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「ダロウェイ夫人」あらすじ解説【バージニア・ウルフ】

我が国には元より女の文を書きけることありき。他国には文を書くことは男のみにてなむありける。さればその文もまた男の道にこそありけれ。世の移ろひに従ひて他国の女も才を上げ、女ながら文をなむ書きける。男の文の道を学び取りつつ、女の心にかなへる文を作りけるなり。
しかるに我が国には、他国の道をかしこしと崇むる習ひのなかに、「意識の流れ」といふ言の葉独り歩きして新しき技と見なされ、あさましきことなり。それら遅れて来たりし平安の女房の文づくりと見ればさらに新しからず。


あらすじVer.1

ロンドン在住のダロウェイ夫人ことクラリッサ51歳、6月のある一日の話です。亭主はリチャード・ダロウェイ、政治家です。温厚すぎて閣僚にはなれません。でも上流階級です。

朝クラリッサは、今夜のパーティーのための花を買いに行きます。

午前、自宅でパーティー用のドレスを補修しています。縫っていると古い知り合いの男性、ピーターが突然訪ねて来ます。ピーターは昔クラリッサに求婚したのですが、ふられてインドに行っていました。現地で結婚したのだが破綻、その後別の女性(若い人妻)見つけて彼女と結婚すべく、イギリスに帰って来て弁護士と離婚の法律相談をしようと言うのです。クラリッサが話をしていると、ピーターは感傷的になって泣き出します。退出するピーターに向かってクラリッサは、「今夜のパーティーを忘れないでね」と言います。

同時刻、公園にはセプティマスという男性が居ました。こちらは戦争帰りです。フランス戦線で戦い、イタリアで女性をみつけて連れて帰って結婚しました。戦争ストレスで精神を病んでいます。奥さんは心配していますが、どうしようもありません。

有名な精神科医に見せますが、高圧的で患者のみならず奥さんまでもその医者が大嫌いになります。セプティマスは田舎の療養所に収容されることになります。

その後夫婦はひとときのリラックスした時間を過ごしますが、そこへ普段かかりつけの精神科医が来ます。セプティマスは、彼のことも大嫌いでしたから、発作的に階下に飛び降り自殺をしてしいまいます。

夕刻ピーターがホテルに到着すると、クラリッサからの手紙が来ています。筆まめです。あの後すぐに出したのでしょう。しょうがないからパーティーに行きます。

パーティーは盛況でした。総理大臣まで出席します。昔馴染みのサリーも来ています。

例の有名で高圧的な精神科医の夫妻も来ています。クラリッサは精神科医夫人から、若い男性が飛び降り自殺をしたと聞かされます。クラリッサは最初戸惑いますが、やがてその会ったこともない青年の死を肯定的に捉えるようになります。

「クラリッサはその自殺した青年をとても近しく感じた。彼がやりおおせ、身を投げ捨てたことを嬉しく思った。時計が時を告げている。鉛の同心円が空気中に溶けてゆく。その青年は私に美を感じさせ、楽しさを感じさせてくれた」

クラリッサはパーティーに戻ります。少し離れてピーターとサリーが積もる話をしています。やがてパーティーは終わり、サリーはクラリッサの夫に挨拶に行こうとします。ピーターも行こうとします。しかしピーターの心に恐怖と恍惚が襲ってきます。この興奮はなんだ、と自分に問いかけます。クラリッサだ、と自分で答えます。そこにクラリッサが居ました。(あらすじVer.1 終り)

基本的になんにも起きない話です。小津安二郎の映画に似ています。主人公から見て赤の他人が一人自殺する、それを伝聞するというだけです。あとは有閑マダムの一日です。血も沸かず、肉も踊りません。しかしピーターはラストで興奮しています。普通に読むとなんで興奮するのかわからずじまいです。文章も読みにくいのですが、内容も非常に分かりにくいのです。大変困ります。

本作は明解な章がありません。私は構成読み解き家ですので、構成がなければ無力です。そこで無理やり章立て表作りました。鳴かぬとも、鳴いたとみなすぞホトトギス。無理は少々ありますがそれしか方法がない。

しっかりした対称構造です。読んだのは光文社の電子書籍なのですが、改行ごとにマーキングして章立て表を作成、

ずらずら書き連ねて600行以上になりましたが、それをまとめました。疲れました。並みの人間が頭の良い作家を攻略するには、なによりもまず肉体労働です。読者様で光文社文庫本のほうをお持ちの人用に、開始ページ数を記入してあります。わざわざ図書館で借りて来て調べました。付箋を貼って読んでゆけばだいたいの流れは掴めるはずです。

通常は章の区切りで

という(赤の部分)スペースが空いていますが、*印をつけた8章~11章はひとつながりのものを分割しています。やや強引ですが量的にはそれなりに良い塩梅で分割できていると思います。

