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ちっちゃな王子さま(超意訳版『星の王子さま』) vol.16

ⅩⅩⅥ

 井戸のそばに、古い石の壁のあとがあった。
 次の日の夕方、ぼくがいそいで修理からもどってくると、ぼくのちっちゃな王子さまがその壁の上に座って足をぶらぶらさせているのが遠くから見えた。そして砂漠の風に乗って、あの子のしゃべる声が聞こえてきた。
「ねぇ、覚えてないの? 全然、ここじゃなかったよ!」
 どうやらあの子はだれかと話しているみたいだった。
「いや、そう……日にちはたしかに今日なんだけど、場所がちがうみたいなんだ……」
 ぼくは歩きにくい砂の上をいっしょうけんめい歩き続けて、壁に近づいていった。でもあの子が話している相手の声も姿も、見つけられなかった。それでもちっちゃな王子さまは、たしかにだれかに向かって話していた。
「……うん、そう、それでいいよ。砂の上に、ボクの足跡がはじまっているところが見つかるはずだよ。君はそこで僕を待ってて。今夜にはボク、そこへ行くから」
 ぼくはもう、壁まで20メートルくらいのところまでたどり着いていた。そこまで来ても、ぼくにはだれの姿も見つけられなかった。
 あの子はちょっと黙ったあと、また口を開いた。
「ねぇ、君の毒って優秀なやつだよね? ボクを長いこと苦しませないでくれるよね?」
 その言葉に、ぼくは心臓がきゅっとなって、ぼくは立ち止まってしまった。いったい何のことを言っているのか、さっぱりわからなかったけれど。
「さぁ、もう行ってよ……下に降りたいんだから!」
 それを聞いてぼくは石壁の下に視線を降ろした。そして、ハッとして跳び上がった。
 ……毒ヘビだ!
 目を凝らすと、砂の中にまぎれて、たったの30秒でぼくらを葬ることができるおそろしい黄色いヘビが、ちっちゃな王子さまにむかってまっすぐに伸び上がっていたのだった。ぼくは拳銃を引っ張り出そうとポケットを探りながら、あわてて駆け寄った。ところが、ぼくの立てた物音を聞きつけると、ヘビは地面から噴き出す水がすっと止まったみたいに、するするっと砂の中へ沈みこんだ。それから慌てる様子もなく、キーン、と金属的な軽い音を立てて、岩の間をすり抜けて去っていった。


 やっと壁のところにたどり着いて、ぼくがあの子を腕の中に抱きしめたとき、あの子の顔は雪みたいに真っ白だった。
「いったいどういうことなんだ! 君が話してた相手は恐ろしい毒ヘビなんだぞ!」
 ぼくは、黙っている王子さまの、いつも首に巻いている金色のマフラーをほどいてやった。それからこめかみを湿らせて、水を飲ませる。今は、ぼくにはそれ以上の質問をする勇気がなかった。あの子は真剣な表情でぼくを見つめて、それからぼくの首に腕をからませた。あの子の心臓が、鉄砲で撃たれて息も絶え絶えの小鳥のように弱々しく脈打っているのを感じていた。
「ボクはね、君の機械の悪いところが直ってホッとしてるんだ。これで君は、君んちに帰ることができるね……」
「どうして知ってるんだい?」
 僕はおどろいてたずねた。ぼくはそのときちょうど、奇跡的に飛行機の修理が成功したことを伝えに来たところだったんだ。
「ボクもね、今日、ボクんちに帰るんだよ……」
 あの子はそう言って、ひどく哀しそうな顔をした。
「ボクの方は君よりずっと遠くて……ずっと難しいんだ……」
 ぼくは、もうすぐ何か大きなことが起こることを予感した。ぼくはちっちゃな赤ん坊にするように、王子さまを腕の中に抱きかかえていたのに、王子さまがぼくの手の届かない深い深い穴へと落っこちて行ってしまうような、そんな気がしてならなかった……。
 あの子の真剣な瞳は、どこかはるか遠いところを見つめていた。
「ボクには君のヒツジがある。ヒツジのための箱だってある。それに、口輪もあったよね……」
 そうしてあの子は、哀しげにほほえんだ。
 ぼくは長いこと待った。氷みたいだったあの子の身体が、少しずつあったかくなっていくのを感じていた。
「あぁ、いい子だ。君は、こわかったんだね……」
 王子さまが真っ白になってこごえていたのは、ひどくこわい思いをしたからにちがいなかった。それなのに王子さまは、かすかに笑って首をふった。
「ううん、大したことないよ。だって、今夜はもっとこわいんだから……」
 これから何か取り返しのつかないことがはじまる気がして、ぼくは凍りつくような思いだった。王子さまの笑い声を、もう二度と聞けないかもしれないと考えるだけでも、ぼくには耐えられなかった。その笑い声は、ぼくにとって砂漠の中の泉のようなものだったんだ。
「あぁ。ぼくは君の笑い声をもっと聞いていたいんだよ……」
 だけどあの子はこう言ったんだ。
「今夜で、ちょうど一年なんだ。ボクの星が、ボクが一年前に落ちてきたところの、ちょうど真上に来る……」
「ねぇ、それはみんな悪い夢なんじゃないのかい? ヘビの話とか、待ち合わせとか、星から来たとか……」
 あの子はやっぱりぼくの質問に答えなかった。そしてこう言った。
「大切なものは、目に見えない……」
「ああ、そうだね……」
「それは花のことを言っているんだよ。もし君がひとつの星にあるひとつの花を愛したら、夜に星を見上げるのがうれしくなる。すべての星に花が咲くんだ」
「うん、そのとおりだね」
「それは水のことを言っているんだよ。君が飲ませてくれたのは、音楽みたいだった――滑車と、ロープのおかげで――覚えてる?……すごく、おいしかったよ」
「ああ、覚えてるよ」
「夜になったらさ、星をながめてよ。ボクんちの星は小さすぎて、どこにあるのか君に教えてあげることはできないや。でもその方がいいんだ。ボクの星は、君にとって、たくさんの星の中のひとつなんだ。だから、君はぜんぶの星を眺めるのが好きになるよ……星たちはみんな、君の友達になるんだ。あとそれから、ボクは君に贈りものをするよ……」
 ちっちゃな鈴のような声で、あの子はもう一度笑った。
「ああ、それだよ! ぼくはさ、君のその、笑う声を聞くのが好きなんだよ!」
「それだよ、それがボクの贈りものなんだ……水のことみたいなものだよ」
「どういうこと?」
「だれかにとって星がどういうものかは、それぞれがみんなちがうんだ。船に乗ってるだれかにとっては、星は目印。他のだれかにとっては、ちっぽけな灯りでしかないかもしれない。学者にとっては、星は研究課題かもしれないね。ビジネスマンにとっては、星はお金だった。だけどそういう星たちはみんな、なんにも言わない。でも君は、君だけは他の人たちとはぜんぜんちがう星をもってるんだ……」
「どういうこと?」
「君が、夜に空を見上げた時、その中のひとつにボクが住んでいるから、その中のひとつでボクが笑っているから、君にとってはぜんぶの星が笑っているんだ。君は、君だけが、笑っている星たちをもってるんだ」
 そう言ってあの子は、また笑った。
「いつか君の哀しみが治まった時――哀しみっていうのはいつもそのうちに治まるものなんだ――、君は『ボクに出逢って良かった』と思うんだ。君はいつまでもボクの友達だよ。君はボクと一緒に笑いたくなる。君はときどきこんなふうに、わくわくしながら窓を開ける……きっと君の友達は君が、空を眺めながら笑っているのを見てびっくりするだろうね。そしたら君はみんなに言うんだ。『ああ、そうだよ。星を見るとぼくは、いつも笑いたくなるんだ!』って。みんなは君がおかしくなったと思うかも。ふふ、ボクは君にひどいいらずらをしちゃったことになるね……」
 もう一度、あの子は大きく笑った。
「そうするとボクは君に星じゃなくて、いっせいに笑うちっちゃな鈴をあげた、ってところかな……」
 もう一度笑ったあと、あの子は真剣な顔にもどって言った。
「今夜は……わかってるね……来ちゃいけないよ……」
「ぼくは君と一緒にいるよ」
「ボクはきっと具合が悪いように見えるだろうし……その……死にかけてるみたいに見えるかもしれない。そういうものなんだ。そんなところを見に来ないでよ。そんなことしても意味がないよ……」
「ぼくは君と一緒にいる」
 けれど王子さまは心配そうな顔で首をふった。
「ボクが言ってるのは……ヘビのせいでもあるんだ。君がヘビにかまれちゃうといけない……ヘビって奴らは、ひねくれ者なんだ。おもしろ半分にかむかもしれないし……」
「ぼくは君と一緒にいるんだ」
 ぼくが譲らずにいると、王子さまはそこで何かを思いついて、安心したような顔になった。
「たしか、毒ヘビは二度目にかむときには毒がないんだったっけ……」

