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私を引き受ける

ノンスタイルの石田さんが好きだ。
もうかれこれ5年くらい、ぬるま湯みたいな温度でずっと好きで、ノンスタイルのネタは定期的に見るし、最近では石田さんが個人のよい〜んチャンネルに上げている動画も見るし、ブログも読む。仕事への向き合い方やお父さんとしての姿ももちろん好きなんだけれど、ずっと惹かれ続けてるのは石田さんの生き様だ。「え、なんでなん?」って思うことをシンプルに自分のなかに持ち続けるその真っすぐさ。考えすぎで脳を腫らしてみたいと思うくらい突き詰めて考える孤高さ。そしてその「なんでなん?」を単に怒りや消化不良の感情として終わらせるのではなく、ネタにして笑いという形で昇華する技量と努力と才能。

みんなが「もうそれええやん、そんなこと気にせんでええやん」、って思考停止して考えるのを諦めてきたことに向き合い続けた人だけがたどり着ける境地。石田さんにはなんだかそんなようなものを感じる。

昨日アップされた最新のネタで、親子丼の上の、米と親子がいなければなんの役割も果たしていないのに主役級の顔をしている卵のことと、相方の井上をかけて「勘違いエッグ」と読んでいて笑った。卵にも井上にも、「感謝せんかい、主役級の顔してるけど、お前が輝けんのは他の支えとなってくれる存在があるからやぞ」、と。そういうところ、親子丼の上にちょこんとのってる卵っていう、溶け込みすぎててもはや疑問にも思わないところからネタが出発してるのがやっぱりすごい面白くて好きだな、と思う。

みんなが気付かないことや、気付いていても素通りできてしまうことに、ひっかかったりつまずいたりすることは、苦しい。だれかに理解してもらえないことが多い分、孤独も深い。

それでも自分だけが持つ固有の感性を捨てたり蓋をしたりせず、自分が感じたことをベースに、自分の感覚を信じて生きていくことは、すごく気高く強くしなやかな生き方だと思う。

自分だけの羅針盤を持ってる、他人から振り回されないってことだから。私がいいと思うものはいいし、変と思うことは変。それは私だけの感情で、ほかのだれの肯定も否定も必要としないものだから。

石田さんがつくるネタに触れるようになってから、私の生活には笑いと、ちゃんと立ち止まって考える時間が生まれた。それってどうなんだろうって思うこと、疑問に思ったなら、思考停止しないで考えてみること、その先で自分なりに見つけた答えを指針に生きていくこと。そういう生き様の尊さとかっこよさを知った。

私は感じとる。
場所の持つ特有の匂いから、まな板の上で切る野菜の切れ味、1曲の歌を構成する歌詞以外の音全てまで。

私は言語化する。
自分の考えや見たもの、その時に感じたことを表現する手段として、絵でも歌でもダンスでもなく、私は言葉を選ぶ。自分がショックを受けたときや嫌な思いをしたときも、なぜそう感じたのかを、ゆっくりひも解いて言語化することを選ぶ。何を言葉として起こし、何は言葉にはせず感じた生もののままとして心に残すかも含め、選ぶ。

そうすることで、収まるべきところに感情は収まり、少しだけ、自分という輪郭がくっきりする。そうやって私にとってくっきり浮かび上がった私は、他のだれかにとってはぼやけた存在かもしれない。


それでも私は私を引き受ける。
今はそういう、人生の境地にいる。

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