あらすじVer.2

以下章立て表に基づいて解説してゆきます。時代は第一次世界大戦後のイギリスです。

1

1、朝クラリッサは、今夜のパーティーのための花を買いに行きます。

本屋の店先の開かれたページの「もはや恐るるな、太陽の灼熱も、冬将軍の怒りも」というフレーズを読みます。その後花屋に居ると、外でピストルのような音が響きます。車のタイヤのパンクです。

2

2、パンクした車にはなにやら偉い人が乗っているようです。王族か、総理大臣かよくわかりません。外に出ると空には飛行機、飛行機雲で文字を書いて宣伝しています。グラクソ社の乳製品です。トフィー(お菓子)という文字も見えます。

地上権力の車はパンクし、空には企業宣伝の飛行機、今や資本が神に代わって天空を支配し、地上権力の車はパンクするのです。公園には若い男性セプティマスとその妻ルクレーツィアが居ます。セプティマスは第一次世界大戦の戦争帰りです。イタリアで女性と知り合ってイギリスに連れてきました。ルクレーツィアは夫の様子が変なことに心を痛めています。実は戦争のショックで精神を病んでいるのです。

3

3、自宅に帰って来たクラリッサ、メイドが旦那からの伝言伝えます。本日昼食は外でとる。身分の高いブルートン夫人の昼食会に呼ばれたようです。クラリッサは呼ばれていません。なんか不満です。なんとなく昔を思い出します。ブアトン時代です。田舎です(実は架空の地名です)。友人サリーが家出して居候しました。彼女とは軽くレズ関係でした。彼女にキスされたのが人生最高の瞬間です。その感動をピーターにぶち壊されましたが、しかしいい時代でした。

クラリッサは今夜着るドレスを選択します。少し綻びがありましたので、自分で縫って補修します。昼食会を疎外された不快感がやわらいできます。言葉が浮かんできます。「もはや恐るるな」。遠くで犬が吠えています。

突然、ピーターがやってきます。久しぶりです。インド帰りです。

ある若い人妻と結婚するため、離婚案件での弁護士との相談でイギリスに帰ってきました。ピーターは昔からのくせでナイフを取り出していぎりながら話ます。上流階級でそんな奴が居るとは考えにくいですが、タネ明かしすればピーターはジークフリートが下敷きにあるキャラでして、ナイフは名剣ノートウィングのことです。

この物語世界では、ジークフリートはブリュンヒルデ(クラリッサ)とは一緒になっていません。求婚したのですがフラれました。でもピーターのほうがよかったかも、とは常に考えています。久しぶりに会ってそんな思いがこみ上げて、クラリッサは涙ぐみますが、ピーターに至ってはオイオイ泣き出します。なんか情けないです。クラリッサの娘のエリザベスとも一言言葉をかわして、家を出るピーターの背中に、クラリッサは今夜のパーティーを忘れないでね、と声をかけます。

4

4、外に出たピーター、歩いている若い女に興味を持ってつけてゆきます。年の割に色好み、というより悪質なストーカーですね。ただ執着心は薄いです。女が家の中に消えて、追跡は終わりです。あきらめて公園にゆきます。ベンチに寝っ転がって、眠りに落ちます。

5

5、ピーターは寝ては目覚め、ゆめうつつにブアトンのころを思い出します。クラリッサの実家の邸宅です。ダロウェイという男が登場します。どうも奴とクラリッサは結婚しそうだと直観します。なんせピーターはクラリッサの父に嫌われていましたから。若き日のピーターは業を煮やして噴水の傍に呼び出して、涙を流しながら訴え続けたのに、結局フラれます。ひどい思い出です。

同じ公園には、セプティマス夫妻が居ました。

6

6、セプティマスは重症です。

目を開けるだけで一苦労です。公園の木の枝が左右に分かれ、エバンズなる人物が出てくるのを見ます。自分は罪を背負ったが、逆になんらかの啓示を受けていると思っています。

7

7,ピーターは公園でセプティマス夫妻を見ます。若いから喧嘩していると思います。

サリーのことを思い出します。ブアトンでは彼とクラリッサと同じ時間を過ごしました。ヒュー・ウィットブレッドという身なりにこだわる俗物の知人が居ましたが、サリーは彼を馬鹿にしていました。ところがクラリッサは、幼馴染だからウィットブレッドがそんなに嫌いじゃないのです。

