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ヨガによる病気を治す知恵 沖正弘著

皆さんは、呼吸が整うと、こころもからだも整うことを知っているだろう。宗教では、お経を読んだり、マントラ(聖音)を唱えたり、合唱したりするリズム呼吸法を行なうが、この行法で姿勢が整い、こころが落ち着き病気もなおりやすくなる。

胃の強化法
②筋肉の柔軟、収縮力を強化する。筋肉はしんであるところの骨の位置を正常に保つ原動力である。骨に血液が配合されるのは筋肉の収縮によってである。

骨を丈夫にしよう

  1. 正常な姿勢を保つよう心がける。

  2. 骨の栄養となるものを過不足なくとること。これは、カルシウム、隣、ミネラルなどであるが、これらを沈着させるはたらきをするビタミンCDKも必要である。

頭をよくする方法
頭をよくするには、からだを健康にする原理と同じく、よく使うことと、よい栄養(食物と知識と体験)が必要である。よい頭とは、回転が早く、調和性が高く、適応性が広く、しかも作り出す思想と感情が自他のためになるということである。
まず頭の回転をよくする方法の第一の条件は、頭の必要とする物質(酸素とブドウ糖とその完全燃焼を助けるもの)が充分に補給されており、不必要な物質(炭酸ガスやアンモニア)が完全に排泄されていることである。首に異常があっては血行が悪くなる。

首の正常を保つのに必要な条件が、正姿勢で、その柔軟性を保つために必要な条件が深豚吸とこころのくつろぎ、やわらぎである。
条件反射の実験では、交感神経を刺激すると、頭のはたらきがよくなり、副交感神経を刺すると頭のはたらきがにぶることを証明している。
精神の統一がすなわち交感系中枢を刺激することだが、この方ばかりにかたよりすぎると、疲労するから、適度にその緊張をセーブする副交感中枢への刺激が必要で、この刺澈が弛緩法である。からだの弛緩法、呼吸法が筋肉をゆるめる方法であり、頭の弛緩法(肩仰と冥想法)がこころをくつろがす方法で、とくに神経を疲労させないためには
こころをくつろがすことが第一条件である。それは疲労の発生に大きな役割をなすものが、中枢神経に生ずる変化だからで、ノイローゼや重役病は中枢神経の持続疲労である。
頭が疲れてくると、興奮と抑制の平衡性が乱れて、イライラしたり、反対にふさぎこんだりするのである。この頭の疲れがすすむと、肉体にも悪影響をおよぼすことになり、この両者の悪循環がつづくと、両者の疲労が加速度的に増加していく。
ヨガの集中行法は興奮力を意識的に高める訓練であり、禅定行法と信仰行法は、意識的に、抑制力を高める訓練である。この両者の関係が、最高のバランスを保つとき、頭は最高の能率を上げうるのである。

