「グレート・ギャツビー(華麗なるギャツビー)」あらすじ解説【フィッツジェラルド】
現代社会でも騎士道はあります。どんなに虚飾で、犯罪的で、みじめな結末であっても、やっぱり騎士道は存在するのです。姫にたいする純粋な愛。「グレート・ギャッツビー」はアメリカの騎士道を描いた神話です。
20世紀アメリカ文学の代表作
「グレート・ギャッツビー」は1925年(大正14年)発表のアメリカの小説です。作者フィッツジェラルドの代表作であり、20世紀アメリカ文学の代表作とさえ言われています。アメリカという国を理解するには読んでおくべきです。でも、普通の日本人が普通に読むと普通に面白くありません。実は文学的に非常に高度だからです。
日本人はどうも英米文化を馬鹿にしすぎたようです。ゲーテもドストエフスキーも居ない英米ですが、天才はいなくても秀才はわんさか居ます。結果的に水準は非常に高いのです。この作品も、頭を使って読まなければならない作品です。難解と言っていいです。アメリカ人に比較的単細胞な人が多いのも、おそらく事実です。しかし単細胞なはずのアメリカ人にこの作品が今日でも愛好されるということは、この作品を愛好するだけの理由がアメリカにはあるのです。
1回のテレビ映画を含めて、5回映画化されています。最新作のデカプリオ版はみなさんご存知ですね。
昔、レッドフォードが主演したバージョン(1974年)がありました。ものの本によると、脚本を最初カポーティー(ティファニーで朝食をの原作者)が書く予定だったのが、その後コッポラ(ゴッドファーザーの監督)に変更、出来上がった脚本をナボコフ(ロリータの原作者)が修正、と脚本だけでオールスターキャストです。この作品のアメリカでの地位がわかります。日本における忠臣蔵より、おそらく地位が上の扱いです。
もっとも出来はデカプリオ版が一番です。映像効果も美しいですし、俳優たちの熱意には頭が下がります。みんな物凄い演技しています。英語圏では重要な作品だから、テンション上がったのでしょう。
まずこのまとめ読む→デカプリオ版見る→もう一度まとめ読む→原作読む、で完全攻略です。
翻訳は、
雰囲気がつかみやすいのは白水社の小川高義訳、
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チエホフ調、曖昧模糊たる雰囲気出ています。
内容つかみやすいのが村上春樹訳です。
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ストーリーすらすら頭に入ります。
どちらもお勧めです。
(村上訳に訳者が書いているあとがきは、彼の文章の中でおそらく最も美しく書かれています。本当にギャッツビーが好きなんですね。これだけでも読む価値があります。)
ストーリーのある詩
文章は詩的です。私の英語能力では原文読む気はしませんけれど、おそらく響きもよい筈です。美しいビジュアルイメージに満たされ、読んでると自分が知的で上品な人間になった気がします。ここらへんもアメリカで人気があるゆえんでしょう。エリオットや後述のようにコンラッドの影響が大きいのですが、日本の読者には「平安女流文学の文体」と考えると少しは読みやすいです。曖昧模糊、ふんわりとした神話的な世界です。源氏物語のごとく文章は省略ばっかりでつかみにくいです。
逆に言えばグイグイ引き込まれる迫力は、実はまったくありません。平安女流文学の文体でフワフワと記述される、愛と虚飾と殺人の物語、そりゃわかりにくいですわ。
あらすじVer.1
「ギャッツビーという成金が、別の男と結婚してしまった昔の恋人を奪還しようとします。しかし失敗しトラブルに巻き込まれて死にます。(終)」
これだけです。簡単です。ここだけ見ればアメリカ流単細胞です。
日本で言えば、信長、竜馬
ギャッツビーは、アグレッシブな、前のめりな、突っ走るタイプの人物です。若くして非業に死にます。おそらくギャッツビーは日本で言えば信長や竜馬です。どっちかというと竜馬のほうが近い感じですね。身分低い、学歴ない、経済、通貨がわかる、最後は殺される。
ギャッツビーは昔の女の心を取り戻すために、膨大なエネルギーを費やして、あげにく殺されます。でもギャッツビーはグレートなのです。いや、だからこそギャッツビーはグレートなのです。この小説が読まれる限り、アメリカ人はアメリカ人らしく、アグレッシブに、前のめりに生きてゆけるのです。文章は前のめりじゃないけど、キャラが前のめりですから。
あらすじVer.2
ジェイムズ・ギャッツは貧しい農家の生まれ、でも世に出ようとする気持ちが強く、自分で自分を鍛え上げていました。小さな大学に行きましたがすぐに中退、スペリオル湖の沿岸で、漁業しながら食いつないでいました。
ある日、コディーという大成功した鉱山師のヨットに「危険ですよ」とアドバイスしにゆき、コディーから気に入られていっしょに行動するようになりました。そのとき、名前を変えて「ジェイ・ギャッツビー」と名乗りました。ギャッツビーは彼から世渡りの方法を学びました。数年してコディーは死にました。ギャッツは従軍しました。