ヒューは今は王室の御用人しています。どうでもいい仕事なのですが年収は五千から1万ポンド。一方ピーターは職探し中、せめて五百ポンドの仕事が欲しいのです。ウイットブレッドかクラリッサの亭主にでも斡旋を頼むしかありません。クラリッサの亭主ダロウェイは、恋敵なのですがいい奴なのでピーターも評価しています。でもダロウェイは才能はありません。いい奴だがなにもないダロウェイと結婚して、クラリッサは堕落しました。夫の二倍も頭がいいのだが、夫の目で物事を見るようになっています。パーティーもリチャードのためです。と考えていると、気のふれた女が歌を歌っています。ピーターは可哀そうになって1シリング握らせます。

8

8、セプティマスの妻ルクレーツィアは、気がふれて歌を歌っている女を見て気の毒がります。雨の日はどうしているのか。夜はどこで寝ているのか。いい人です。
セプティマス夫婦は自宅に帰ります。セプティマスは読書家です。自力で本を読んで勉強してきました。就職先では高く評価されていました。でも兵隊にとられました。軍隊では上司に気に入られ、同性愛の関係になります。その上司がエバンズです。エバンズは戦死しました。セプティマスは戦争中でしたので特に動揺しませんでした。平静を保つ自分を誇りに思っていたくらいです。
しかし感情を抑圧しすぎたようです。ある日自分には感情というものがないことに気づき、パニックになります。パニックの中でルクレーツィアと婚約するのですが、イギリスに帰って来ても精神が治りません。普段ホームズという精神科医にかかっているのですが、今日はブラッドショーという偉い先生に診てもらう日です。

この作品では精神科医は、旧時代の牧師、神父に該当する存在です。偉大な聖職者ブラッドショーは、わかりやすく高圧的でうざったいです。彼の信条は「バランス」です。そしてバランスの女神には姉が居ます。姉の名前は「回心」です。つまり全てブラッドショーの言うがままにしなければ救われない、という態度なのです。ブラッドショーは田舎でのホームに患者を収容しようとします。セプティマスは反発しますし、ルクレーツィアさえも反感を持ちます。

9

9、上流マダムのブルートン昼食会です。招かれているのは政治家ダロウェイ氏と宮廷勤めウィットブレッドです。マダム・ブルートンが昼食会を開いた意図は、タイムズ紙に投稿する文章を二人に練り上げてもらうためでした。彼女はイギリス人をカナダに移住させるべきだと考えています。上流階級なので強気です。是非実現したいと考えます。まずはタイムズ紙に投稿です。でも文章が下手です。絶望していると、ダロウェイ氏とウィットブレッド氏のことを思い出しました。二人とも文章書けます。特にウィットブレッドは投稿名人です。だから招きました。昼食後文章に取り掛かります。あっさり完成します。

それは良かったのですが、思い出せば先ほどのセプティマスもピーター(昼食会の話題に出ます。インドから落伍者として戻って来たと)も、外国行って酷い目に合っています。海外に行って幸福になるわけではないのです。それでもマダム・ブルートンは若者を外国に行かせようとします。ちょっと強気すぎるかもしれません。

手紙案件が終わったので、男性二人は退出します。フラフラと宝石店に入ってしまいます。ウィットブレッドは傲岸不遜です。嫌な奴です。政治家ダロウェイはヘドが出そうになります。奥さんはウィットブレッドのこと嫌いじゃないのですが、夫婦間でも好き嫌いは違いますね。

10

10、政治家ダロウェイは花を買って家に戻ります。妻へのプレゼントです。愛している、と言おうと思っていたのに言えません。いい人です。妻クラリッサはエリー・ヘンダーソンという貧乏ないとこがパーティーに来たがっていることへの対応に苦慮していました。招きたくないのです。階級主義者なのです。クラリッサの嫌なところです。亭主は少し会話して、お昼寝にゆきます。医者のいいつけを守るいい人です。

一人になったクラリッサは考えます。自分はパーティーを開く。ピーターも亭主も自分を俗物だと思っている。それは違う。自分は捧げものをしたいだけなんだ。色んな人をつなぎ合わせたい、それだけなんだ。

11

11、娘エリザベスと家庭教師ミス・キルマンが来ます。キルマンは頭はよいのですが、不遇で、容貌も優れていなく、貧乏で、服にも無頓着です。不遇感があるのでクラリッサとは天敵の関係です。でも娘の家庭教師をしています。バトルによって元気を呼び起こすタイプです。熱心な教会の信者です。信仰の観点から上流階級有閑マダムクラリッサを見下しています。というのが本人の意識ですが、客観的に見ればクラリッサを見下すためだけにわざわざ熱心に信仰している気がしなくもありません。もっともキルマン先生にも良いところがあって、エリザベスは上流階級すぎますので世間を知りません。貧しい階級に対する意識をキルマンに教えてもらいます。
今日はエリザベスをデパートに連れて行ってあげる日です。みすぼらしい恰好で一緒にゆきます。キルマン先生少々狂っています。店員からは危ない人と見なされます。その後エリザベスと一緒にお茶します。ストレスたまっているので食いまくります。

