#0001 「ライターズ・ブロックと共に住まう」 第1回
ライターズ・ブロックと共に住まう
第1回
自己分析? 練習? インプット?
スランプといってまず、みなさまなにから手を着けようとするでしょうか?
それともいったん距離を置いて、無意識下での熟成を待ちますか?
果報は寝て待て、待てば海路の日和あり、あるいは靴屋の妖精さん。
待つことで重要な気づきに至ることも、もちろんあります。
ユング的な共時性(シンクロニシティ)に助けられる場合は、大きな産みの苦しみを伴いつつ、しかし格段の進歩が待っていることでしょう。
他方、自己分析を進めるのもいいでしょうね。
たとえば、ジュリア・キャメロンの説く"Morning Pages"や"Artist Dates"の習慣なども参考になりそうでした。
今と、今につながる過去とも向き合いつつ、“自分になにも書かせない”ような呪いから逃れることは、私にとっても必要なことです。
その後、ちらほら臨床心理のことを書き立ててみましたが、面倒なので専門家を当たっていただくのがよろしかろう、となりました。冗長ですし恨み節も入るし、カットして次、つぎ。
練習。
文章書きの練習は多岐に渡るものですね。
作品として完成させるのは、構成力、全体の統一感やメリハリ、推敲のスキル等を養うために不可欠と言われます。
それはそうだ、としか言えませんが、文章にとってそれが全てではないことも思い出してください。
(完成させなければ意味が無い、という義務感に縛られると、ほかの練習さえできなくなります‼←)
観察や思索、連想とアレンジメント、修辞法(レトリック)および“レトリック認識”の成長。
そういったものは、ラフや文章スケッチからも学べますし、場合によっては効率もよく、足踏みの段階次第では前進に足りるものとなり得ます。
試みに、レオナルド・ダ・ヴィンチのラフ画でも見直してみればよいかと。
最近、イラスト界隈では“ジェスチャー・ドローイング”が流行っていますね。いわゆるジェスドロです。
昔、伊坂幸太郎さんの特集ムック本に「メッシのドリブルさばきを文章に起こす」(註:意訳)ような練習を日々怠らない、とインタビューで答えていたのに感銘を受けたことがあります。
彼がやっていたのは、こういう人間の動作と、そこに含まれる物語の断片を掬い出すかのような、ジェスドロに似たやり方かも知れません。
表情の一つひとつにしても、そこに文として置くだけで神経を使ったことでしょう。
(本人からすればそうでもないかも知れません。尋ねてみたくはあります。)
あるいはシーンを創り出すに足るような迫力ある描写、また静物やより緩慢なものに対しても、書いて書いてまた書いて、納得の行く表現を絞り出して来たのでしょう。
卑近すぎてまったく参考になりませんが、私は西洋の建物や雰囲気について、観光ガイド以上の書き分けはできる自信がありません。経験と想像力を養い切れていない、悪い例です。
しかし最近のラノベ、アニメ化したものでも、もちろん調査・取材力の足りているものもあるとして、あえて避けて書いているものも多いのではないでしょうか?
プロやセミプロであっても、編集さんから指摘を受けて推敲せざるを得なかったり、ということもありそうな話です。
ともあれ、まだ練習すべき題材や技術は、私にとってはいくらでもあります。
怠っているというより、練習に踏み込むための練習がスキルとして必要なことを痛感した次第です。
では、インプット不足なのか?
ブランクはありますが、引き出しの文量だけで言えば、おそらく足りてはいます。読書家と言えるほどではないにせよ、同じ本からの精読や筆写、濫読、そんなこともかなり意識してやって来ました。
それでも、古い情報にアクセスする回路が錆びれているのは否めませんので、リハビリは必要ですし、新奇なものを採り入れるのはどのみち必要です。
先ほどの書き分けだの表現力だのにつながることですが、インプットすべき対象をもっと選んで、ジャンルごとに学ぶ姿勢はだいじだろうな、と思うところがあります。
別に、文章に共通の伝達や論理を無視しろというのではありません。
ただ、自分の望む作品が――どんな表現を求めているか、それを知って理解を深め、自分なりに書ける力を煮詰めて行くために、選別された作品からのインプットは必須となるでしょう。
自分の望む作品?
これです、これこそが厄介です。
This is the Demand.