従軍時代、ギャッツビーはお金持ちのデイジー・フェイという女性と知り合いになります。デイジーとそのお金の世界に彼は惚れ込みます。二人は愛し合いますが、ギャッツビーは戦地に赴きます。第一次世界大戦、フランスの戦線です。
戦争でギャッツビーは大活躍、勲章いっぱいもらったりします。英雄です。大戦が終了して、一時期オックスフォードに留学した後、ギャッツビーはアメリカに帰ります。
帰ってきたアメリカでは以前同様文無しでしたが、ウルフシャイムという詐欺師と知り合い、今度は暗黒街でのし上がります。巨万の富を得たギャッツビーは、ニューヨークの外れ、ロングアイランドのウェストエッグの途方もない豪邸を入手します。なぜなら、対岸のイーストエッグに大富豪にしてデイジーの夫、トムがこれまた豪邸を持っているからです。トムと張り合って、打ち負かして、デイジーを手に入れようとするのです。
ものすごい執念です。てゆうか今日の基準ではストーカーです。
ギャッツビーは参加自由の豪華なパーティーを夜な夜な主催します。もちろんデイジーを引き寄せるためです。無料の飲食(禁酒法の時代です!)に大量の客が押し寄せます。金に糸目をつけない誘蛾灯作戦です。でも、デイジーは来てくれません。
業を煮やしたギャッツビーは自宅の隣に住むニック(物語の語り手です)がデイジーと遠い親戚で、かつトムの友人であることに目をつけます。
まずはニックの友人になったギャッツビーは、ニック宅でのデイジーとの再会を企画します。5年ぶりの邂逅です。マフィアのくせにガチガチに緊張して再会に臨むギャッツビーです。
そして作戦は成功、ギャッツビーとデイジーはふたたび恋に落ちます。もちろん不倫です。ちなみにデイジーには子供も居ます。悪いようですが、夫のトムもトムでマートルという人妻と不倫を楽しんでいるから、おあいこです。
局面的勝利に味をしめたギャッツビーさん、一気に幕を下ろしに行きます。前のめりです。ニューヨークのプラザホテルで、ギャッツビー本人、恋人デイジー、夫のトム、語り手ニック、ニックの恋人ジョーダンが居合わす中で、ギャッツビーはデイジーにトムとの決別を迫ります。その場に亭主本人が居るんですよ。強引です。
トムは反撃します。ギャッツビーが犯罪を犯して巨額の富を得ていること、つまり犯罪者だと暴露します。デイジーはギャッツビーが怖くなり、気持ちが引いてゆきます。ギャッツビー敗北です。
勝利を確信したトムは、自宅にギャッツビーとデイジーが一緒に車で帰れといいます。自分は語り手ニック、その恋人ジョーダンと帰るからと。余裕しゃくしゃくです。悲劇は、その後起きます。
帰る途中、デイジーが車を運転していたのですが、急に道に飛び出してきたトムの愛人、マートルを轢いてしまいます。二人はそのまま逃げます。轢くのも悪いですし、そのまま逃げるのも悪いですね。ギャッツビーもデイジーも、倫理観よろしくありません。
そのマートルの死体をトムたちも見ます。当然トムはギャッツビーが轢いたのだと思い込みます。
マートルの亭主は、妻が不倫していたことも知らずに復讐心に燃えます。亭主がトムのところに聞きに行くと、ギャッビーという男の車だと知らされます。
そして、亭主はギャッツビー邸にたどり着き、胸騒ぎを覚えたニックが駆けつけたときには、プールに浮かぶギャッツビーの死体と、近くで自殺している亭主の死体がありました。
ニックは友人だから葬式の世話をします。でもだれも参列してくれません。恋人だったはずのデイジーも、一緒に悪事を働いたウルフシャイムも、誰もです。年老いた父親だけが来ました。それとパーティーの時にみかけたふくろう眼鏡の男性だけです。
ニックはこんなニューヨークが嫌になって、出身地の西部に帰ります。帰る直前、隣のギャッツビー邸にもう一度立ち寄ります。邸宅は荒れ果てていました。ギャツビーの人生は、過去を変えれると信じて疾走した人生でした。でも過去は変えれません。時間は流れる川です。上流にいくら全力で漕いでも、押し戻されるのです。(終)
なんだか素直にいい作品ですね。自分で書いてて自分で驚きました。実物読むより感動的です。しかし実際には時系列グチャグチャで表現もあいまいで、非常にわかりにくい作品です。こんなにストレートに内容把握できません。
真相はすべて闇の中
無責任なようですが、上記あらすじは、「おそらくこんなことだったのだろう」という類推でしかありません。作品の中にはっきりとは書いていないからです。書いていないのはもちろんフィッツジェラルドの戦略です。すべてを曖昧模糊、神話的に描こうという意図を持っているのです。
物語の冒頭見て見ましょう。だいたい物語の冒頭は、その作品の特徴なり主題なりが、明快な形で表されます(これはこの作品に限らず、物語を読む上でおそらく最も重要なコツです)。
***
まだ大人になりきれなかった私が父に言われて、ずっと心の中で思い返していることがある。
「人のことをあれこれ言われたくなったら、ちょっと考えてみるがいい。この世の中、みんながみんな恵まれているわけじゃなかろう」
父はそれしか言わなかったが、もともと黙っていても通じるような親子なので、父が口数以上にものを言ったことはわかっていた。
***
つまりこの作品は、
1、「口数以上にものを言っている」、つまり内容を表現するに十分な口数を使っていない
