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【散文詩】彼は、これを禊(みそぎ)だと思った。
彼は、これを禊だと思った。
於兎沢ふうり
迷い込んだ道のさきは、どんどんと林道(りんどう)へと入って行った。
遠く近くに鳥の声。春の日射し。木々のつくる木蔭(こかげ)。
彼がみた夢は、そんなものでできていた。
そのまま歩きつづけて、やがてせせらぎへと辿り着く。
流れは静かだった。
水面(すいめん)には光の照り返しと陰翳(かげり)とがあって、岩陰(いわかげ)には魚影(ぎょえい)も泳いでみえる。
彼はなんとなしに疲れを感じて、光のよく当たる、すこし開けた場所を選んで、石のうえに腰を下ろした。
風が吹いた瞬間の葉擦れの音が、そよそよと耳を安らげる。
川のひかえめな水音(みずおと)と相まって、久しく忘れていた居心地の好(よ)さを感じた。
人間として生きることは、決して仕事ではない。
けれどどこかで、生き急ぐところは無かったろうか――
こうしてはいけない、ああせねばならない。
そうすべきだ、と決めつけただれかの言葉が棘(とげ)となって、心のあちこちに痛みをもたらす。
こんなところでくつろいでいる場合だろうか――
そう焦りを思い出して、しかし腰を上げようとした彼は、膝から屈(く)ず折れてしまい、砂利(じゃり)のうえに手を着いた。
夢のなかなのに痛い、と思って手のひらを見遣(みや)ると、手のひらには五センチほどの切り傷ができてしまった。
血は止め処なく、その傷も意外と深そうだ。じくじくする。
川の水は、必ずしも安全ではない。危ない寄生虫がいることも多い。
それを知っていてなお、彼は両手と膝で川沿いへと這って行き、手を洗った。さらなる痛みと、流れに混じる血液。
水沫(うたかた)に混ざり切らないまま、血はまだ流れた。
彼は、これを禊(みそぎ)だと思った。
彼の手は穢(けが)れてしまっていたに違いない。
すくなくとも、この夢のなかではそう信じた。
何十分経ったろうか、それとも何時間だろうか。
日射しが彼のちょうど真上に当たるころになり、彼は自分の手が冷え過ぎたことにようやく気づいた。
春のことで、雪融(ゆきど)けの水はまだ冷たかった。
水滴をしたたらせつつ、大気のうちに手を差し上げた。
血は止まっていた。彼の傷も癒えていた。
不思議なハズだけれども、なんとなく自然なこととも思われた。
彼はそのまま突っ伏して顔ごと川面(かわも)に伸ばし、流れから飲んだ。
するとどうだろう、感じていたハズの疲れ、頭の倦怠(けだる)さも取れて、明晰(めいせき)な本来の自分を取り戻した気がした。
彼は祈りをささげ、ふたたび鳥たちの声、春の日射し、木蔭のつくる柔らかい影に、和らぎを覚えた。
自分はなんと愚かだったろうか、とそんなことまで思われた――
◇ ◇ ◇
夢から覚めて、記憶は覚束(おぼつか)なくなってしまった。
けれども、どこか違う朝日だと今朝は感じた。
なにか新しいことでもしてみようか、と清新(せいしん)な心持ちのままで、彼はシャワーを浴びた。
~ 了 ~