エリザベスを抱きしめたいという衝動が沸き上がります。少々レズです。でもエリザベスは家に帰ります。寂しさに耐えかねて、教会に行ってストレス解消です。
本作では精神科医は悪く書かれますが、教会というかいまだに熱心な信仰を持つ人も悪く書かれます。どっちやねんです。

12

12、キルマン先生と別れたエリザベスは街をさまよいます。行動的です。17歳です。綺麗です。バスに乗ります。遠出しすぎたので帰ります。漠然と将来の見通しを考えます。農場経営者か医者になろうと希望しています。

一方セプティマスは妻と帽子づくりの楽しい時間を過ごしています。セプティマスは審美眼は持っています。妻もデザインは得意ですから、二人にしか出来ない作品、濃密な幸せな時間です。

しかしホームズ先生が無理やり入ってきます。セプティマスは恐怖します。恐怖のあまり窓から飛び降ります。死にます。

13

13、街を歩いていたピーターは(セプティマスを運ぶ)救急車の音を聞きながら、クラリッサのことを思い出します。

彼女は特異なポリシーを持っていました。自分は遍在するというのです。自分はいたるところ居ると。全ての人々、全ての物に親近感を持つ。人間として自分の見える部分は、見えない部分に比べて束の間の存在にすぎず、見えない部分こそ生き残る可能性がある。ここが本作の主題になります。

その後ホテルに到着します。クラリッサから手紙が来ています。午前別れてすぐ出したのでしょう。「お会いできて夢のようでした。それをどうしても申し上げたくて」と、一行だけです。

レストランで夕食をとっていると、モリス一家という赤の他人たちが、ピーターの堂々として礼儀正しい態度を大層気に入ります。ピーターと談笑し、また会いましょうと言って別れます。自労自活のいい一家です。 他人に評価されて流石に悪い気がしないピーター、今夜のパーティーに出席しようと決意します。

14

14、パーティーは盛況でした。昔からの知人、ピーターとサリーはクラリッサとなかなかお話できません。客の接待で忙しいからです。なんと総理大臣まで来ます。クラリッサの父の妹も居ます。片目がガラスです。このころの作品(今でもちょくちょくあります)で経済あつかうネタで片目キャラが出てくると、短絡的に「ヴォータン」というキャラと認識して大丈夫です。ブリュンヒルデの父です。クラリッサの父は故人ですが、彼もヴォータンです。樹木を不用意に打倒してしまい、クラリッサの妹は圧死してしまった過去があります。世界樹のトネリコを打倒したのがヴォータンですから。つまりクラリッサの父と叔母の兄妹はペアで一人の人物なのです。
パーティーには例の高圧的な精神科医、ブラッドショー夫妻も来ます。クラリッサは嫌な気分がします。セプティマス同様、クラリッサも精神科医が嫌いなのです。といって熱心なクリスチャンである家庭教師キルマンもクラリッサの敵です。キリスト教社会から無神論社会への、時代の間で宙ぶらりんなのがクラリッサです。
ブラッドショーの妻から、さっき青年が自殺したと聞かされます。パーティーに似合わぬ話題なので、最初不機嫌になりますが、徐々に青年の心に同化してゆきます。前章の「自分は遍在する」という考え方が発動するのです。

「かつて、わたしはサーペンタイン池に一シリングを投げた。たった一シリング。その青年はずっと多くを投げた。~中略~青年はそれ(日々の生活の中で失われてゆく重要なもの)を永遠に守り切った。死は挑戦。死は伝達の試み。~中略~死には抱擁がある」

自分の見える部分が喪失することは、逆に言えば見えない大部分、永遠の命と一体化できるという意味で肯定的に捉えるべきだと考えるのです。クラリッサはカーテンを開け、空を見ます。対称の位置で資本が支配していたあの空には、灰の白さで、巨大な先細りの雲が流れています。

お向かいの老婦人が見えます。ベッドに行こうとし、ブランドを下ろしました。不意に言葉が浮かびます。もはや恐るるな、太陽の灼熱も。自殺した青年をとても近しく感じます。彼がやりおおせ、身を投げ捨てたことを嬉しく思います。

ここで解説入れますが、クラリッサが昔一シリングを池に投げたことと、青年が身を投げて命を落としたことと、クラリッサが青年を近しく思うこと、三つを一体化して理解すべき箇所です。クラリッサはブリュンヒルデです。ブリュンヒルデは最後に、問題の根源であるニーベルングの指環を持ってライン川に飛び込み自殺します。すると世界は一度滅亡し、その後再生します。