異常(病気)のなおし方、それはくつろぐこと
くつろげば力が生まれ、きばると力を失う。なにごとでも、やらねばとか、やるべきだときばればいやになり、やれるだろうかと疑うと、おじけづいて力を失うから、多忙なときほどくつろぐくふうをすることが必要だ。
安眠できることが異常回復の最上法で、心身のくつろいでいるときほど、内部の力がよくはたらく。病気も恐れると悪化するが、くつろぐと痛みもやわらぎ、なおり方も早い。
むずかしいことでも、楽しんでやると疲れないのはくつろいでいるからで、能力発揮には自分をも他人をもしばってはならない。よいことでも強制されるとやりたくなくな反抗したくなるのは、束縛に対する防衛反応である。
きばった状態がつづくと、生理状態にも異常が起こる。だから病気の原因には、こころからのものが多い。
こころの興奮緊張がつづくと、脳の細胞が疲れて、その代償能力や回復能力を失って
しまう。
くつろぐためのテクニック
・よく動こう
🔴筋肉がこわばっていたり、血行が悪いとくつろげない。からだが凝っているとくつろげないし安眠できないので、睡眠不足になりやすく、疲労回復能力も失調する。筋肉のこわばる第一条件は運動不足である。指圧、あんま、体操などで、回復能力が高まるのは、筋肉がゆるんでこころがくつろぎ、血行がノーマルになり、神経やホルモンもはたらけるようになるからだ。
酒を飲んで、ころんでもケガをしにくいし、痛さも少ないのは筋肉がゆるんでいるからだが、同一のショックでも、こわばってうけるとからだを傷つける。どんなことでもくつろいで行なえるようになれば達人であり、くつろいで行なえるためのくふうが修行である。
筋肉は、使い方が悪いとこわばってくる。かたよった使い方をすると、そこだけがしだいに凝ってきて、もし固定するとその部の疲れがぬけなくなる。
一番上手なからだの使い方は、全身を平等に使って、いつも血液を全身に平等に配給し、疲れを平均に分配する使い方をすることだ。この全身を使っている合理的使用法をハラで行なうというのであり、腰と下腹だけに力がこもっていて、他の部分には力のはいっていない状態だ。
からだは、軽くゆすぶったり、なでたりするとゆるむ、乗り物にゆられていると眠くなるのも、赤ちゃんがゆすぶられて眠るのも、くつろぐためである。
病人が、病人顔して寝てばかりいてはなおり方がおそいし、老人がじっとしていては老化が早まってしまうから、からだをこまめに使う心がけが必要だ。運動後の快感はからだのくつろぎから生ずるのだから、つぎの行法を意識的に行なうとよい。
①息を吸いこんで呼吸をとめ、ギュッと全身に力をこめ、しばらくそのまま耐えて、力を下腹部にこめたまま息を強く吐き出し(半分ぐらい)、そこで急に力をぬいて、ホッとした状態でさらに残った息を吐き出してポカーンとし、つぎにゆっくりと息を吸いこむことをくり返す。


  1. 急に力を入れてはぬくという緊弛の交替を、呼吸のリズムに合わせて、すばやくくり返すことを反復するとゆるんでくる。気合いをくり返しても同一効果がある。

  2. 筋肉は、伸ばしたり、ねじったりするほどゆるみやすい。ときどき思う存分にからだを伸ばしたりねじったりするポーズを実行すると疲れにくい。痛み、苦しみ、疲れは、筋肉が縮むからである。筋肉は伸ばすことが休めることである。

⚫︎できるだけ長く息を吐き出そう。からだは、息を吸っているときと、その後はしまっており、息を吐いているときとその後は、弛緩している。呼吸を、深く長く、ゆっくりするほどからだはゆるんでくるのであって、その理想的な呼吸型が笑いと冥想である。深く、長く、力強い、おだやかな呼吸で、心身ともにくつろがした落ち着いた状態で、一日じゅう生きられるようになったら人生の達人といえるのである。
・大食や偏食はさけよう
断食し、小食をつづけていると、だれでもからだがやわらぎ気分がおだやかになってよく動ける。大食するとからだがこわばり、動きたくなくなり、また興奮しやすい。
偏食して栄養にかたよりが生ずると、からだのはたらきに異常が生ずるのでくつろげない。酸性の血液になると、神経が興奮しやすく、落ち着きにくく、持久力も短いが、野菜や海藻類は鉄物質が多いからスタミナがつづき、心身もくつろぐ。
・なにごとも楽しんでやろう
楽しんではたらいているときはくつろげている。楽しんではたらくためには、すべてを善意に解釈すればよい。利害損得や成否にひっかかるから楽しめないのだ。いっさい、のことを楽しみと変えるくふうが修行である。ヨガでは、いっさいのことを教えとしてうけとれという。いっさいのことを教えとしてうけいれて、感謝せずにおられない心境が合掌であり、最上にくつろいだ姿である。同じことでも、他人の命令や強制でやるとくつろげないが、自分から進んでやるときには、困難なことでもくつろいで行なえる。
だから頼るこころがあると不平が起こり、不満を感じ、さばくこころがでてきてくつろげないのである。感謝、報恩、下座、奉仕、利他のこころは心身をくつろがしてくれるのだ。
うそやいつわりを持っているとくつろげないが、まかせきって体当たりするこころで、人事をつくして天命にまかせる生き方のこころはくつろいでおり、いつもみちたりてやわらいでいる。裸のこころで生きて、ことさら無理や要求心のない動物は、いつもくつろいでいる。