2、「黙って通じるところがある」、つまり意図的に言わない部分が多い
3、「ちょっと考えてみるがよい」、つまり考えずに表面だけを見ても理解できない
作品なのです。
作品の最後のほうで、語り手のニックも、さほど正直ではないことが明らかになります。つまりこの小説そもそも正直に書かれていないことが明言されているのです。確かな情報がひとつもないのです。
だから解釈は議論百出です。実際にギャッツビーを殺したのはマートルの夫ではなく、実は恋敵のトムと悪仲間のウルフシャイムが共同してギャッツビーを消したのだ、という解釈も十分可能です。すべてがあいまいな灰の中でかすんでしか見えない世界です。この作品は全体が「詩」です。明快な事実確定を求めるほうが無理といえば無理です。それにそもそもこの作品は、多くの研究者から「荒地」という詩から大きな影響を受けているといわれているのです。ご想像どおり、「荒地」はこれまた意味不明の現代詩です。
「荒地」
アメリカ生まれのイギリスの詩人、T・S・エリオットの代表作「荒地」(1922年)は、「グレート・ギャッツビー」に影響を及ぼしたといわれる詩です。普通に読むと理不尽な、わけのわからない詩です
http://poetry.hix05.com/Eliot/eliot.index.html
原音で鑑賞しないと良さはわからないのでしょうが、私にはその語学力がありません。しかし影響は明らかです。
たとえばギャッツビーはスペリオル湖をさすらっていて師匠のコディーと知り合います。「荒地」は冒頭にシュタルンベルガーという湖が出てきます。
ギャッツビーには「灰の谷」という水の無い土地が出てきます。これは場所ですが、狂言回しというべき存在です。マートルがデイジーに轢かれたのが「灰の谷」です。
「荒地」では岩山の描写が多いです。
「汗は乾き、足は砂の中だ
岩の間に水さえあれば」
ギャッツビーは死体はプールに浮かんでいますから、形式的には水死のようなものです。「荒地」の第四章は題名が「水死」
「フェニキア人のフレバスは、死んでから二週間もたつので、
カモメの鳴き声も、深海のうねりも、
損得勘定も忘れてしまった
(中略)
彼は立ち上がったり倒れたりしながら
青春のステージを駆け抜け 渦に突っ込んでいったんだ」
まんまギャッツビーですね。
さらに直接的には出てくるホテルの名前が共通しています。
ギャッツビーの仲間のウルフシャイムが懐かしさとともに殺人事件を思い出すのが、メトロポールホテル、この名前のホテルが荒地に出てきます。
第二章「火の説教」より
「そいつが下卑たフランス語で誘ってきた
キャノンストリートホテルで昼飯を食って
その後週末にはメトロポールに行きましょうや、と」
ところがこの「荒地」という詩がさらに、「闇の奥」という小説から影響を受けていることも、多くの研究者が言及しています。
原案は「闇の奥」
1902年、この作品の23年前にイギリスの作家コンラッドが発表した小説が「闇の奥」です。
「荒地」と同じく、「グレート・ギャッツビー」もこの作品を下敷きにしています。「ギャッツビー」を詳細に作品を読み込むと、「荒地」よりも「闇の奥」の影響がはるかに強いです。
というよりあらっぽく言えば「グレート・ギャッツビー」は「闇の奥」をひっくり返しただけの、ほぼコピー作品です。
「闇の奥」の最大の特徴は、登場人物すべての属性が、「クルツ」という主人公の属性になっていることです。
「ギャッツビー」はこのキャラ統合戦略を完全に踏襲しています。
統合された主人公「ギャッツビー」
従軍経験のあるのはニックとギャッツビー、
大学に行ったのはニックとトムとギャッツビー、
詐欺行為をするのはウルフシャイムとギャッツビー
豪邸に住むのはトムとギャッツビー、
証券に係わり合いになるのはニックとギャッツビー、
ニックははっきりとは言っていませんが、ニューヨークでストーカーまがいの行為をしていますし、ギャッツビーはデイジーのストーカーです。
不倫をするのはマートル、トム、デイジーとギャッツビー
外に出て撃たれる(あるいは轢かれる)のは、ローゼンタールとマートルとギャッツビー
水の中で死ぬのはシヴェットとギャッツビー、
写真を撮るのはマキーとギャッツビー(父親に送っている)。
ギャッツビーは「闇の奥」のクルツと同じく、統合された人間です。恋人デイジーを除くほとんどの人物の属性が、ギャッツビーの属性です。
ギャッツビー殺害の日の朝
結合された人格である、ということは作中で間接的に表現されています。
車でマートルを轢いた翌朝、ニックはギャッツビー宅に行きます。ギャッツビーに逃亡を勧めますが、聞き入れてくれません。いろいろ話して、ニックは仕事に行くためギャッツビーと別れます。別れ際の言葉が、ニックがギャッツビーにかけた最後の言葉になります。ここが、全編のクライマックスになります。この後、ギャッツビーは殺されます。
「あいつら、腐りきってる」と、私は芝生に大声を発した。
「あんた一人でも、あいつら全部ひっくるめたのと、いい勝負だ」
"They're a rotten crowd," I shouted across the lawn. "You're worth the
whole damn bunch put together."