15

15、パーティーは続きます。ピーターとサリーが会話しています。サリーはクラリッサを批判します。彼女は魅力はあるが、心の底では俗物だ。

やがてパーティーが終り、サリーとピターは亭主のリチャードに挨拶にゆこうとします。以下原文そのまま転記します。

「リチャードはよくなった。あなたの言うとおり」とサリーは言った。「行って話してきましょう。お休み、くらい言わなくてはね。心と比べたら、頭なんて何よ」レディ・ロセター(サリーのこと)はそう言って立ち上がった。
「俺も行く」と言いはしたが、ピーターはしばらくすわりつづけた。
この恐怖は何だ、この恍惚は何だ、と心の中でつぶやいた。異常な興奮で俺を満たすものは何だ。
クラリッサだ、と言った。
そこにクラリッサがいた。

(あらすじVer.2 終り)

そこにクラリッサがいた、という文章で全編は唐突に終ります。解説しますと、ナイフを常にいじくるピーターはジークフリートです。ジークフリートは恐怖を知らない人間でした。ブリュンヒルデにキスをして目覚めさせる時、はじめて恐怖を知ります。

ピーターは(過去に知り合いであり、その日の午前一度会話しているにせよ)はじめて本物のブリュンヒルデに出会います。だから恐怖しています。なぜクラリッサは午前は違ったのに、その時にはブリュンヒルデになっているのか、それは直前にセプティマスの自殺を受け入れ、消化し、セプティマスと一体化したからです。

ここまでくれば、先に進むには「ニーベルングの指環」と「闇の奥」の記事を見ていただいた方が説明早いです。

本作も「ニーベルングの指環作品群」に入ります。

クラリッサもセプティマスも「もはや恐るるな」というフレーズを口にしますし、ピーターはラストで恐怖を感じます。

これは「闇の奥」の「恐怖だ、恐怖だ」というフレーズが直接の下敷きです。そのさらに下敷きに「ニーベルングの指環」があります。
「闇の奥」の人物クルツは、アフリカ奥地の支配者というべき怪人物でした。ジークフリート(指環)→クルツ(闇の奥)→ピーター(本作)というキャラ継承の流れがあります。

「闇の奥」から派生した作品に映画「地獄の黙示録」があります。主人公カーツ(つまりクルツ)大佐は、「恐怖だ、恐怖だ」と言って死んでゆきます。

つまり、上品な上流階級を描いた本作と、地獄の黙示録は親を同じくする兄弟作品なのです。

他、「カラマーゾフの兄弟」も参照ください。

「闇の奥」はおそらくドストエフスキーのキャラ配置戦略を参照して独自のキャラ配置戦略を編み出しているのですが、本作の作者バージニア・ウルフはドストエフスキーのキャラ配置戦略までさかのぼって組み立てているふしがあります。「自分」は遍在する、という思想はドストエフスキーに大変近いものです。

解説

ペアの累積

本作のキャラ配置は、ペアの累積で成り立っています。精神科医でさえ

ペアを作っています。他にも

読者にわかりやすいのは、ピーターとセプティマスの対ですね。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」では、「自分」は時空を超えて存在していました。

コンラッド「闇の奥」では、クルツという人物が、主人公が旅で出会う人の属性全てを統合していました。

本作では「自分」は周りの人々と属性の一部を共有し、周りの人々も互いに属性を共有しています。全体としてひとつの生命として機能します。

「自分は遍在する。自分はいたるところ居る。全ての人々、全ての物に親近感を持つ。人間として自分の見える部分は、見えない部分に比べて束の間の存在にすぎず、見えない部分こそ生き残る可能性がある」

このクラリッサの考え方は、単に登場人物の主張ではなく、作品全体のキャラ配置戦略の構成原理となっています。

ピーターの衰弱

セプティマスは戦争にゆき、精神を病んでいます。ではインドに行ったピーターはどうでしょうか。彼は強気で、頭がよく、才能のきらめきがあります。しかし細かく見ると少々変です。

セプティマスの追憶では、昔サリーは、家出をしてブアトンに行くとき、手持ちの現金がなかったから先祖伝来のマリー・アントワネットの指環を質入れしたことになっています。しかし事実は、(マリー・アントワネットの指環を持っていたことは事実ですが)お金を調達するために質入したのはブローチでした。記憶違いです。

セプティマスはクラリッサは犬以外は動物嫌いだと述べます。しかし過去の追憶の中で、クラリッサが乗馬好きだったから実家には厩舎があったことを述べます。馬は好きだったのかどうか明解になりません(ちなみにブリュンヒルデは乗馬好きです)。

ピーターは噴水のそばでクラリッサに懇願した挙句に拒絶され、「その後二度とクラリッサに会わなかった」と回想しています。しかし作品の別の箇所では、娘のエリザベスに年少の時会っていますし、本人とも短時間会っています。