自分にわかっていることには、くつろいで対処できるが、わからないことには不安を感ぜざるを得ないから、人事をつくして結果はまかせるこころで生きるのがよいのだ。
病気はなおるものだと思っている者はくつろいでいるが、どうなるだろうかの不安を感じている者はくつろげない。安心するためには賢くなる以外に方法はないのであるが、私たち一個人の知りうる範囲には限度があり、この宇宙にはわからないことが多いから、わからないことは、なりゆきにまかせきるこころになるのだ。すべてはよくなる以外にはないのだと言ずるのが一番よいのだ。
私たちのからだは、宇宙につながる強い力が与えられているのだから、病気はなおらなければならないようにできている。この内在力を自覚したら、だれでも積極心になれる。あらゆる宗教では、自分のうちに、神性と力が存在することに気づけと教えている。
力ありの自、できるのだの自はくつろぎを与える。積極心とは許すこころ、わびるこころ、与えるこころ、サービスするこころ、他を賞賛し敬うこころ、よろこぶこころ、愛するこころ、忍ぶこころ、満足するこころの総合であり、これらのこころになると、自然にくつろげる。
とらわれたり、こだわったり、ひっかかったりすることを執着というのであるが、ちょうどなにもないかのようなこころの状態、すなわち無執着、無心の状態でいるときは、非常に静かで、くつろぎきっており、この、ひっかかりから脱した最上のくつろぎの状態を身につける練習法が冥想である。
とらわれないこころを作るためには、自己流の考え方(はからい)のとらわれから離れる練習が必要である。その練習が座禅である。はからわないこころとは、考えないことではなく、起こったいろいろなこころを持ったまま、とにかくやってみようというまかせきったこころになることである。
宗教では、自分の考えの全部を神にゆだねよと教えている。苦しいことはだれにでも苦しいのだから、がまんしてただやる以外にはないのだと。思いなやみながらも、喜びながらつくそうとするこころが仰心であり、こころにくつろぎとやすらぎを与えてくれる最上のものである。

近眼はすぐなおる
私は中学二年のときにメガネをかけはじめ、約一五年間用いていた。年々目は悪くなる一方でついには〇・〇四という視力になってしまい、このままでは失明のおそれがあると心配し出したころ、ヨガを知った。そして、近眼だけでなく、目のあらゆる病気の根本をなおす方法を知ったのだ。
江眼の原因となっているものは、肉体的および精神的原因による、眼球および関連筋肉の収縮硬化による変形とうつ血で、この悪条件を除く行法を行なったら、私の視力は次第に回復し、半年もたたないうちに正常な視力を持つにいたった。
眼病の原因には、前述のもののほかに食生活、姿勢のゆがみおよびこころの緊張があるが、これは、目だけでなく、他の病気にも通ずることである。慢性の胃腸病をなおしにきて、それとともに近眼のなおった人も多い。つまり、目の病気だからといって目だけの治療では完治することはないということだ。これはどんな病気にでもいえることである。
・治療法
江眼には軸性(うっ血性)と屈折性(硬化性)の二種類があるが、私が一番おすすめしたいのは、断食をしながら各行法を行なうことである。断食は、眼球をとりまく筋肉や血管などにたまった老廃物をとり除き、筋肉をくつろぎやすくする。

  1. 筋肉の緊張をとること。さか立ち、逆さか立ち、アーチ、弓、スキのポーズなどがよい。また、からだをゆさぶること、手、足、上体をいろいろな角度でねじったり伸ばしたりすることも効果がある。

  2. 意識的にまばたきをする。また、眼球を上下左右にグルグルまわす。

  3. 目に冷水浴をさせる。

  4. 食事は、過食や酸性食はさける。便秘や排尿、発汗には気をつける。目に必要な栄養素はビタミンABCおよびカルシウムである。甘いものや肉類を好む人には、視力異常者が多い。斜視の場合は、首のねじり、頭皮のたるみ、肩甲骨の高低をなおす。