クライマックスは、再会のシーンでも、バトルのシーンでも、事故のシーンでもありません。語り手であるニックが、ギャッツビーを完全に認めたシーンです。同時に、この作品が「闇の奥」の後継作品であり、ギャッツビーがクルツと同じく、多くの人々の属性を包括する人物であると宣言されるシーンです。大変文学的です。わかりやすく書き換えてみましょう。
「あいつら、小さな人間たちだ」と、私は芝生に大声を発した。
「あんた一人で彼ら全員の人格を統合したのと同等だ(だからギャッツビーはグレートだ)」
(映画の日本語翻訳担当の皆様、ここはこういう意味です!!!全員ひっくるめた、というニュアンス伝わらないと意味ありません!!!)
「闇の奥」では、クルツに出会う直前に、全身パッチーワクの服を着た人物に遭遇します。クルツの信奉者です。「クルツという人物がパッチーワーク的に統合された人物である」ことを暗示する描写です。
「ギャッツビー」では、ギャッツビーがデイジーに大量の色とりどりのシャツを投げて遊びます。同じ意味です。一見恋人たちの悪ふざけに見えながら裏の意味がある。フィッツジェラルドの筆力は賞賛されてしかるべきですね。もっとも読者が感じる好悪という意味では、ギャッツビーはクルツと逆ですけど。
「クルツ」の逆
「闇の奥」は、西洋のアフリカ植民地支配の非道さ、苛烈さを告発した作品です。主役のクルツは悪の大魔王のような存在です。口ではきれいごとを言うのですが、欲望が肥大化してモンスター化して、人間の頭を多数自宅の前に並べたり、現地人を襲撃して象牙を略奪したりしました。クルツを元につくられたキャラクターがギャッツビーです。キャラの構成原理はクルツとほぼ同じです。でもクルツと違って、好感の持てる人物です。
ギャッツビーははっきり言えば、マフィアです。元々悪い人間です。でも心が純粋です。デイジーと再会する前は、ガチガチに緊張しちゃったりします。可愛いのです。だから語り手ニックも葬式まで面倒見てあげます。欲望大魔王クルツとは大違いです。
語り手ニックは本来悪事が嫌いな、中部の上層階級の子息、エリート大学卒業です。ギャッツビーのことも最初は馬鹿にしていましたし、彼の本来の倫理観からは外れた人間です。でも最終的にはギャッツビーが大好きになったのです。これにより、アメリカ人はみな、「なるほど、ギャッツビーのようになれば良いのか。生まれ育ちが悪くても、少々の欠点があっても、最終的に失敗しても、純粋で、前のめりに努力すれば、素晴らしい人間と言われるのか」という確信を持つことができます。
坂本竜馬の日本社会での役割と同じようなものです。でもアメリカに竜馬は居ませんので、フィッツジェラルドはこのようなキャラを創造しました。
クルツそのまま
ギャッツビーは、「闇の奥」の主役クルツのような構成原理で、裏返して出来上がっている人物ですが、実はまわりの人物は、クルツキャラそのままだったりします。
まず悪仲間のウルフシャイム。年配のユダヤ人です。職業詐欺師、ワールドシリーズ八百長の仕掛け人とされています。本人いわく「ギャッツビーは俺が育てた」。
彼はワイシャツのカフスボタンに、なぜか人間の臼歯を使っています。この描写にたいするまともな解説、聞いたことがないのですが、これはウルフシャイム=クルツということを表しています。クルツは、人間の頭蓋骨を家の前に陳列したり、象牙を大量に隠匿していたりしました。そのクルツの嗜好を簡潔に表現したものが、ウルフシャイムの臼歯のカフスボタンです。
次にトムもクルツです。クルツは植民地のアフリカのコンゴで、現地妻を囲っています。地元ヨーロッパには許婚が居るのに、です。
トムも同じことをします。アフリカの悲惨な植民地をアメリカに移し替えたような「灰の谷(荒地)」で女性を確保します。それが後に車で轢かれるマートルです。ただし灰の谷ではあまり接触せず、「闇の奥」ではコンゴ河を上流に遡った土地、に該当する土地、この作品ではニューヨークで逢引を重ねます。
トムの妻、ギャッツビーの不倫相手デイジーもクルツです。「闇の奥」では「クルツは声だった」と書かれています。非常に声が印象的なキャラです。美声なのでしょう(実は「闇の奥」のクルツの原型は、後述のように「ニーベルングの指環」の主役、ジークフリートなのです。ジークフリートはオペラの役ですから、声が重要なのは当たり前です)。
そしてデイジーも声が強調されます。容姿にたいする描写は、ヒロインなのに実は少ないのですが、声のすばらしさは何度も強調されます。デイジーは声なのです、クルツと同じく。
さらに、語り手ニックの恋人ジョーダンもクルツです。ジークフリートは名剣ノートウィングを振り回します。クルツは現代のノートウィング、ライフル銃を使います。そしてジョーダンは女性プロゴルファーですから、ゴルフクラブを振り回します。
