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分人創作エッセイ『笛宮に遭った』シリーズ~立っている女

大型マンション沿いにあるカナメモチの植え込みの陰に潜り、むくむくと進む。もう艶やかな赤い若葉が出始めている。ちょうど三角公園に出るところで、女が一人突っ立っているのを我の鋭い目がとらえた。足はぴたりと止まった。思えばスカアトを履いているから女だと考えるのも安易だが、脚が隠れきる丈のスカアトで女装した男というのを我はまだ見たことが無かった。奇妙な体の形を隠そうとロングのスカアトを履くのは、たいてい女だ。女装というのは、もっと巧みに楽しまれる。
街灯に照らされた横顔らしきものが、斜め後ろからわずかにうかがえるだけだったが、我は見知っている女だと気が付いた。黒地に大きな花柄模様が一面に散らばった古風だが目立つマキシワンピースに全身のおおむねを包み、表情のない顔で突っ立っている。表情がないというのは、表情を抑えた末の単なる浮かない顔に過ぎず、結局はそういう表情を浮かべているだけなのだが、本人はその顔で何かを必死に隠しているつもりのようだ。この女は、こういう顔でこの界隈の意味不明な場所によく立っている。最近見かけたところでは、この坂の名を標した杭の傍や、爽健美茶ばかりがいつも売り切れている自販機の脇だろうか。ある時など、スーパーニシダのトイレの窓からぬっと外を眺めていて、ブロック塀の上を機嫌よく歩いていた我をひどく驚かせた。
「もうフウコ、どこなの」
我を呼ぶ朝香さんの声がした。朝香さんは時たま、月が澄んで見える天気のいい宵に、お散歩と称して我を犬のように連れ歩く。朝香さんは気分屋だから、今宵こそはと思えるようなずいぶんと感じのいい夜でも、散歩に出ないこともある。でも、我と宵散歩に出るのはたいてい、月が右半分よりも少し膨らんでいるか、左半分よりもだいぶへこんでいる頃だから、気まぐれに見えて一応のサイクルはあるようだ。それに「ねえ、どこ行こうか」と聞いてきても、いつも結局はコンビニに行ってピザまんと巨峰グミと、我に蒜山牛乳を買う。この牛乳はちょっと甘ったるくて、我は初め喉を鳴らして飲むものの必ず残してしまう。残す量は、半分より多かったり少なかったり、宵の月のように変わる。
「フウコ!」とまた呼ばれる。気分によって我はナァァと返事をしたりしなかったりするのだが、今は返事をしないことにする。あの女が突っ立っていたからだ。ナァァと声を出す代わりに、我はギィイと緊迫したムクドリを真似て声を上げた。
「んもおお」
朝香さんは2円で買ったビニイル袋をしゃわしゃわと揺らしながら言ったが、はたと女に気づくと体を強張らせた。空気だけで、朝香さんが眉を顰めたことがわかった。
「フエミヤさんじゃん」
 朝香さんは我のことなど忘れたように、とたんに踵を返して猫よりも素早い動作で脇道にぷいと逸れていった。こういうときの朝香さんの機敏さには、さすがの我もいつも感心する。あの女とは同じアパートに住んでいるのだから、「今晩は」とでも言って通り過ぎることもできるのだろうが、朝香さんは鼻が利くからそうはしない。人間の規範はよくわからないが、仮に我が人間だったとしたらやっぱり朝香さんのようにするだろう。奇妙な場所にただしつこく突っ立っている個体ほど危険であるのは、群れの法則をわきまえた生き物なら、物心つかぬときから心得ているものだ。意味もなく突っ立って驚かすことがどれほど胸糞悪いか、あの女は知らないのだろうか。
 我は三角公園へ出ずにまたカナメモチの陰伝いに戻り、朝香さんの消えた脇道へと急いだ。まったく、朝香さんを追いかけるのは大変だ。ちょっと、我を置いてかないでくれよ。もつれそうなくらいに脚の動きを速めると、朝香さんがビニイル袋を軽快に振り回しながら小走りする後ろ姿を、我の目の端がやっとのことでとらえた。まあいい。帰ったら、すっかり緊張をといた朝香さんが、蒜山牛乳をふるまってくれるだろう。我の腹は目下、まずまずの調子だ。ちなみに、今宵の月は左半分を塗るにはほど遠い。

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