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オンライン秘書ゆみっちができあがるまで 【道のり前編】〜生まれたときから三代目

こんにちは。

オンライン秘書で家族みんなハッピーに過ごすぞ!!と思っている、ゆみっちです。

色々これから発信していきたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

その前に、まずは私のことを知っていただきたい!ということで、「オンライン秘書ゆみっちができあがるまでの道のり」をお届けしていきます。

書くこと山盛りで、どうやら三部作になる模様…

読んでくださろうというあなたに、感謝です♪ありがとうございます!


▼わたしはこんな人

・会社員、兼個人事業主
・小規模企業の経営補佐から個人事業の確定申告まで自分でこなす
・元から備わったビジネスマインドあり←って言われる
・アフィリエイター
・オンライン秘書
・PC操作が得意
・調べ物が得意
・コミュニケーション好き
・誰とでもそつなく付き合える
・興味を持ったらすぐ行動!
・気になることはすぐリサーチ!
・困っている人をほっておけないおせっかい気質
・サービス精神旺盛
・人を喜ばせるのが好き


▼ 三代目生まれる

私は新潟県の小さな港町の、これまた小さな衣料品店を経営する家に生まれました。

そして物心ついた頃から『三代目』として、祖母と母がつないだこの店を継ぐものだと思って成長します。

本家は、400年続く老舗の大問屋(廻船問屋として関西から来たらしいです)

そんな背景を知ってか知らずか、商売人魂とサービス精神を先祖様から受け継いだものと思っていて「自分は商人の娘だ!」という謎の自負を持っていました。

幼い頃から愛想がよく、いつもニコニコしていた子供だったと思います。

ちなみに4つ上に兄がいるのですが、自他共に、私が店を継ぐという思い込みのおかげもあって、彼は早々に自由な道へと飛び立っていきました。

長男よ……

妹が親のそばにいるってわかっていれば、さぞかし安心だったことでしょう。。

早くに親元を離れて兄は兄で苦労しただろうけど、好きなことを好きなようにやれて、とても羨ましいわいっ!と今になっても思っています。(兄妹仲は良好です♪)


高校生のときに父親を病で亡くします。

大病を患っているとわかったときには、すでに余命数ヶ月で。あっという間に永遠の別れとなりました。

このことで母も私も心身ともに弱ってしまいます。なおさら、お互いそばで支え合い、ともに店を経営して行こう!という共通の目標が強まったのかもしれませんね。


店を継ぐという大義名分を掲げ、この頃の私は、将来についてな〜んにも考えていなかった…というのが一番正しいかも。


自分は本当に何ができるのか、好きなのか。

進学時に誰もが考える将来のこと。それと、全く無関係な世界にいました。だって私店継ぐもん(笑)

これには、後ほど大いに後悔することとなります。。


大学進学も、最初の就職先も、将来店を継ぐための選択肢でしかなく。

どこで役立つのかわからない経営学を学んだり、グローバルな経済における日本のなんちゃらかを学んだり、ほとんど興味がなくても「将来会社を継ぐから」と言うたったそれだけのために、大学生活を送っていたのです。

楽しく4年間遊びました。お母さんごめんなさい。


このとき、母は女手ひとつで私と兄を進学させています。お母さんほんとごめんなさい。


女性が経済的に自立するって中々できることじゃないですよね。でも、そうなれば配偶者に頼らずとも生きる力を持てます。

これがどれほど困難に対して大きな意味を持つか。今なら、よくわかります。お母さんほんとごm・・


夫の収入が無くなったとき、死別や離婚でシングルとなったとき。

そこで、自分の力だけでしっかり生活できたなら、もっと女性たちは自由にたくましく、幸せな人生を生きられるはず。

母を見て育った私は、女性の自立、自分の力で稼ぎ、生活する力を得ることに、早くから関心があったように思います。


▼ 楽しかったサービス業 販売の修行時代


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さて、

いざ社会に出て、大手アパレルメーカーの派遣販売員として新宿の百貨店に務める事となりましたが、
「商人の娘だ!」の自負の通り(?)、販売業はとても自分にあっていました。

お客様にも可愛がられましたね!

