#0000 「ライターズ・ブロックと共に住まう」‐第0回
ライターズ・ブロックと共に住まう
(第0回)
はじめに
初めましての方は初めまして。
そうでない方はお見知りおきいただければ幸いです。
詩歌・散文の風鳶堂(ふうえんどう)で御座います。
この風鳶堂、雅号(がごう)と言ってお店の名前のようなものでして。藤村や漱石、鷗外などもそうですね。
先達(せんだつ)に倣(なら)って、筆名をつづけて風鳶・於兎沢ちさとなどと名乗っておきますね。ふうえん、おとさわ、ちさと、で御座います( ..)" ペコリ
苗字(みょうじ)のほうもこれまた読みにくい。
於兎(おと)は、旧字でなら、地名や川の名前で見かける方もあるかも知れません。
“於兎”とは“兎に”養われた温順な虎のことだそうで、中国故事から来ております。
日本にも僅かながら於菟(うさぎが旧字)の形でいずこかに残っているそうな。
なんでこんな存在しない苗字にしたかというと、既存のものでないこと、寅年で猫好きなこと、地元で沢のつく姓が多かったこと、企画でつくったキャラで使って気に入ってしまったこと、などが挙げられます。
うん、すごくどーでもよい( ¯꒳¯ )
けれども、まぁ、そんな理由で命名したりも私は好きです。
偖(さて)、長ったらしい序文になりましたが、このシリーズは「ライターズ・ブロックと共に住まう」と題してあります。
単純に言えば、ライターズ・ブロックとはスランプですね。文章書きの。
随想というか、雑記というか、徒然なるままに筆を執りまして、気の趣くがまま、プロポでもなし、エセーでもなし、日記や金言集などでは況(ま)してなく、駄文をただただ連ねただけの、詩人の雑感というのが枯れ尾花。
“猫箱”とでも言いたいような幽霊屋敷から、スランプにあって気晴らしを求むるままに、戯れ言(ざれごと)をば捻り出して行こうと思うのであります……などと、ここまででお気づきの方もありましょう、こいつ近代文芸から脱け切ってないナ、と。故意(わざ)とです、はい。
時おりこういう口調も好みのままに雑(ま)じえつつ、しかして本編はもうすこし清新(せいしん)な文体を探してみたい、とも思っております。
どんな書き方になるかは、神のみぞ知る。
J. S. Bachに倣ってJ.J.(救い主よ、お助けください)とこの序には記しておきましょう。
いずれS. D. G.(ただ神の栄光に拠りて)と終止符がわりに打って、完結させてみたいものですね。
今後の記事は?
遅ればせながら、今後どんな記事になろうか、ということも書いておくほうがよさそうですね。
まず、内容の展望はと言えば:
ズバリ、タイトルどおりです‼
スランプ脱けられてないなァ、というのを悔しがりつつ、抗(あらが)いもしつつ、それでも書けないものは書けない。
なら、書けないそのことから得られるナニカは得ておきたい。
転んでしまったけれども、転んだなりに受け身の取り方は知りたい(またこうなるかも知れない!)し、又ある種、骨折してギブスで留めてしまった感じもあって、自身に制限が掛かっている。
これを解くためにも、その状態といかに付き合うか、書けない自身の“今ここ”をどう充足させるか、――などなど。
スランプだからこそ、また物書きならだれでもなり得る(であろう)ものなので、脱けたら抜けたで上手く行った例にしてもらいたい。
脱けられなければ?
そこは予定してないので。未定ですなぁ。
それから、更新は不定期です。
すみません、決して健康な身体でもなく、かと言って日々の生活もあり、毎日のようには書けないものと思われます。
まとめて記事を書き込むときもありましょう。
しばらく浮上せず、たまにひょこつと顔出す程度になるかもわかりません。
ゆったりまったり、書き続けられたらそれでよし――
そんな精神で臨んでみたいところです。
ところでみなさま、
「ここまでご覧になられてますか⁇」
ご覧くだすった方々、ありがたく存じます(-∧- )……そして、よければこの先もお付き合いいただければ、大変うれしう御座います。
なお、連番四桁にしたのは千回分以上つづかせよう、とかではなく、ただの癖です。
まぁ三桁も行けば大したもので、まずは二桁、一桁目から赤字ばかりをいただくまいとは思いますけれど、忌憚(きたん)無きご意見・ご感想もあれば御の字(おんのじ)というもの。
あるいは、自分もスランプだった、とか現在まさにライターズ・ブロックに苦しむ一人だ、とか。
そういった経験者あるいはお仲間がいらしったら、お便りの一つお手隙の折にでも、お聞かせくださるのをお待ちしております。
今、書けない。
さてあれ。
吾々(われわれ、とあえて申しましょうか)は現に今、書けない。
書いてるじゃないかって?
これは作品でもなんでもなく、構想も無く、愚痴ではないけど、読んで楽しいかもわからない、書き手の自己憐憫(あわれみ)から零れた、星の砂のようなもの。
こういう、思いから成る砂の粒を、拾い集めて行って、いずれ砂時計にでもしてやろうかと考えております。
なにも御大層な砂時計じゃあ御座いません。ただ三分ばかり測れればいいだけの、不定性(インスタント)な、些末(さまつ)な生活のおまけです。
浜の真砂(まさご)より星の数、などとアーダ・コーダを殊更(ことさら)に加えて、これ以上価値を損ねますまい。
ともかくも、書けないなりに私が書くのは、こんなものから。
それでひとまず、やってみたいのです。
二〇二三年 三月二十一日 風鳶堂
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