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分人創作エッセイ『笛宮に遭った』シリーズ~「整心院」

(2400字程度)
 中本は、取引のある漢方薬屋から買っておいた高麗人参の内服液を喉に流し込む。午後の施術が始まって15分。すでに客で膨れ上がった待合室から順繰りに中待合いに呼び、ひとりひとりをさばいてゆかねばならない。客によっては、少し話を聞いてやる程度ですんなりと処置できるが、やはり日に2,3人は泣き喚く中、力づくで吐き出させざるを得ないようなひどくてこずる客が来る。木曜の午後ともなれば中本も疲弊してきて、強壮ドリンクの類はいよいよ欠かせない。
 この整心院を開院して、三年になる。心を病みかけるひとが後を絶えない昨今、「整心」というコンセプトは時代にマッチしていたのだろう。《中本整心院~心の疲れありませんか?塊、取り出します》というターゲティング広告も奏功し、客足はまずまず順調だ。もちろん、中本がやっている施術は、プラセボ効果を狙った嘘八百などではなく、中本自身が見出した科学に基づいている。すなわち、人間の心というものは、「心中部」、「心間腸」、そして「心弁」という主要三部位によって形成されている。「心中部」は心の主たる活動を担う。「心間腸」で必要な養分を吸収して、排出する不要物を澱と呼ばれる状態にする。澱が貯まると、「心弁」を開放して外へ放出する。いわゆる、「心がきれい」な状態を作り出すには、この循環がうまくいっていなければならない。循環に滞りが生じたり、弁に逆流などの深刻なトラブルがあったりすると、いわゆる「崩心」や「乱心」という状態に陥る。これを整えてやるのが、中本の施術だ。ごく簡単に整心の理論を説明するなら、そういうことになる。信じるか信じないかは、個々人の意識次第だ。しかし、一見眉唾に見えるものの中にもなにかと真実が多いのは、これまでの歴史が証明している。手相占い然り、足つぼマッサージ然り、だ。
 次の客を呼ぶ前に、ざっとカルテを見直しておく。前回のやり取り、服薬歴、通院歴など。場合によっては、心療内科を見限ってここに駆け込む客もいるのだが、中本は医療者でない以上、やはり通院を投げ出して来る人に正直責任は持てない。そういう客に対しては、毎度欠かさず釘を刺さねばならない。しかし、次の客の名前を見て、中本は思わず吹き出してしまった。笛宮ヱリ子。
「笛宮さん、どうぞ」
カーテンの向こうに声を掛けると、笛宮さんはいつものように、青い顔に弱弱しい笑顔を湛えて入ってきた。目の下のクマを、肌色がかったアイシャドーでわざとらしく隠している。顔色から見ると、中等度の崩心に差し掛かる頃だ。隔週で通っているのに今回は三週空いたから、無理もない。
「いかがですか、ちょっとお疲れですよね」
「ええ。やっぱりわかりますか」
「そりゃあね。何か、変わったこと、特別なことはありましたか?」
 やや間がある。この客は、何でもできるだけ正確に答えようとする。適当であるべき状況でもそうしてしまうので、澱が貯まりやすい体質だ。
「いえ、特に、大丈夫です」
 言うほどのことはなかったのだと自分に言い聞かせるように、笛宮さんは答えた。
「今日は、どうします?僕がやることもできますよ」
 笛宮さんは、中本の診ている客の中で最も施術が楽しい客である。いや、楽しいと言うといささか語弊があるが。
「いえ、大丈夫です。見ててもらえれば」
「わかりました」
「じゃあ、うまくいかない部分がありましたら手を貸しますね」
 笛宮さんは肩幅に足を開いて施術台に乗り、鳩尾の硬くなっている部分に掌の根本を押し当て、心間腸の方向に合わせて螺旋状にマッサージをはじめる。これ、見ててもいいのかなと思うようなすっとぼけた表情をしていて、中本は必至で笑いを堪える。見ていて欲しいというのがこの人の要望なのだから、仕方がない。中本のほうは色々な客の施術中の表情を見ているから、笛宮さんが一人酷くおかしいことに気づけるが、笛宮さんのほうでは皆こんなもんなのだと考えているのかもしれない。笛宮さんが肋骨の裏側を故意に軋ませるようにして、胸中にうまく空洞をつくると、澱の先端が引き攣れるように持ち上がった。笛宮さんは、目を白黒させている。痙攣、というのとも少し違う。痙攣が間断のない振動の連続であるのだとしたら、その初動の一コマだけをムーヴィに撮り、コマの時間幅を乱数で拡縮しながら反復して、微細かつ非単調な振動の連続に編集したような動きである。こんなやり方は我流すぎる、といつも思う。しかし、本人の意志を尊重するのが中本の流儀だ。笛宮さんは気道と食道の間にある心道へとうまく澱をせり上げ、ついにこぽんと小さく喉を鳴らし、中本の渡したバケツの中に澱を吐き出した。笛宮さんの澱は、いつも不思議な色をしている。今回は、熟す手前のいい塩梅の卵の黄身のようにとろみのある粘液が、澱の表面を艶やかに彩っている。綺麗と言えば綺麗だが、とぅるんと滑り落ちそうな心許なさもある。月にカスタードクリームを混ぜ込んだような澱である。たいていの人は乳白色から灰色までの濃淡で、見るからに残滓と呼ぶべき澱を吐く。笛宮さんの場合は、ひょっとすると吐いてはいけないものまで吐いているかもしれないと思い、中本は何度か触診してみたが、そういうわけでもないようだ。何より、みるみる顔色に生気が戻り、笛宮さんは心からほっとした様子である。
 「今日もご自分で出来ましたね」
 「はい、先生のおかげで。ありがとうございました」
笛宮さんはいつものように、満足げに施術室をあとにした。はっきり言って、自宅で自分でやればいいと中本は思っているのだが、笛宮さんはどうにも、あれだ。かまってちゃん、というやつなのだろう。それにしても、あのすっとぼけた表情は、いつも本当に面白い。中本はいくぶん元気を取り戻し、次の客のカルテに目を落とす。午後の診療はまだ長い。

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