彼女は有名なプロゴルファーではあるのですが、ゲーム中にインチキをします。卑劣です。口では立派なことを言いながら、手段を選ばす象牙を収集するクルツと同じです。
さらにさらに、語り手ニックも(プチですが)クルツです。地元に恋人らしき人がいるにもかかわらず、ジョーダンを恋人にします。トムと同級生だけあって、トムの縮小版のような行動を取ります。
というわけで、
ギャッツビー:クルツのような統合的な人格
その近しい人々:クルツの部分コピー
というのが、この物語のキャラクター配列になります。
フィッツジェラルドの主張は明らかです。「我々現代人(20世紀初頭アメリカ人)は、多かれ少なかれ全員クルツだ。人類の災厄である存在の末裔だ。だかそれでも、より良いクルツがあるのではないか」
「闇の奥」の奥、ニーベルングの指環
本作、および本作が参照した「荒地」の下敷きであるコンラッドの「闇の奥」が、下敷きにした作品があります。いわば本家です。それは前述のようにワーグナーのオペラ「ニーベルングの指環」です。非常に後世への影響が大きな作品で、「ニーベルングの指環作品群」とでも呼ぶべきものを形成しています。
実は作品の完成度としては「千と千尋」が最高、内容としては「豊饒の海」が最高だろうと思いますが、知名度では間違いなくギャッツビーですね。次が「パルプ・フィクション」くらいでしょうか。
例えばギャッツビーとトムのプラザホテルの決闘シーンの前後ですが、ホテルに行くとき、なぜかトムとギャッツビーは車を取替えます。決闘終わって、取り替えた車を元に戻して自宅に帰ります。
これは車という当時の社会の宝物を、「ニーベルングの指環」の隠れかぶとという宝物に例えた表現です。隠れかぶとは人間をほかの人と取り替えることができ、かつ瞬間移動ができるアイテムです。ここも既存の解説というか読み解きが不十分です。
「ギャッツビー」の冒頭近くで、白いカーテンの光の中で女性たちが横たわっているシーンがあります。独り者のニックにはまぶしい光景です。「ニーベルングの指環」の冒頭は、ライン川の水の中、光の中で美しいラインの乙女が遊び、小人のアルベリヒが彼女たちを追いかけるシーンです。
御伽噺のシーンを現代社会のシーンに見事に書き換えるフィッツジェラルドの文学力!!
通貨発行権
ニーベルングの指環は、珍しく通貨発行権を扱ったドラマです。ギャッツビーの作者フィッツジェラルドは、「闇の奥」の背後に「指環」があること、「指環」が通貨発行権を扱うドラマだと理解していました。それが証拠に、ギャッツビーは最後証券偽造に手を染めます。ペーパーマネー発行に、限りなく近づくのです
通貨発行権という主題は、「指環」の中心ではあるのですが、「闇の奥」では主題の主役の座を「植民地支配の偽善と悲惨」に奪われて、残滓として存在するだけであまり重要な役を与えられていません。
証券会社勤務のニックが、証券偽造犯のギャッツビーを語るというこの物語は、「指環」の主題「通貨発行権」の現代社会における意味を、作者が正しく理解する読解力を持っていたことを意味します。
同じように、三島由紀夫も、宮崎駿も「通貨発行権」を理解しています。宮崎は理解した上で結論間違っているのですが、コッポラやタランティーノは理解そのものがいまひとつではないでしょうか。
本文中たとえば、こんな表現があります。第一章で、証券会社に就職したニックは述べます「私は金融や証券の参考書をどんどん買い込んだ。赤と金の色彩が本棚にならんで、鋳造したばかりの貨幣のようだ」
ここでは本=貨幣です。
ところでトムも本を読みます。トムもイエール大学卒業生、エリートです。読むのは「劣等人種を押さえ込まなきゃ我々白人は危ない」という感じの危機論です。シュペングラーの「西洋の没落」が元ネタらしいです。
そしてギャッツビーも、巨大な本棚を持ち、世界紀行記なんかを置いています。だから両者とも支配者になろうとしているのです。ニックはプチな支配者志望ですが、トムとギャッツビーの二人は本格的野望というやつで、当然両者はぶつかります。
地底人アルベリヒ
「ニーベルングの指環」に登場する地底人ニーベルング族のアルベリヒは、金物を扱う一族です。ラインの乙女に恋をして、袖にされて怒り、ラインの黄金を盗んで指環(世界中の富を集めるマジックアイテム)をつくり、財力で世界支配をたくらみます。
指環はつまり通貨発行権の象徴でして、無限の富を生み出すことができます。
証券を偽造して大金をせしめんとするギャッツビーは、まんまこのアルベリヒなのですが、実は登場人物の多くは金物や鉱物に関係があります。
