繰り返していたわけで、実は今日の状況と同じである。つまり現在のこのような棲み分け状況は江戸時代のほぼ忠実な再現であり、再現された以上これがわが民族の正常な状態と判断せざるをえないのである、残念だが。権威主義は捨てられない、さりとて創造性も捨てられない、正月には神社に参拝し、葬式には坊さんを呼ぶような使い分けがどうも体質的に合っているようである。

話戻って富永より遅れて西洋社会でも、キリスト教文献に対する血も涙も信仰心もない研究がはじまり、今も続いている。するとどうなるか。聖書研究家がクリスチャンを辞めてしまうという事件が起こったりする。読解はどうしても信仰心を削り落とす。

経典宗教は文字を広めるために存在する、というのが私の見方である。文字のうち数字を広めるために存在するのが商業、交易であるように。だから宗教の宣伝手法は私から見れば商業と同じである。
「儲かりまっせ、儲かりまっせ、えらい儲かりまっせ、ごっつう儲かりまっせ、、、、」と連呼するのと同じように、「救われる」「救済される」「悟りを得られる」「天国に入れる」と連呼する。「儲かる」の具体的内容は無いまま、一般人はなけなしの銭をむしり取られるのだが、「救われる」のほうもだいたい似たようなものである。だから宗教が悪い、とまでは思わない。商売も別に悪くない。必要なものである。そして商売と宗教をごったに混ぜていっぺんに表現しようとしたのが「ファウスト」である。どうしても難解になる。だから下敷きの読みが必要になるのである。


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