#0007 「ライターズ・ブロックと共に住まう」 第7回
ライターズ・ブロックと共に住まう
(第7回)
もしかしたら最終回。
どうも、於兎沢です。
久々の更新になりますが、みなさま書けていらっしゃいますか?
私はまだ“練習する練習”の段階から脱け出ておりません( ´•ᴗ•ก )💦
短編習作をつくりたくて、そのためのルール作りはしてみました。
それから、ブレイン・ストーミングからなるべく抑制を外そうともしてみました。成果は芳しくありません。
草案・ネタ出しの段階で、結局旧案に戻るようなことも度々です。
「案は案で出しておいて、それを捨てずにストックしておく」というのはとある方のアドバイス。
その作品で使うかどうかの判断はさて措き、とにかく書きたいであろう内容を記録して行く。そんな基本からやり直しております。
さてあれ。方向転換が上手く行っていない気がします。
この記事の方向性も、模索しつつでしたが、本来やろうとしていたことはできておりません。
たとえば、ライターズ・ブロックなりに、私生活から情景を描く練習をしたり、とか。そんなことも考えていたのですが、思ったよりシビアな現状がそれを許さなくて、できず仕舞い。
それでなくとも、アレコレと案はあったハズ。
実行できたのは、分析だけ。なんだか程遠く離れてしまった気分です。
別シリーズでも書いてみようか、そのほうが落ち着くところに落ち着くかも知れない。そんなことまで考えてみた次第です。
なので、この回で「ライターズ・ブロックと共に住まう」は最終回となるかもわかりません。
決めかねているので、不図(ふと)つづきを書きたくなるかも知れません。神のみぞ知る、ですね。
ファンタジーと距離。
ファンタジーによって、現実と距離を取ろう。
そんな努力もしてみていました。
それは今でも変わらないかも知れませんし、世界観づくりはとても好きなので、続ける価値はあるかとは思っております。
これはこれで、一つの方向性。
ライトなのか中間小説的なのかは、まだ迷い中で。
どんなものを書きたいのか、自分と相談しながら決めるつもりですね。
現実と距離を取ろう、というとリアルを蔑ろにするように感じられるかも知れませんが――以前触れたかもですが――私の日常が非日常的なので、実際にはむしろリアリティのためにこそ、というのがあります。
どんなファンタジーにすればよいかは、五里霧中。
集中し切れていないのも、書けない遠因かも知らず。
近代風にしたらどうか、というのが最近よく頭に浮かびますが、さてどうなるやら。現代ものの雰囲気づくりとしてレトロ感を採り入れるかも知れません。あるいは、本当にライトなファンタジーから入るのかも知れません。
書けないうちこそ、気ままに迷ってみたいとは思っております。
散文と詩歌との狭間で。
揺れ動いております、散文と詩歌との狭間で。
私は元来、小説は読むのが好きで、しかしアウトプットされるのは詩歌のかたちになりがちでした。
そのため、詩歌での表現に凝ってみたりはしたのですが、散文については方法論にとどまって、それ用のレトリックも充分に使いこなせるわけでもなく。勿体ない状態がつづいております。
しかしまた、詩歌のほうも、自作の焼き直し、改悪が多くなって、これも書きにくくなりました。
自分を見失っている感覚があります。
なにかこの点で、分析にあたいする有益な夢をみた気もするのですが、いかんせん思い出せない。
いずれまた、ストーリー仕立ての夢で自分に忠告されるとは思いますけれど、そのときが来るまではハッキリした答えは自身に出せないのではないか、と危惧してもいます。
そんななかでも新作を詠んでみたり、過去作を朗読していただいたり、ものは試しでアレコレと幅を広げようとはしてみておりました。
結果として広がったのは、作品ではなくひとの輪だったかと思います。
そのひとの輪のなかで、さらに自分を活かすには、やはり散文にせよ、詩歌にせよ、なにか清新なものを打ち出すことではないか、そのために今できることはなんだろうか。
常々そんなことで頭を悩ましております。
創りたいのか、どうか。
作品を創りたいのか、どうか。
根本的な問いかけが立ち現れます。