  5. 乱視の場合には、肩の高さ、腕の力に強弱があるから、これもなおす。

  6. 遠視は近視のなおし方に準ずるが、老眼は老化現象であるから、老化を防ぐのが先決である。

これらの行法に共通して必要なことは、こころをくつろがすことである。冥想後は非常に五官のはたらきが高まり、視力も増加している。自己暗示法でからだをくつ
ろがせたり深呼吸をくり返すのもよい方法だ。手や首に力がはいると目にうっ血して疲れやすい。

しかし、誤ってならないことは、病気がなおることを祈りや座禅の功徳の第一義としないことである。ヨガの冥想行法(座禅もそのひとつ)は、心身の平静安定境において、深く自己の内部を洞察することによって、真実の自己、万物との一体感および絶対世界を味わおうとするものだ。
この目標に向かってすすむとき副産物として、病気もまたなおりやすいのである。
治病を願う者は、人間的治病目的を持たなければならない。その方法はあくまで心身両者の改造を併用(科学的文化プラス精神的文化の進展)しなければならないことであり、🔴その目的は、自己進化および理想実現のために社会奉仕できる自分を作り上げることである。私たちは病や悩みのじゃまで、天与の自己才能を出さずじまいのことが多い。
だからなおらなければならないのであり、ヨガ的病気のなおし方の目的がすなわちこれである。

ヨガ的方法
ヨガでは病気のなおし方についてつぎのような見解を持っている。

  1. 異常な症状の起こるのは、健康すなわち正常を保ち、守るはたらきが内在するからである。

  2. 生命力が弱くて発病したり、なおりにくかったりするのではない。身についている悪条件が生命力を発病の方に使っているのである。だからこの悪条件を除きさえすれば、自然になおるのである。その悪条件となるものが、異常姿勢、不完全呼吸、不要物の残望、必要物の過不足、混乱または偏向した感情や欲望、異常な思考内容、条件反射化した異常な適応性などであり、なおすとはこれらの異常を是正することである。

  3. 身についた異常は、正しくない生活習慣のためであるから、病気をなおすことや救われることを求めるより、まず生活是正のくふうをなすべきである。


  1. 病気や悩みの苦しみは、異常ありの教えであるから、この苦縁をチャンスとして、求道訓練すると、真実の生活に気づけるとともに、新しく高い適応性も身につけることができるのである。すなわち進歩向上することができ、意識的に訓練すれば自己コントロールもできるのであって、ヨガ的なおし方の目標もこれである。

  2. なになにがつづくとかなになにしやすいとかと、同一な状態がつづくのは、その癖(条件反射)が身についていることで、この悪癖が正常復帰の本能的はたらきのじゃまをしているのであって、この悪条件を除かずになおそうとすると無理になるので、なおらないだけでなく、他の異常を作り出すことになる。動物は身についた癖の改造を自発的に行なうことができない。人間の価値は、意識的に改造し、自分の願いとするものを意識的に身につけて、自由に自分を支配できる人にまでなりうることであって、ヨガの訓練の目標とするものがこれである。