物語の語り手ニック・キャラウェイの実家は金物商人です。
ギャッツビーの師匠のダン・コディーは鉱山で金持ちになったひとです。
トムの家の執事は、ホテルで銀の皿を磨きすぎて鼻を悪くした人、
妻を寝取られ、殺され、最後にギャッツビーを殺すウィルソンは自動車屋兼ガソリンスタンド店主。
トムたちの話の中に出てくるビロクシーは、箱屋。そしてジョーダンにアルミのパットを送りますから、金属の箱屋です。
語り手ニックの恋人ジョーダンはプロゴルファーですが、金属のクラブを振り回します。
そしてトム自身は、元石油王の家を買い取って暮らしています。だからトムもニーベルング的ではあるのですが、しかし同時に現在の白人文明の崩壊の予兆を嗅ぎ取って危機感を募らせています。これは「ニーベルングの指環」では、主神ヴォータンの属性です。ヴォータンはニーベルング族ではありませんが、それらを支配する存在です。
大まかに言えば、みんな鉱物か金物を扱うニーベルング族で、欲まみれの人種です。ただし、頂点にいるのはトムで、挑戦者がギャッツビー、他は雑魚のニーベルング族です。作中では電話というアイテムでそれを表現しています。トム邸でもギャッツビー邸でも、電話の音がうるさく、非常にうっとおしい。実はニーベルング族は金細工師で年中金床打っているのです。
苗字ABC
登場人物の社会階層ははっきり分かれています。苗字で判別つきます。
A族はありません。B族がこの作品の最高階級です。ベイデカー以外はトムとデイジーの結婚式に出席します。ベイデカーについては後述。
語り手ニックはC族です。上流階級の少し下です。ギャッツビーの師匠、コディーもC族です。
C族にシヴェットという医者が居ます。前述のベイデカーと争います。ベイデカーが酔っ払ったから、彼女を頭からプールに突っ込んで苦情を言われます。しかしその後1年たって、溺死するのはなぜか医師シヴェットなのです。これは階級の差です。
ギャッツビーはもちろんG族、トムやニックよりずっと下です。
K族も居ます。ユーイング・クリップスプリンガーとエラ・ケイ。両方ともイニシャルがE.K.となります。そして行動もいっしょです。死者の遺産を回収に動きます。
K族にキャッツボーという男が居ます。ギャッツビーの悪仲間、ウルフシャイムの手下です。つづりはKatspaugh、ギャッツビーさんの偽者というか、第二号ですね。
S族はギャッツビーの手下のスレーグルと、トムの手下のスローン、SlagleとSloaneです。どうしてもSlaveスレイブ、奴隷を連想する名前です。
最下層に居るのはW族、両方死ぬことになるマートル・ウィルソンとその夫ジョージ・ウィルソンです。「灰の谷」という埃まみれの環境で貧しく生活しています。そしてギャッツビーの悪仲間のマイヤー・ウルフシャイム。ところで作品の最初に噂されていたのは、ギャッツビーはドイツ皇帝の子供だという話でした。ドイツ皇帝カイザー・ウィルヘルムと、マイヤー・ウルフシャイム。似ていますね。
と説明すると、なんだか駄洒落で構成された作品のようですが、前述のようにこれはストーリーのある詩なのです。詩ですから音が重要です。響きをコントロールしたいと考えるのが詩人なのです。
失敗した王朝交代
そういえばヒロインのデイジー・ブキャナンは、旧姓がデイジー・フェイDaisy Fayですので、元来F族です。それがB族に嫁入りして成り上がったのですから、その後離婚して格下のG族ギャッツビーのところに嫁にゆくはずがないのです。人間は生まれで決まっていて、逆転はないのです。そんな空しい世界観がこの作品の背景にあります。
「指環」では現在の王朝の終焉が、二羽の鳥が飛び立つことで示されます。「ギャッツビー」ではギャッツビーが王朝交代に失敗した後、現在の王朝の夫婦トムとデイジーがフライドチキンを食べています。つまり鳥は殺されて、王朝交代の可能性はなくなりました。
このフライドチキンについても、まともな解説見たことありません。「ニーベルングの指環」が背景にあると見えていないと、読めない部分です。
ファウスト
ワーグナーの「ニーベルングの指環」の内容的な元ネタになったのが、おそらくゲーテの「ファウスト」です。「ファウスト」は「指環」と同じく、通貨発行権の問題を扱っています。ワーグナーはファウストの内容を理解して、「二ーべルングの指輪」を構想しました。
そして、フィッツジェラルドは恐るべきことに、そのことを理解して、ファウストも作品に取り込んでいます。それはギャッツビー邸で開かれるパーティーです
「ファウスト」解説【ゲーテ】
https://matome.naver.jp/odai/2156129037898203701
