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食い意地は生き意地

危険だ。
好きなものを、好きなときに、好きなように食べることの幸せがいっぱいに詰まったエッセイを読んでいるからか、食欲が止まらない。

そうだよね、これがもしかしたら最後のごはんになるかもしれないんだもんね、そんな時に遠慮も妥協もしてられないよね、といいとこどりの思考で、バターチキンカレーにラッシーにハッピーターンにエクレアにと好き放題やっている。


幸せだ。

家族で暮らしていた時は、
一応家族といえどいい感じに監視の目というものが働いており、好き放題食べる、といってもたかが知れていた。1日に箱アイス2本とか。

しかし1人暮らしをするようになってからというもの、基本自分が何を食べているかは自分から公言しない限り家族の目には届かないし、自分が稼いだお金だから自由に使ってもいいということで、なんでも好き放題食べることを止める人は私1人しかいなくなった。

つまり、爆食いが止まらない。むしろ拍車がかかっている。

ポテチ1袋なんて余裕だし、ガルボなんてパクパク食べてたら5分以内になくなっちゃうし、
このまえは伊勢名物・赤福12個入りを1人で全て平らげるという快挙を成し遂げた。

多幸感に包まれていた私は、
母に電話でポロリと赤福の12個入りを買ったという情報を漏らしてしまい、

「1人じゃ食べきられへんかったやろ。冷凍した?」

への返答がうまくできなくて、バレた。怒られた。

いや怒られた、というより食べすぎやで!と驚かれた。私も赤福を12個収められる自分の胃に驚いている。

1人暮らしをするようになって、
自由と引き換えに失ってしまったものがあるとすれば、分かち合いの精神、だろうか。

バームクーヘンもグラタンもカヌレも小籠包も唐揚げも桃もキウイも何でも、ぜーんぶ独り占め。
私は姉と2人姉妹で、基本なんでもはんぶんこ、で育ってきたから、1人暮らしを始めたての頃は、全部1人で食べていいという事実に満たされて仕方なかった。でも今は、最高に自由で美味しくて独占的な食生活を、ちょっぴり物足りなく思う。

これうま、と思った食べ物を、全部自分で平らげるのも幸福だけど、
これめっちゃおいしいで、と自分の皿のものを相手の皿へ移し、分け合って食べるのも幸福だ。

最近はもっぱら独り占めしかしてなかったから、
誰かと分け合いながら食べるごはんのことを恋しく思っている。そろそろ家でプチホームパーティーでもしようかな。


もとからよく食べる方だったし、
食い意地もすごく強い方だったけど、
1年前の夏、祖父が亡くなってから、それまで以上に私はよく食べるようになった。

祖父の死は、大人になってから初めて接した身近な人の死で、人の生の儚さや尊さを痛いほど思い知った初めての経験だった。

祖父の死を前に、私は、どうしようもなく生きなきゃ、と思って、その生きなきゃ、はやがて食べなきゃ、という強い意志として私の中に根を下ろした。私の中で、食べることは生きることであり、とにかく食べて生きることに必死だった。

だからどんなに嫌なことがあった日も、
悲しくてしゃくりあげながら泣くような日も、
残業で帰るのが遅くなってヘトヘトの日も、ご飯だけは絶対、抜かなかった。

毎日自分に「何食べたい?」と聞いては、
自分でつくったり外に食べに行ったりして、
聞いても答えが返ってこないときは、自分が今何を食べたいと思っているか分かるまでじっと辛抱強く待った。食べたいものを食べることを、諦めたくなかった。

祖父の死からは、もうすぐ1年が経とうとしている。何があっても食べ続けたこの1年を振り返ると、自分でも本当に、毎日負けじとよく食べたな、と思う。

昼ご飯を食べながら今日の夜は何を食べよう、と考える健やかさが、
何があっても食事だけは抜かない、という食への強い執着が、
おいしいものをたらふく食べたい、という食い意地が、私を毎日生かしていた。

食べることは、生きることだった。

台所で汁を滴らせながらトマトをまるまるかじるとき。
鍋でぐつぐつと煮込んだカレーを口いっぱいにほおばるとき。
あぁ生きてる、と感じる。

私はこれからも食べることで生きていることを感じ続けていたいし、食べたい時に食べたいものを食べる私でいたいと思う。

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