こころの適応性の高い状態を悟りというが、悟りとは、さまざまな欲求や感情を調整して、常時こころの平静を保ちうることで、座禅と仰と積極的生活と高い知性を身につけることが、悟りへの方法である。
ヨガはからだに複雑微妙な構造とはたらき、こころに感じ考えるはたらきを与えた自然そのものを神と考え、いっさいは自然の産であるから、からだ、こころ、社会を支配している法則もまた自然の法則(バランス維持の法則)に合致するものでなくてはならないとして、行法にヨガ(バランスという意味)の名をつけ、この自然法則に帰依することをその世界観、真理観としているが、この態度こそ、古くして、しかも永遠に新しい考え方といえるだろう。すなわち各行法はからだ自身の本来の自然の知恵を開発し、その上に個性的才能も最大限に高めようとする目的のものである。
とにかくいっさいの病に無用な悩まされ方をされない方法は、自己自身を強くすることで、強くするとは適応性を高め、広めることである。その方法とはなにかというと、こわれぬ程度に積極的自発的におおいに自分を苦しめ、かつ鍛えることである。
病人の多い人類の悲劇の原因は、その生活の安易さにあるといえるのだから、苦しんだり、楽しんだりする数多くの変化刺澈に適応する努力が唯一の救われる道のようだ。
かく気づくとき、ヨガの教えもまたそうだと、うなずけてくることであろう。
ご承知のように、ヨガは、哲学であり訓練法であるが、もしからだの面で医学と対比するのならば、第四の医学といってもよいであろう。第一は治療医学、第二は予防医学、第三は健康医学、第四は進化医学である。
自己進化の道はなにか、それは、訓練努力して、正しい発達と、よい能力とを、自分の身につけることである。

この意味において、ヨガの哲学はわれわれに救われる原理を教えてくれるものだと断言できるのだ。ヨガの人生観は全肯定全活用である。人生と、その生活の上には、たえまのない起伏がつづいており、喜んだり、悲しんだり、楽しんだり、苦しんだりのくり返しをつづけることを余儀なくされているが、この起伏生滅を積極的に受けとり、自己訓練および高場に活用することが、適応性を高める最上の方法なのである。
適応性の高いということは、弾力性の大きいことだが、この弾力性は、緊張と弛緩を澱しく、大きく交互にくり返すことによって、高められていくのである。だから、逃げたり保護や安易を求めたりするかぎり、低い適応力のために苦しまなければならないことになる。苦しすぎるのも害があるが、楽しすぎることもまた害を生む。適度の苦悩と父があり、これに耐え、これに抵抗する訓練が自己の力を強め、高める最上法である

🔴 たいていの人が体型のゆがみは体操だけでなおせると思っているが、この考え方は誤りで、体型をゆがませるものは、その型を保っているからだの内のはたらきが狂ったからで、内なるはたらきは、こころに異常があっても、食物がまちがっていても、呼吸が完全でも狂うから、自己改造および進化の訓練のためには、心身に影響を与える全部を行なう必要がある。
頭はたいへん重量のあるものだが、これをささえているのは首の力であり、立っているのは足の力である。しかしガッカリすると頭をささえられなくなり、ビックリすると立っていられなくなる。また決心すると立つ力が強くなり、希望にかがやくと首が伸びてくる。このことからでもこころとからだは同一のものであることがわかる。
🔴内を整えないと形も整わないし、形が狂うと内も狂うのだということを、はっきり自覚できて、はじめて心身一体の意味も、宗教と医学はひとつのものであるべきだということも、修養は心身両面から行なわなければならないということもわかるのだ。
からだは左右上下前後が対称的にはたらいて自然にバランスが保てるようにできており、そのバランスをとる中心点がいわゆる丹田で、丹田を安定させて動作することが、あらゆる動作およびスポーツのコツである。🔴
ヨガでは丹田のことを神の座と教えており、体操も座禅も信仰も端的にこの「神の座を養うのがその目的である。
座禅を正しく行なうと心身のもっとも安定した状態、いわゆる無念無想の境地になれる。最高の安定状態とは最高の緊張と弛緩状態のバランスのとれていることで、この状態には、正しい姿勢(型)を保つ力と、丹田力を高める刺徴とが一致しなくてはならない。これに必要な条件が精神統一と調息で、この理想的な体型によってのみ、大脳のはたらきのバランスのとれた状態になりうるわけだ。この状態を身につけるにはたえまない長年の修行が必要で、一ミリ違っても、無の境地にはなりえない。
からだやこころに関する研究はあらゆる角度からなして、それを総合すべきで、化学的にだけ見たり、物理的にだけ見たり、心理的にだけ見たりすることは誤りである。
からだに最高の能率を上げさせるには、各部分の配列が正しくなくてはならない。もし配列がゆがむと、その位置異常部は過度刺激のために過労してもろくなるので、能率を上げられないだけでなく、正しい生命現象の妨げにもなるので発病することにもなり、その部分死が全体まで殺してしまうことにもなる。この種の自殺では成仏できない。正死すなわち全体死だからである。
一番無意識的な自殺原因になるものが慢性病で、慢性病はすべて異常な体型と体質とが関係している。だからからだの正常化を心がけないとみすみす知っていて死ぬようなものである。機械ならば、わずかな異常でもストップしてしまうが、からだはお互いにカバーしあう超自律的機械で、少々の異常があっても助けあってその運転を休止させない。このように生かす力が強すぎるために少々の異常があっても気づかなかったり、いよいよ苦しくなるまでほったらかしておいたりしてしまうのである。