そして、『お客様に喜んでいただく』ことが嬉しく、その喜んでいただくことにやりがいを感じます。

蛙の子は蛙だと思ったものです(笑)


遡ればちょうど私が小学生の頃、世はバブル一色で。小さな町のブティックでも、それはもう繁盛していました。

だから私も、朝から晩まで、お客様のお相手をする母の姿を見ながら育ったのです。

晩御飯は21時をすぎるのが当たり前で。

まだ終わらないのかな〜って、寂しくて、リビングと店とをつなぐカーテンをそっと開いて・・・あぁ、我ながら不憫だこと^^;


でもそのカーテンの先に見えたのは、お客様のとっても楽しそうな顔と、満足そうに帰っていく様子。

そして、イキイキと働く母の姿。


親のやっていることは、人の役に立つ誇り高い仕事だと、幼い頃から感じていたのです。

その母がやっていた仕事を、いま自分もしている。

百貨店での修業を頑張って、次は実家の家業を継ぐぞ!!

流されつつも、決して消極的な気持ちではなく、そんな風に思っていました。。


▼ 結婚と現実


しばらくは東京で毎日クタクタになるまで働き、洋服販売や接客についての経験を積みました(ほとんど遊ばなかった!もったいない!!)

そして、その後は新潟へと戻ります。

実家に呼び戻されるまで東京にいても良かったけど、都会の空気は私には合わなかったようで。喧騒と人混みの中新潟が恋しくなり、地元の百貨店へと異動願いを出したのです。


ここで夫と出会い結婚へ(ここはさらっと)

この結婚がタイミングとなり、ついに私は実家に入ることとなります。これにて小規模企業の一社員です!


若い風を吹き込んで、店をもっと活気づけよう!

当初は母も、従業員さんも私も、お客様みなさんも、わくわくしていました。

私もようやく三代目としてこれからやっていくんだなという安心感に包まれます。


そう、安心感。。。

三代目って、「ボンボン」だとよく言いますよね(笑)


結局私もご多分に漏れず、箱入り娘のボンボン三代目(予定)だったんです。

会社を継げば、母のように順調に経営でき、売上も右肩上がりで上昇し、お給料(報酬)もどんどん増えるって…

世の中そんなに甘くないのにね。


今ある母が作り上げた信頼とその顧客は、母と一緒に歳をとっていきます。

私は三代目として、新たな顧客層を生み出さなければならないのに、それができなかった。


もちろん、時代の流れ、住民の減少など外的要因もあるでしょう。

でも一番は、何一つ自分で考えずに、努力せずに、親の敷いたレールを進んだ私に、何も力が備わっていなかったから。


世間知らずの三代目娘は、田舎の過疎化と、安売り業界の参入に立ち向かう術をまったく持てていませんでした。


今思えば、そこから必死で勉強して、新しいことを取り入れ、がむしゃらにやって結果を出せたかもしれません。

でも、当時の私は、諦めることしかしなかったんですよね。


『だめだ。このままだと、全然経済的に自立できない』と。


その頃、2人の子供も小学校にあがり、将来のことを考えるようになりました。これから高校大学と進学させるのに、いくら必要なのか。

夫は肉体労働で毎日頑張ってくれていますが、彼も個人事業主で何も保証のない身。

今はまだよくても、この先どんどん経営が先細りしていく予想の中、このまま会社を継いでやっていく自信がどうしても持てなかったのです。


急に将来に不安を感じて、いても立ってもいられなくなった私は、なんとか会社だけでなく、別のお金を得られる方法がないかと探しはじめました。

つまり、副業を探し始めたわけです。



ここまで読んでくださりありがとうございます。中編へ続きます。







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