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マイノリティは「あちら側」の人たち?

週末に我が家に恋人が遊びに来ていて、「わたしはポリアモリーです、って宣言したりするの、なんか違う気がするんだよね」という話をしたりした。

僕はかつて「僕はポリアモリー」っていうブログ記事を書いたけど、確かに今になってみると「これって宣言するようなものじゃないかもな」と思ったりもしている。

ポリアモリーは「性質」なのか「ライフスタイル」なのか、っていうのがたびたび話題になる。「性質」というと属人的で、「人」が(先天的であれ後天的であれ)そういう特徴をもっているということになる。なんとなく「自分の意志では変えられない」というようなニュアンスもある。一方で「ライフスタイル」と言えば、自分の意志で選び取ったものとして「ポリアモリーという生き方」があるような感じ。

僕の今の時点の実感としてはそのどちらもしっくりこなくて、変わらない「性質」でも選び取った「ライフスタイル」でもなくて、単なる「今の状態」をあらわすもので、偶然のタイミングや、自分の選択、周囲の人との関わりなどによる結果に過ぎないんじゃないか、と感じている。

あくまでも「今の状態」だから今後変わるかもしれないし、たまたまそういう状態になる条件がそろっていただけであって、はじめから「こうなろう」と思って他人との関係を作り上げてきたわけでもない。
要は、「そうでない人と、明確な線引きができるようなものじゃない」ってことが言いたいんだけどね。
「変わることもある」「それは自分のはっきりとした意志とは限らない」ってことは、誰だって状況によってはその状態になり得るってことでもある。

そしてこのことって、ポリアモリーに限らず、実はあらゆるマイノリティに言えるんじゃないかなと思う。

「(生まれつきの、変えられない)性質だ」というのも「(確固たる意志のもとに選び取った)ライフスタイルだ」というのも、どちらも「こちら側とあちら側」を分けてしまう根拠になりがちだと思う。おかげでマイノリティについて、「(わたしたちとは違う)LGBTの人たち」みたいな言い方があふれているけど、とても違和感がある。

あちら側もこちら側もないんだよ。おそらくはあらゆる人が、何かしらの面においてはマイノリティなんだし。だからこそ、マイノリティを優遇するんじゃなくて、マジョリティじゃなくても大丈夫、不便にならずに生きていけるようにしよう、ということ。

「こういう性質をもつ特別な人がいるから差別しないように」ってことじゃなくて、「だれもが状況によってマイノリティの状態になり得る」。だから、マイノリティを差別しない、ということは「お情けで差別しないであげる」のではなくて、自分をふくむあらゆる人が生きやすくなるために差別をなくすべき、ということのはず。

「マイノリティを支援するのはマイノリティのためではない」
そして、
「当事者と非当事者なんていない」。

だから、最近の「LGBT教育」にありがちな、「かわいそうだから、マイノリティを差別するのはやめましょう」という教育はまったく正しくない。
「誰かが多数派と異なる行動をとるのを見て、差別したりあざ笑ったりするのは愚かなことであり、それは社会を悪くしているということに気づきましょう」が本当だと思う。

「自分がいつか多数派ではなくなるのではないか」と怯えながら生きなくて済む未来をつくっていくために。

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文月 煉
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