つまり、ピーターの記憶は揺らいでいます。脳が退化している。本人はまだまだ若くて元気なつもりですが、既に衰え、終末の時が近づいています。午前クラリッサに再会した時だらしなく泣き出すのは、単に懐かしいからだけではありません。セプティマスと同じく、精神が崩壊しつつあるのです。実を言うと本人の年齢さえ、52歳という時と、53歳という時があるのです。状況は深刻です。このピーターの精神崩壊が、作中最も分かりにくい読解ポイントになります。

ではクラリッサはどうか。少し前に病気をしています。心臓です。本人はまだまだ元気なつもりです。でもピーターと同じく、終末の時が近づいています。

二人はラストで出会います。クラリッサはブリュンヒルデになっていますし、ピーターは恐怖と恍惚を感じていますからジークフリートになっています。午前中にはなかった状況です。彼らはジークフリート第三幕第三場のごとく出会います。ピーターもクラリッサも本来の姿を取り戻します。ラストシーンは死と再生のシーンなのです。クラリッサの心臓は若返り、ピーターの頭脳も若返ります。運命の扉は一度閉じ、再び開きます。

その後の二人

ではラストシーンの後、彼らはどうなったのでしょうか。外国に対して積極策をとる人々、たとえばブルートンなどの描写を見れば、外国への勢力拡大にクラリッサが否定的なのは明らかです。ピーターは三代続くインド駐在の家系ですが、今回の帰英を機に本格的に英国に移住します。まずは田舎のサリー宅に立ち寄り、近くの土地で農村経営をこころざします。モリス一家に尊敬されたということは、ピーターは今後モリス一家的な、自労自活の道を歩むはずです。インドではピーターはオリジナルな鋤を発明しています。しかしインド人は使ってくれませんでした。その鋤をイギリスの農場で活用します。
そこにからんでくるのが、クラリッサの娘エリザベスです。彼女は医者か農場経営をやりたいと思っています。とりあえずは医者の道、おそらく精神科医になります。ブラッドショー流の田舎の精神患者収容ホーム、ただ高圧的ではなく、病んだ人々が働きながら回復している施設をピーターの農園の中に作ります。そこで大戦はじめ海外での活動で傷ついた人を癒してゆきます。

クラリッサと夫の関係はどうなるでしょうか。すぐにクラリッサとの関係が切れることはありません。夫がクラリッサを愛していますから。でもクラリッサの気持ちは徐々に離れてゆきます。なぜなら亭主はアルメニア問題、つまり外国への勢力拡大にとりかかっており、かつパーティー中に精神科医ブラッドショーとある法案について話し合っているからです。法案の中身は明らかにされませんが、「シェルショック(戦争による精神障害)の影響が多少遅れて現れることがあって、あの文言はそのことだ。法案に絶対に必要な条項だよ」というブラッドショーの声が聞こえます。つまり法案の中身は、戦争に行って精神を病んだ患者を、即座に強制的に拘束して施設に収容できる権限を精神科医が持つことを認める、という内容のはずです。セプティマスの自殺に関連する話になるはずです。

そして亭主は政党内の大人しいスタッフであり、独立の気概はありませんから、政党に逆らってまで自分の主張を通す勇気はありません。全体の雰囲気に流されて今まで通り対外拡張を続けてしまうはずです。

それにより内政指向のクラリッサと亭主が離婚するかどうか、までは定かでありません。ピーターが婚約者と切れるかどうか、も定かではありません。確実なのはピーターとクラリッサ、すなわちジークフリートとブリュンヒルデが今後協調して、国内状況の改善に努めることだけです。
クラリッサはパーティーに総理大臣を招けるほどの政治力を持ちます。亭主も政治家です。ピーターの農場に大きく投資する事は可能です。

ブルームズベリー・グループ

1904年、作者の父は死にました。作者の姉は作者とともに、ブルームズベリー地区に引っ越しました。新居はやがてイギリスの知的な人々が集まる場所になりました。ブルームズベリー・グループと言います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ブルームズベリー・グループ

ジョン・メイナード・ケインズもメンバーの一人です。彼が「雇用・利子および貨幣の一般理論」を出版するのは1936年、本作の11年後ですが、バージニア・ウルフはケインズと会話し、彼の考え方を十分聞いて自分なりに咀嚼したとみなして間違いありません。「ニーベルングの指環」を下敷きにする作品のほとんどがそうであるように、本作も経済小説です。冒頭の空には資本が踊り、それらは王室や総理よりも上位に位置します。
そして全編はペアで組み立てられます。章立てもそうですし、

登場人物もそうです。

キャラ配置と作品構造は、どちらかに努力が傾く傾向が多いのですが、本作は両方まんべんなく目配りできています。対称構造は、冒頭と末尾、冒頭の次と末尾の前、という風に対が対称的に並ぶ、という意味ですから、構造的にもキャラ配置的にも、対という構成原理で統一されています。では対とはなんでしょうか。