「ファウスト」には「ワルプルギスの夜」という有名なシーンがあります。たくさんの妖怪が出没して乱痴気騒ぎをやらかします。ギャッツビー邸のパーティーはおそらくワルプルギスを下敷きにしています。そしてファウストと同じく、ワルプルギスでの恋人を見てから、主人公と恋人の別れが運命付けられます。
そして重要なのが「犬」です。冒頭ニックは犬を飼おうとして、すぐに逃げられます。でも犬を飼うのに成功する人も居ます。トムと、愛人のマートルです。なぜかロックフェラーそっくりの老人から買います。
ロックフェラーは大富豪ですから、この犬もお金を生み出すマジックアイテムです。ゲーテのファウストでは、この犬が変化してメフィストフェレスになります。メフィストフェレスは当然主人公ファウストに、魔法でさまざまの便宜を図ります。
この点から見ても語り手ニックは小物です。トムとマートルはファウストになりかかりましたが、成り損ねました。でも大物ではあります。
若きウェルテルの悩み
ゲーテがファウスト以前に書いて、一世を風靡したのが「若きウェルテルの悩み」です。「グレート・ギャッツビー」をもっとも遠くまでさかのぼると、ウェルテルに行き着きます。両方とも人妻横恋慕物語です。
「ギャッツビー」の冒頭に、詩のような文言が記されています。
もし彼女の心を動かせるなら、金色の帽子だってかぶればいい
もし高く跳べるのなら、彼女のために跳んだらいい
「ああ、金色帽子で高く跳んでくれる人が好き。そういう人でないとだめ!」と彼女に叫ばせるまで
ギャッツビーはどうやら、金色帽子で天高く飛ぶ存在のようです。
ところで「若きウェルテルの悩み」は、太陽と水の女神の物語です。ウェルテルの正体は太陽神です。
だからギャッツビーはウェルテルの一族のようです。
たとえばギャッツビーがデイジーと再開する第五章、最初雨が降っています。ギャッツビーは雨にぬれながらガチガチに緊張しています。ニックは気を利かせて一時退出。すると雨が止みます。そろそろいいだろうと二人のところに戻ると、
「さっきと違うのはギャッツビーだ。あきれるほどに、がらりと変わっていた。輝いているとしか言えない」
と、太陽の本性を発露します。
ウェルテルが死ぬと、彼が可愛がった子供たちが物凄く執着します。ギャッツビーも、大量の子供たちが殺人現場や廃墟となった邸宅に入り込みます。
ウェルテルは死の直前、夜の野原をさまよいます。ギャッツビーはトム宅を夜中じゅう外から見張ります。
そもそもギャッツビーとウェルテルではスケジュールが似通っています。ギャッツビーとデイジーが再会するのは、夏至のあたりです。秋口になってギャッツビーが死にます。
ウェルテルと恋人ロッテのつきあいは1年半なのですが、最初夏至に出会い、秋口に別れます。翌年再び夏至に出会い、冬至に死にます。ギャッツビーはウェルテル1年目のスケジュールと同一なのです。
個人の問題
作中ギャッツビーは奇怪な言葉を口にします。
デイジーが自分のことをどの程度愛しているかどうか、とニックと会話している最中に、
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ここまで言ってから、はっと気づいたように、ギャッツビーがさらにおかしなことを言った。
「いや、いずれにせよ、個人の問題だ」
どういう意味だろう。この一件について何やら強烈な思い込みがギャッツビーにあって、ほかの人間にはさっぱりわからないとしか言いようがない。
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この部分が作中最大の謎かも知れません。作品理解最大のカギでもあります。この意味不明な発言は、ギャッツビーがアメリカのウェルテルであると考えれば、容易に納得できます。そう、文字通りギャッツビーとデイジーの関係は、個人的な男女関係ではなかったのです。
ギャッツビーは太陽です。デイジーはアメリカの大地です。彼らの結合は天地の必然であり、アメリカの大地が(つまりアメリカそのものが)再生するためには必須のものだったのです。
第一章で語り手ニックはギャッツビーを「1マイル先の揺れをとらえる地震計に近いような高感度」の人物と、評しています。ギャッツビーはもともと大地の心配をする存在だったのです。
酔ったデイジー
デイジーは最初のギャッツビーとの恋愛のあと、トムと結婚する直前に、昔の恋人ギャッツビーからの手紙を読んで、乱れます。
普段酒を飲まない人が、ぐでんぐでんに酔っ払い、手紙を握り締めて、もうトムとは結婚しない、もらった宝石は返却してくれ、と言い出します。友人のジョーダンがあわててシャワーに入れて、水で手紙が溶けるとようやく正気を取り戻して、結婚式を挙げます。