🔴慢性的胃腸病

胃病の人には、助骨がふぞろいで下垂したり、骨盤や膝の左右の開きぐあいや臀筋のかたさの違う人が多く、胃病の検査点にもなっている。また胃痛を起こしやすい人の上腹部の筋肉は硬化しているから、よくもみほぐしておく必要がある、胃痛のとき上腹部を暖めたらなおるのはこの原理である。自動的に血行をよくして、腹筋をやわらげる方が、腰腹部の体操と深呼吸法である。
胃拡張や胃下垂は、食べすぎより、自律神経が麻連しているのだと考えた方がよいであろう。胃の出口がなにかの原因で細くなり、おし出す力が弱くなると、食べたものがどうしても胃のなかに残留しやすいことになり、胃が大きくなってくる。このことが原因で、胃が栄養障害や血行不循を起こして、胃下垂となる。こうなると、ますます胃からものが出にくくなり、胃中に残存する時間が長くなり、発酵したり(胃がもたれてふくらんだ感じ)、刺澈したりする。この刺が傷を作り、その保護のために胃液が出る。
このとき、胸やけがしたり痛んだりする。胃液が出すぎると、炎傷から潰瘍にまですすむ。いっさいの病気は、生体の告反応、防御反応の過剰疲労状態がつづいていることで、そういう異常条件を作り出す生活を改めないと、とどのつまり、ガンになったり急死したりする。これは圧制を加えつづけられた民衆が暴動を起こすようなものである。
とにかく、いかなる病であろうとも、生活を改め、そういう病気になりやすい気質、体質を改める以外になおる方法はない。
胃病にも、胃酸過多からはじまってガンにいたるまでいろいろな病気があるが、ひとつひとつ原因の違った病気ではなくて、神経の異常、こころの異常、分泌の異常、はた
らきの異常、姿勢や食物の異常などがひとつになったものである。

一の異常条件で、ある人は肝臓病に、ある人は眼病にというように現われ方が違う場合もある。それは、その人の一番特徴となっているところ(体型、体質により類別できる)が、つい使いすぎるために故障を起こすというように、長所がすなわち短所に変わることもある。慢性病や持病は、そのまま、その人の性格、人柄と生活ぶりを示すものであるから、病気を教えとして、自己改造の努力をすべきである。
私は、健康を守る意味においては、胃が弱い方がよいのではないかとさえ思う。胃が異常にじょうぶだと、つい過食したり、悪食をしたりすることになり、その結果胃だけでなく、内臓全部および全身に無理をかけることになる。胃腸がこわれないで異常血圧、糖尿病、ガンなどの最悪病にまでなってしまう人も多いから、弱い胃を大切に扱っている方が、健康保持には良い方法であるとも考えられるのだ。
正しくじょうぶな胃は、一見弱いような感じがする。それは、過食させたり、少しでも異常なものを食べると吐き気がしたり、苦しくなったりして、その異常食をつづけられない。このように、正否を正しく感受し、処置する胃こそ、健全な胃であり、このことはからだ全体にも通ずる法則である。