よりよき貨幣

なぜ人間が対句を作りたがるのか、その原因については不明です。しかしともかくも昔から対は存在しており、文学の重要な要素になっています。

挙頭望山月
低頭思故郷

のような二つ一組のペアを作ります。この例ですと

挙頭→低頭
望→思
山月→故郷

それぞれが対になっています。共通点があり、かつ完全には同じものでは無いことが対句成立の必要条件です。

人間の精神の根源において、対句と交易は同一原理から発したものだと推察されます。ある物品と別の物品を交換する時、交換される両者は明らかに同じものではありませんが、必ず共通点はあります。価値が等しいとみなされているのです。「共通点があり、かつ完全には同じものでは無い」という認識活動のうち、共通点が価値になったものが交易、共通点が語句になったものが対句です。ペアを作るという意味において、交易と対句は隣同士の存在なのです。

キャラの対句、構成の対句で埋め尽くされる本作で、ペアの中心に居る存在、クラリッサことダロウェイ夫人がなにものか明らかだろうと思います。彼女はバザーを開くベクスバラが大好きです。家の中にある不要物を集めて一つの市場を作るのがバザーです。ダロウェイ家のお手伝いルーシーは銀器を磨くのが上手です。クラリッサは俗物だと陰口を言われます。亭主はさして出世していないのに、クラリッサは総理大臣をパーティーに呼べる力を持ちます。

彼女は遍在します。いたるところ居ます。全ての人々、全ての物に親近感を持ちます。資本が天空を支配する世界に生きています。クラリッサは貨幣です。貨幣を人間化して描いています。欠点としては貧乏人を嫌う事くらいです。今後のイギリスの貨幣は、対外政策ではなく、国内の充実に向けられるべきだ、それが本作の主張です。

「ニーベルングの指環」のラストはブリュンヒルデの自己犠牲です。指環を持って彼女は、ライン川に身を投げます。セプティマスの身投げを聞いたクラリッサは、かつて池に1ペンスを投げ捨てたことを思い出します。クラリッサも捨て身になるのです。公園の気の違った女に1ペンスあげたピーターが来ます。二人は(旧知の間柄ですが)劇的に出会い、一つの時代(対外拡張主義、それの帰結としての第一次世界大戦、傷つく人々)を終わらせ、新しい国内投資の時代を開くのです。

余談

ギャツビー

作品解説は以上です。本作は「ニーベルングの指環作品群」に含まれます。しかし、名作ではありません。大変優秀、大変革新的ですが、実験作であって不十分な出来です。生命がない。
彼女は恐らく、実社会の経験がほぼ全くないのではないでしょうか。私のような中年おじさんには実体の無い、本と伝聞の知識だけの作品に思えます。頭はよいのだがペラすぎる。しかし逆に言えば、若い女性には読みやすく入りやすい作品なのかもしれません。

本作と同年1925年に、海の向こうのアメリカでは「グレート・ギャツビー」が発表されます。作品としての出来はギャツビーのほうがはるかに上です(と男性は思うわけです)。

上流階級で知的グループの一員であることよりも天賦の才がまさる、とも言えますし、最高の成果を達成した国よりも、成長しつつある国の勢いがまさる、とも言えます。ギャツビーは経済小説でありながら、生命感が充実しています。そもそもウルフは、貧困階層の実体の知識も、実感も持っていなかったでしょう。クラリッサがドレスを補修するシーンは、

「闇の奥」のパッチワーク男の書き換えです。ウルフはパッチワークを補修の意味、弥縫策の意味に取ったようです。フィッツジェラルドは色とりどりのドレスを投げつけるシーンに書き換えています。

こちらのほうがシーンとして華やぎますね。しかし「闇の奥」ではパッチワーク男に続いてクルツ(つまりジークフリート)の登場ですから、本作のドレス補修中にピーター(これもジークフリート)登場のほうが、「闇の奥」には忠実とも言えます。

漱石

経済小説でペアを強調することは、経済の本質を考えれば革新的とも言えるのですが、実は本作の17年前、夏目漱石は「三四郎」で同じことをしています。里見美禰子と野々宮よし子のペアです。

経済小説ですし、雲を強調するのも一緒ですね。もっともウルフが漱石を読んだ確率はほぼゼロです。

三島由紀夫「豊饒の海」の第三巻「暁の寺」も、双子に姉妹を登場させてペアを強調しています。こちらも経済小説です。三四郎を下敷きにしています。

考えれば本作のラスト「そこにクラリッサがいた」は、豊饒の「それも心々ですさかい」に極めて似ていますね。三島がウルフを参照したかどうかはわかりませんが、ニーベルングの指環由来の経済小説でしたら、それくらい似るだろうなとも思います。