(それにしてもギャッツビーの水にたいする弱さは、泣けますね。太陽神だから仕方がないのでしょうが)
物語のさいごのほうで、ニックは幻想的な夢を見ます。
担架で運ばれるイブニングドレスの女性、彼女は酔っ払って、宝石を持っています。でもどの家に行っても「うちの女性ではない」と拒絶されます。
酔った女性はもちろんデイジーの本体、大地の女神です。太陽神ギャッツビーと別れ、金持ち、つまり地上的権力者のトムとの結婚生活を継続することによって、アメリカの大地は再生の機会を失い、酔っ払ったままの状態なのです。
さて、ここまできて、「グレート・ギャッツビー」の下敷きとして、ゲーテ「若きウェルテルの悩み」、ゲーテ「ファウスト」、ワーグナー「ニーベルングの指環」、コンラッド「闇の奥」、エリオット「荒地」が利用されていることがお分かりいただけたかと思います。
ですので、クライマックスの言葉を、もう一度繰り返さなくてはいけません。
「あいつら、腐りきってる」と、私は芝生に大声を発した。
「あんた一人でも、あいつら全部ひっくるめたのと、いい勝負だ」
"They're a rotten crowd," I shouted across the lawn. "You're worth the
whole damn bunch put together."
つまり
「このグレートギャッツビーは、過去の名作数本分の傑作だ」
登場人物でも、ストーリーでも、統合をしている作品なのです。
アメリカという国
重要な登場人物の説明が抜けていました。フクロウのような眼鏡をかけた男です。名前は明らかにされていません。
最初登場したとき、ギャッツビー邸のパーティーの時、図書室で「この本は飾りではなく本物だ」と驚きます。
「ストッダート世界紀行」という、「世界帝国製作のてびき」のようなニュアンスのある本です。
前述のように本=通貨発行権ですから、世界帝国を形作らんとするほどの野望に、ギャッツビーは燃えていると解釈できます。フクロウ男はそれを評価しています。
その日帰りがけに、フクロウ男は自動車事故にあいます。酔った同乗者が運転する車が脱輪、なぜかフクロウ男が問い詰められます。酔った同乗者は、脱輪しているのに車をバックすればなんとかなると考えています。これは、「過去は取り戻せる」と実現不能な希望に人生を掛けるギャッツビーの姿をダブらせています。
三度目の登場は、ギャッツビーの葬式です。ニックと父親しか出ない葬儀に、なぜか名前も知らないフクロウ男が出席します。ちゃんと「アーメン」と唱えてあげて、メガネを拭いて言います。
「あいつも馬鹿を見たもんだ」
全登場人物のなかで、異例の好意をギャッツビーに持つ人物です。
ふうろう男はギャッツビー邸のパーティーに、クロード・ローズヴェルト(Claud Roosevelt)という女性に連れてこられます。そして年中酔っ払っているキャラです。酔っ払いがどういう意味かは前述の通り。
そしてRoosevelt、日本語表記で多いのはルーズベルトですが、日本人は日米戦争のフランクリンを想像すると思いますが、当時まだ彼は大統領になっていません。当時アメリカでルーズベルトというとセオドア・ルーズベルト(任期1901-1909)大統領です。日露戦争では対日協力してくれた人です。
そのセオドアさん(もちろんメガネをかけています)が、ホワイトハウスに別棟をつくり、つけた名前がイーストウィングとウェストウィングです。
ところで、トムが住んでいるのがイーストエッグ、ギャッツビーと語り手ニックが住んでいるのがウェストエッグです。ですから、このフクロウ男は、セオドア・ルーズベルトです。ギャッツビーとトムが争ったのは大統領の座、と言う事もできます。
セオドア・ルーズベルトの次の大統領は、タフトという人です。非常に体格が大きく、かつ馬乗りが好きでした。作中、トムは体格が大きく、馬乗りが好きな人物として語られます。
ギャッツビーはトムに負けたのです。でも、語り手ニックも、フクロウ男も、その死を悼んでくれました。
この作品が発表されたときには、その後何代も大統領が代わった後です。過去は変えられません、時間の流れには逆らえません。でも、ギャッツビーはやはりいいキャラですね。時代を超えて愛されているのも理解できます。そしてアメリカでは、今も熱心に読まれ、今もギャッツビーのようなキャラが大量に生産されています。悪いこともしますが、活動的で、前のめりで、妙に純粋な、可愛げの有るアメリカ人が。
そして彼らは敗れても敗れても、なおも世の中に挑んでアメリカの大地の再生を目指すのです、フィッツジェラルドのつくった神話に突き動かされながら。