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物語構成読み解き物語・10

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「闇の奥」が読めれば、それを下敷きにした「地獄の黙示録」はすぐ読める。登場人物の戦略が同一だった。読めても別に好きにはなれなかったが。

地獄1

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「映画」という形式は、
1に脚本、2に俳優、3にカメラ、4に音楽だろうと思う。「地獄の黙示録」はカメラと音楽は最高だが、脚本と俳優が少々まずい。少なくともカーツ大佐=クルツが十分撮影できなければ話にならない。そしてベトナム奥地で肥満体の人物が存在する、ということは絶対ない。天才マーロン・ブランドに全てを台無しにされた印象がある。

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その上脚本がダメだと成功する確率はほぼゼロである。コッポラは「ベトナム戦争は八百長戦争だ」と告発する映画を造りたかった。それはよい。その時昔から温めてきた「闇の奥」の映画化とドッキングさせた。しかし「闇の奥」は植民地主義批判、「地獄の黙示録」は八百長戦争批判、論点微妙にズレているのである。致命的なズレである。

「市民ケーン」は、史上最高の映画と評判が高いが、私は過大評価と思うが、オーソン・ウェルズは実は最初は「闇の奥」の映画化を企画していたが、断念して「市民ケーン」作ったという話がある。どうも「闇の奥」は英米社会の文芸エリートでそのような位置のようだ。だからコッポラもベトナム戦争批判映画で「闇の奥」を使う欲望に勝てなかった。そのあんたらの映画化欲望は、「闇の奥」で批判的に書かれているクルツの欲望そのままじゃないかと思うのだが、連中はわかっていてもやめられないようだ。良く言えば芸術への志が高い。

コッポラというひとはさほど監督経験がなかった時に作った「ゴッドファーザー」が一番できが良く、その後ジワジワと劣化していったと思う。劣化の原因は経験の蓄積による演技指導やカメラや編集の習熟にある。「ゴッドファーザー」のときはなにもわからない素人で、それがプラスに幸いしたのではないか。その時点では俳優の演技指導もたいして出来ていないはずだが、ブランドやカザールのような天才の影響で自然と皆がよい演技をした(監督以上に周りの俳優の演技力を上げる人物は居るものである。今日ではデカプリオはそれをやっている)。

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撮影はウィルスが勝手に暗く撮影し、音楽のニーノ・ロータはなぜか勝手に気合が入り、結果「ゴッドファーザー」が生まれた。溝口のような実態のなさである。であるが「ゴッドファーザー」以上の映画が存在していないのもまた事実である。

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コッポラは元来脚本家であり、文学作品の鑑賞はできた。「闇の奥」の下敷きが「ニーベルングの指環」ということは読み解けた。だから「地獄の黙示録」で「ワルキューレの騎行」を使った。一流文学作品を鑑賞できるから、映画でも大芸術を作りたいと考えた。それは素晴らしい志であり、実際に志通りに良い映画ができた。やはり志は大事である。

そして映画は、あるいは社会は、志だけで下手に知識がないトップのほうが、うまく回ることが多々あるのである、溝口がそうだったように。志に知識をプラスすると、かえってダメになったりする。知識の集積とともにコッポラの映画は徐々に楽しめないものになった。「地獄の黙示録」はその境界線上にある作品である。


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