これに対しては、以前のJein(どちらでもあり、どちらでもない)というような曖昧な答えはあり得ません。Ja、つまりイエスです。
私は創作における自分自身というものをだいじに思っている、というのは、これだけ迷いつづけても変わりないままでした。
むしろ、創作したい、という気持ちに大きく依存していて、それができないことにより多く振り回されることになってみて。
結局それが大切な自分なのだろう、と省みたりもしています。
なので、創ろうという思いはだいじにします。
方法論は、一回捨ててもいいかも知れません。
もっと気侭に、もっとわがままに、やってみたいところです。
きっかけづくりとしての創作。
私は私。
読み手は読み手。
そこには書き手の表現もあれば、読み手の表現もある。
作品は置かれたきっかけに過ぎず、読者との対話というより、刺激の一種として与える価値が作品にあるだけ――そんな考えは、いろいろな創作論をみても自分のなかに不変で在りつづけてます。
ほかの方の作品をみるときにも、自作がどうみられるか、というにも、そのスタンスは私のなかに変わらずあって、自由です。
読者層を想定することは、もちろんあります。
しかしそれはスキルとして、方法としてであって、必ずそこに届けたい、それ以外に読まれるのは考えない、ということでも無いのです。
そのなかで、自分の表現は自分の表現であって欲しい。
それがだれかにたまたま刺さればよい。
私はわりと我が強いのか、師匠と決めたひとに引っぱられるときはあっても、個性的なものを作りたがります。
なので、文章読本に合わせようと必死になったのが、書けなくなった一番の理由かも知れません。
好きに書けなくなりました。
こういうプロットしか面白くならない、なんてツマラないではありませんか。
(極論なのは承知しておるので、「文章読本もそこまで言ってない、」というツッコミはそのまま受け止めておきます。)
個性と言っても御蔭さま。
個性などという単語を使いました。
しかしまた、自己を構成するものに他者や環境との相関があるには違いありません。
実際、「創作したい!」と思うモチベーションも、基本的には今まで素敵な作品たちから受けた恩恵が大きかったからです。
感謝してもし切れないものです。
それでいいし、そこから一歩進んで自発的な欲求を生み出してもよい。
変わらない気持ち。
創りたいという気持ちに変化が無かった。
このことが、なにより大きかったです。
停滞していようが迷ったままでいようが、記事を書きはじめて――あるいはスランプのなか、ブランクのあとでもずぅっと変わらなかった。
放っておけば、自然と書くのだとわかりました。
果報は寝て待て、あるいは待てば海路の日和あり、とまでは行きませんが、時に無為に、あるいは有為にもなりつつ、創作からは一生離れられなそうです。
“影のアーティスト”、という言葉があります(ジュリア・キャメロンも書いていたとおり)。
自作が出せなくとも、あるいは自信が持てなくとも、他のアーティストを支援するだけにとどまっていても、本来はモチベーションを賜物(ギフト)として与えられている人びと。
賜物を毒として自らを蝕んでしまう状態のひと。
私も、まだ毒に苦しんでおります。
しかし、どうか諦めないで欲しい。
創りたい、という気持ちを汲み取れたら、あとは自然と再生するかと思えたので、これで〆としたいと思います。
私がいずれまた、表の書き手になれるまで、辛抱強く待ってくれる方が居るかも知れないし、居なくても、ふたたび出て来たときに良い作品を引っ提げているかもわかりません。
あなたが書き手なのであれば、そして悩める書き手であるなら、苦しいときもあるでしょうけれど――たのしい創作ライフを。
私も、ふたたび楽しめるよう取り組んで行くつもりです。
まぁ、気侭にやってやりましょ。
そんなもんでよいのです。
このシリーズはいったん、ここで区切らせていただきます。
お読みくださったみなさま、ありがとう御座いました!( ..)" ペコリ
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