対象が曖昧モコモコなままでは、悲哀こもごも、あらゆる努力が報われません。いやわからんけども。
個人的な印象ですが、(自分含め)書きたいものへのこだわりが強く、しかし踏み出せない理由(呪い)があって、練習もインプットも上手く手に着かない、捗らないから筆が止まっている――そういう人が、多くはないかと。
本当は書きたいものがあるのです。吾々には。
呪いの解除は地道で、ひたすら茨の道を行くものです。
ライターズ・ブロックでアイデンティティを問われた人は、きっとそこに向き合うきっかけをもらったのでしょう。
なにも苦行に励め、とは申しません。
私だって、もう厭(イヤ)です。
逆ですね――つまり、どうして書くのが今まで苦しかったか、あるいは苦しみの末に没稿が積まれて行ったか、と振り返る。
楽しかったハズのことです。
今でも、本来なら楽しんでよいハズのことです。それができない。
できていたのにできなくなることは、明確に喪失です。喪失は嘆きの種です。
まずはうんと嘆きましょう。
心の底から。魂の淵から。
涙が出るなら、御の字です。
私はまだ、泣くに泣けません。
ただ、ティラミス(伊:深き淵より私を引っぱり上げて! 元気を出して!)と、甘美な言葉に縋るばかりです。
美味しいですよね、ティラミス。
さて、とある編集者さんが分類した“叫び”と“作品”との違いを思ってみます。
“叫び”にも、ものによってはベストセラーになり得る作品性はあるでしょう。
けれども、それはあくまで失われた自分のための“弔いのうた”なのです。
私は、そんな弔いのうたを必要としております。
そのための練習には、まず第一に書いた自己分析かも知れませんね。“呪い”を解かなくてはいけません。
R. I. P.
失われたのは自分ばかりではない――そういう方も多いでしょう。私の身近でも、自死した方々がいらっしゃいますし、私自身たまたま生き残っただけの未遂者です。
その眼差しに、どんな非日常が凍りついていますか?
しかし、吾々は日常に戻って来てよいのです。でなければ書けないものがある。
自然は往と還の動きをする、とはブレーズ・パスカルの言葉でしたか。
行って帰るのが物語の骨子、という話もあったりします。
外から非日常をみること、外から日常をみること、どちらも必要なことです。
さてあれ、弔いのうたは葬送をただしく執り行うのに必要でしょう。レクイエムは、遺された吾々に慰めを与えます。
話がズレたように感ぜられた方々、死んでなくとも失われた自分というものについても考えてみてはいかがでしょうか?
別にifを考えるのが常に建設的だと言う気はありません。
しかし、ある壁に当たっているとき、ユング的な影や、無意識の世界を考えるならば、決して無視できない要素がそこにあるのではないでしょうか。
実現されなかった自分が、しかし知らないうちに肥大化しているなら御用心(ごよーじん)。そこにはやはり、喪失の根が蔓延っているのです。
さて、さて。
そうは言っても書き方が知りたい、スランプを脱けたい、だからここまで読んだのに、なんだかアヤシげなものになってしまった――
そう感じる方もありましょう。
順番的に必要だったのです。
化学の実験と同じで、物質Aと物質Bを入れるタイミングが逆ではいけないパターンもあるわけで。
根本に自己分析はやはり必要、とまず肝に銘じてくださいまし。
では、書きたいものがあるのでは? という話に戻りましょうか。
自分の望む作品が、ある。
それは喜ばしくもあり、焦りそうになることでもあります。
その作品に出会うためには、まず自分が書かなくてはいけませんから。
完成させるまでの不安、また書くまで随いて回る不満足感――
頭ではわかっているのです。
書かなければ不満足感は癒えないと。
不安も解消されはしないと。
この焦りだけ、すぐにでも取っ払ってほしい。
そういう方々がほとんどではないでしょうか?
近道は無い
はてさて、私もその一人ですが、これは言えます。近道は無さそうだ、と。
「汝自身を知」ることから、地道に時間を掛けての漸進、たまには退いてもよし。
近道という幻想を潰された吾々には、とりあえず選べる道があります;
苦しみながら努力する。
楽しみながら書きつづける。
現実は非情である。( ᐙ و(و ✩
不貞寝する日があるのは構いません。
私もそうします。
書けないときは、なにをどう足掻こうと、書けない。
それでもオススメは、楽しみながら書くほうになります。
私もそうできたら苦労は無いと思います。
次回の予定は立てないつもりでしたが、この調子だと、楽しみながら書きつづけるには? となりそうな予感が……( ˘ω˘ )
ライターズ・ブロックと共に住まう、それは壁の存在を受け容れることも含みます。吾々にとっては現にそこにある壁ですから、まぁ、とりあえず「あるなぁ」とは言うときましょう。
今回はここまででひと区切りとさせていただきます。
もしお目通しくだすった方々おられれば大きに感謝です(´˘`人
よければ次も見てやってくださいませ。
第1話 まとめ
近道は無い。
自己分析は必須。また自分の望む作品について、それが今“叫び”なのか“作品”なのかを問うべき。
書きたいものがもうすこし明白になったら、それにあった練習とインプットができるようになる、ハズ。たぶん。
以上です。
お付き合いくださった方々、ありがとう御座います(ノ_ _)ノ
二〇二三年三月二十一日 風鳶堂
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