🔴 胃をじょうぶにする方法
・食欲不振をだいじにせよ|胃をじょうぶにする方法はかんたんだ。それは胃の要求を正しく聞いて無理をかけないことで、胃はからだに必要なものの量と質を正しく知っているから、なにを食べるかと考えるよりも、こころを落ち着けからだをくつろがせて正しくからだの要求に従うくふうをするのである。たとえば、食べたくないときには、胃がつぎのような要求をしているのだから、食べない方がよい。
栄養は充分ある、過食や偏食や不快のために生じた無理と毒を除きたい、便秘している、傷があるからなおしたい、肝臓、腎臓に故障があるからなおしたい、虫がいる、妊
娠しているーーなどである。
このように、胃はただ食物を入れる袋としての役割だけではなく、からだにあわないものや毒を出してしまうはたらきも持っており、胃で出せないときには、腸が協力して、下痢によってからだを守っているのだ。ところが、この胃の防衛のための拒否要求を無視して、無理に食べる人がいるが、食欲不振を悪いことのように思うにいたっては、誤解もはなはだしい。
一番おいしく食べられる方法は、空腹により要求度を高めることであるが、人間は理屈や習慣的要求に従いやすいので、つい胃に無理をかけてしまう。ヨガでは、こころもからだであり、からだもこころであるの見解にたっているが、胃はとくに感情に鋭敏な臓器で、快、不快は頭より先に胃が感ずるほどである。だから、胃漬瘍や十二指腸潰瘍をわずらっているかどうかを脳波で調べることさえできるのである。
胃袋は頭の血を下げる役割もするから、興奮しているときはやたらに食べたくなり、退屈してエネルギーの余りすぎている人は、そのエネルギーを口と胃の活動で消耗しようとさえする。
また、悪い癖がつくと、空腹でなくても食べたくなる。「食べなくては」の不安や、異常食要求に従うこと、神経を緊張させすぎるなどの悪条件が胃をこわすもとである。
・体操について過食癖の人は、胸椎五、六、七、八番の骨の横の筋肉がもり上がっており(胃の痛みやすい人は硬化している)、重心が左にかかって左の手足が伸びにくい。
右肩の凝っている人は、胃がひろがりっぱなしだ。
頭皮のゆるんでいる人は、胃もゆるんでいて食べたくはないが、鉢巻やさか立ちをすると食欲が出てくる。
あごが前に出て首と肩に力がはいっていると、食べすぎたり、食べられなかったりする。興奮して首が緊張していると、酸がですぎて、過酸症や胃炎になる。
これらの悪条件を除く修正体操が胃を正常にする方法で、その体操のおもなものが、さか立ち(頭の血行をよくし、首、肩をやわらげる)、逆さか立ち、コブラのポーズであ
る・
・食事について!とにかく、過食と偏食の癖がいけないのだ。胃も他の部分と同じく癖がつき、大食しているといつも大食したくなり、異常食をしていると異常物ばかりがほしくなり、消化剤などを飲むと、自分の消化液を出さなくなるから、このような悪食癖を除いて、正しい生理的食要求を起こさせるようにしなければならない。最上の方法は断食だが、断食のできない人は、小食、生食、完全食、自然食などを上手に組み合わせて食べるとよい。
胃が弱いという人は、かならずガツガツと食べており、でたらめな薬の飲み方は胃をこわすだけである。

【姿勢の歪みをなおす→修正体操をする。
凝ってるところはゆるめ、筋肉のないとこは筋力をつけて身体全体バランスよく→運動やヨガ

筋肉が柔軟か凝ってるか。→体操
心を落ち着かせる→瞑想 呼吸法
食べ物→バランスよく正食
食べ過ぎに注意→過食の場合は断食も有効

今やってる自分でやってる体操が効果的だと思った‼️
筋肉を緩めたり力を入れたりする。
真剣にやってないからまだ効果は現れていないが真剣にやったら理にかなってることだとこの本を読んで思った。
手元に置いておきたい本なのだがもう売ってないので、図書館で借りるしかない。
良本は全てKindleでも読めるようにして欲しい】
2240921


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Bluefairy chafu
ジャムスヒーンさんのように海のそばで1人アシュラムをしたいです。そして今世でアセンションしたいです。