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ヱリ子さん思考日記~2023年3月「異国の街に見る日本、敗者を生まない勝利」

 恐ろしく久しぶりに、海外の街に滞在していた。
国際便に搭乗し8時間のフライトを経て降り立った北米のその街では、わたしの耳を半分ほど透過してゆく異国の言語が飛び交い、雲海を放漫にちぎって空の低い位置に適度に撒いておいたような白雲がまばらに垂れ込め、遠景には間違いなく富士山を凌駕する列記としたマウンテンが連なっている。確かにそこは異国ではあるのだが、しかし、街を走る車のほとんどは日本車であり、街角に陣取るキッチンカーの多くが「Kurobuta Sausage」や「Japanese KATSU sandwitch」を謳い、出前一丁のビニルゴミが風に乗って足元に降りてくる。母国の工業製品・商品のプリセンスは絶大である。セブンイレブンもデニーズもちゃんとある。北海道よりも緯度が高いその街の桜並木は満開であり、だだっ広く直線的な街路もまた、表参道あたりと錯覚しそうになる。むしろマウンテンの遠景が合成画像であってここはインバウンドで活況の日本の一画だと言われれば、納得してしまうのかもしれない。北アメリカ大陸にあるその国を、子供の頃から「はくじんのくに」と思っていた私が、その刷り込みを手放すのに一日ほどもかからなかった。
 バスや電車で乗り合わせる人の肌の色は実にまちまちで、アジア系、ヒスパニック系、アフリカ系などという区分けを持ち出すこともあまり実感に合わないと思えるほどに、メルティングしている。どの人種が多く、どの人種が少なく、またどの人種の存在感が強く、どの人種のそれがか細い、ということもない。
 唯一、ダウンタウンの駅前で見かけた「Monkeys cannot be humans!」と訴えるヘイトスピーチは全くもって盛り上がらず、そのスピーカーが透明人間であるかのように誰もがその目前を平然と行き交い、足早に通り過ぎることさえしなかった。それどころか、one of the monkeysである私の小さな子孫を見るや、にこやかに笑いかけてくれるひと、水槽を一緒に眺めて「Nimo fish」とクマノミを教えてくれるひと、バスの中ですぐに席を譲ってくれるひとたちがいる。あまりにも頻回で席を譲ってもらうのでかえって戸惑う子孫に、「今は座らせてもらいなさい。大きくなったら、あなたが小さい子に席をゆずる番ばん」と声を掛ける。それはやはり日本でもかける言葉ではあるが、子孫が大きくなってからこの街でのエピソードを懐古し、「Monkeys cannot be humans!」という言葉の背景を客観的知識として理解したとき、子孫の中に生まれるであろう絶大なる自己存在の肯定を想像すると、わたしは諸手を挙げて何かの勝利を歓ぶような思いがする。無論、その勝利はmonkeysがhumansに勝つなどといった平板な勝利を意味しない。誰かが誰かに負けることのない純然たる個人存在の勝利がそこにある。
 

日本でも、一度だけそういう勝利を掴みかけたことがある。それは尊敬する知人が、「マイノリティとかマジョリティとか言うけど、本当は一人一人が全員マイノリティなんですよね」と当たり前のように放ったときだ。
 子孫が「忘れたいと思っていることでも、じぶんの中にいるじぶんじゃない人が写真を撮っちゃうから困ってるんだ」と打ち明けてきたとき、ああそれはね、それは間違いなくわたしのせいだと思った。つまりわたしからの遺伝。同時に、その「写真記憶」というわたしの内面構造に何らかの発達障害を疑い、結局門前払いのように診断がつかなかった数年間の疑惑が晴れる思いでもあった。子孫の生育過程がいかにも中央値的に推移し人間関係のセンスも高かったために、この「写真記憶」の構造と昨今の定義による発達障害の親和性は低いのだろうと考えたからだ。
 しかし同時に、だからそれが何なのだと思う。だからそれが何なのだ。人知れず苦しい障壁と戦う事実は、頑としてそこに存在し続ける。わたしの中にも子孫の中にも、捨てられない写真たちは溜まってゆき、それらとずっと付き合っていかねばならない。わたしたちはきっと「写真記憶」を持つマイノリティであり、そのスコープにおいては、孤独であり続ける。「本当は一人一人が全員マイノリティなんですよね」と言った彼女の笑顔を新しい写真として刻んだとき、わたしは多分、少しだけ勝利に近づいたと思う。それでも、子孫の中で成長とともにその構造が薄まることを願ってやまない。その願望はたぶん、矛盾しているようでしていない。誰も負けることのない勝利が、矛盾していないように。

 
この異国の街で、わたしと同じ年頃のひとりの女性が、頭の上に透明なお椀状のプラスチックを載せていた。それはシニオンのように纏め髪を覆っているものなのだが、ちょうど回転寿司のレーンを長時間回っている皿に被せてあるシールドのような形と大きさである。電車の中で、そのお椀を載せた彼女の頭は目立って美しく、わたしはつい見入ってしまったのだが、仮に日本国内で同じ日本人と思われる風貌の女性がそれを着けていたとして、自分の中に同じ賞賛が真っ先に湧く自信はないなと思った。親しい仲なら、「なんでそんなの着けてるの!」と直截に言って、本人と笑い合うことをわたしは期待するのかもしれない。頭のお椀を嗤われた彼女は、40年以上ぶんの「写真記憶」を抱えて挙動不審のわたしを、意趣返しとして嗤うようになるかもしれない。そうやって、均質を求める姿勢が「異分子」を産み、「異分子」は自分の中のマイノリティ性を呪い、他者のマイノリティ性に鼻を利かせて攻撃するのかもしれない。世界中をコラージュしたようなこの街で、ルーツを探ることの難しい肌色をした彼女のお椀を曇りなく賞賛していられるとき、わたしは本物の国境を越えている。

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