もっともバージニア・ウルフがダメな作家というわけではありません。漱石はどうも(その認識は私にもなかったのですが)人類文学史上有数の存在のようです。しかしその意味は発表当時十分には理解されなかったし、今日でも不十分なままです。
対してウルフを鑑賞した当時のイギリス人は、流石に当時の世界で最高の国の国民だけあって、この読みにくい作品を鑑賞して評価できました。我々は宝を持ち腐れたと反省すべきなのでしょう。少なくともウルフはケインズの影響を正しく受けれた知性があり、イギリス国民はケインズとウルフを評価できた。

意識の流れ

「意識の流れ」という文章技法について、本作を読んでもよくわからなかったのでChat GPTに聞いてみました。


「意識の流れ」とは、登場人物の思考、感覚、記憶、感情などを途切れることなくそのまま描写する手法です。この手法は、読者に登場人物の内面世界をより直接的に感じさせることを目的としています。具体的には、以下のような特徴があります:

断片的な文章や曖昧な表現
文法的には完全でない文や、突然話題が変わるような文章がよく使われます。
例:「空は青い。いや、今日は灰色だ。どうして昨日の話を思い出しているんだろう。」

時制や視点の混在
思考や記憶が交錯するため、過去と現在が混ざったり、一人称と三人称が交互に現れることがあります。
例:「彼女はそこで立っていた。そう、あの日も。なぜそんなに怒っていたのか、わからなかった。わからないままだ。」

句読点の少なさ
時には句読点を省き、思考の連続性や混乱を表現します。
例:「今どこにいるのだろう駅を出て右だったか左だったかあの看板を目印にしたのに」

内的モノローグの再現
人物の心の声がそのまま文章として描かれます。
例:「どうしよう、またミスをしてしまった。いや、大丈夫だ、きっと誰も気づいていない。」

代表的な「意識の流れ」の作家としては、ジェームズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、ウィリアム・フォークナーなどが挙げられます。日本文学では、川端康成や三島由紀夫の作品にこの要素を見出すこともできます。


だそうです。解説受けてもよくわかりませんが、女の繰り言のようなぐちゃぐちゃ文章であれば合格のようです。この系列では太宰治「女生徒」が上手く出来ていると思います。

当時はウルフの翻訳は出ていませんから、太宰は読んでいないはずです。でも同じような女性の一日の物語です。「ダロウェイ夫人」の14年後の作品です。

英米のこのぐちゃぐちゃ文章技術はやがて

という大きな成果に結実します。必要とするポイントをものすごく効率的に語れる技術になっています。時系列倒置と意識の流れは、隣接し相互浸食する概念のようですね。以下リンクもご参照ください。これを意識の流れとよぶなら、この技法の作品の傑作だと思います。

ほか、本作はそこここにエリオット「荒れ地」の影響があるのですが、私が「荒れ地」(これもニーベルングの指環作品群に入ります)を読解できていないので解明できていないままです。今後の課題です。

柴田徹士(しばたてつお)

英文学者柴田徹士(1910-1999)に「小説のデザイン」という著書があります。

1、下敷きにホメロス「オデッセイア」及びジョイス「ユリシーズ」を使っている
2、ソナタ形式で書かれている
3、登場人物がペアになっている

という主張です。3は全く正しいです。
1ですがオデッセイアは大昔に読んだだけですし、「ユリシーズ」は読んでいません。よって論評できないのですが、少々無理がある気はします。一日の物語という意味でジョイスを意識したのは間違いありませんが。
2のソナタ形式というのははっきり間違っています。

のような整然たる構成は見られません。本人も「どこまでが提示部でどこまでが展開部か判然としない」と言っています。だったらソナタ形式と主張してはいけません。ただウルフの次回作、「灯台へ」はより音楽を意識した形式になっているとも主張していまして、そこの成否は判別しかねます。「灯台へ」を解析する予定は今のところありません、あしからず。
しかし昔の人のほうが必死で読んでる感じはありますね。明治生まれの方ですが、態度が素晴らしいです。はしがきに江川卓(えがわたく)のドストエフスキー読解、織田正吉の百人一首読解への言及があります。私もそれらに影響受けています。そこは全く同感です。私の読解もどうせ間違い大量にあります。でも読解しようとしなければなにも始まりません。柴田徹士の読解しようとする態度に強く共感します。

最後に、本稿に利用した画像は、「ダロウェイ夫人」の映画版のものです。日本語訳がありませんので私には鑑賞できません。英語が得意な方どうぞ。非常に力が入った映画で、カメラ、俳優、衣装、美術、いずれもすばらしいです。「ギャツビー」と同じくリスペクトのある映像化は気持ちが良いですね。


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