 その夜、あの子が出発したのにぼくは気づけなかった。あの子は物音ひとつ立てないで寝床を抜け出したんだ。やっと追いついたとき、王子さまは毅然とした足取りで足早に進んでいた。
「ああ。来たんだね……」
 あの子はそれだけ言った。そしてぼくの手をつかんだんだ。けれどまだ悩んでいるみたいだった。
「ここにいちゃいけないよ。君はつらい思いをすることになる。ボクは死んだみたいに見えるだろうけれど、でもそれは本当じゃないんだ……」
 ぼくは黙っていた。
「ねぇ、わかってよ。遠すぎるんだよ。この身体を持っていくわけにはいかないんだ。重すぎるんだよ」
 ぼくは黙っていた。
「でもこれは脱ぎ捨てられた古いぬけがらみたいなものなんだ。ぬけがらのことなんて哀しくなんかないんだよ……」
 ぼくは黙っていた。
 ぼくが何も言わないから、王子さまはちょっと自信をなくしたみたいだった。けれど気を取り直して口を開いた。
「ねぇ、すごく素敵なことなんだよ。ボクも星を眺めるよ。すると、ぜんぶの星が錆びた滑車のついた井戸になるんだ。ぜんぶの星がボクののどをうるおしてくれる……」
 ぼくは黙っていた。
「すごく楽しいだろうなぁ! 君には五億の鈴が、ボクには五億の井戸があって……」
 そして王子さまも黙った。なぜならあの子は、泣いていたから……。
「だからさ。ボクをひとりで行かせておくれよ」
 それからあの子はこわくなって、しゃがみ込んでしまったんだ。
「ねぇ……ボクは……ボクはあの花に、会いに行かなくちゃいけないんだ! 彼女は本当にか弱いんだ! そして本当に繊細なんだよ。彼女はあの四本のトゲだけで、世界から身を守っているんだから……」
 それ以上立っていられなくなって、ぼくもしゃがみ込んだ。


 そして、王子さまは言った。
「ほら……これでおしまいだよ……」
 あの子はまだ少しためらっていたけれど、やがて立ち上がった。そして一歩踏み出したんだ。ぼくは、動けなかった。
 あの子の足下で、さっと黄色い電光が走った、それだけだった。わずかの間、あの子はそのまま動かなかった。叫んだりすることもなかった。一本の木が倒れるように、あの子はゆっくりと倒れたんだ。音もしなかった。そこは、砂の上だったから。

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