日曜日の夜中に心に浮かぶ由無しごと
今日はなんだか思いつくままに書き散らしたくて、あえて推敲なしでだらだらと書きます。
35歳になっても依然として安定とはほど遠い生き方をしておりまして、今の職場も、長くてあと一年ちょっとかなぁと思いはじめたりしていて、次は何をして生きようかなぁと考えることが多くなってきた。
そんな風に自分の生き方を考えることは、たぶん人よりずっと多くて、どの会社に勤めようとかどういう職種にしようかとかよりも、「自分が何をして生きていくのか」というような根本的なところについつい想いがいってしまう。突き詰めてしまうと「僕はなんのために生きているのか、生きていくべきか」とかそんなところまで考えてしまいがち。
「人間はなんのために生きるのか」だなんてあんまり主語を大きくしてもいけないけれど、僕はたぶんこの先自分の子供をつくり、産み育てることはおそらくはなさそうだから、「生きる意味が子孫を残すことではないとしたら、何があるだろう」ってことはよく考えてしまう。少なくとも社会的な生きものであるように進化した人間の生きる意味が子孫を残すことだけにあるとは僕は考えていないので、じゃあ、他に意味があるとしたら、「社会がほんの少しでもよくなることに貢献する」ことができたら僕の生きた意味もあるのだろう、なんて思ったりするし、その逆に、社会を悪くすることに加担してしまったら、「僕が生まれない方がよかった」みたいなことになり、そういう風に生きて死ぬのはいやだなぁと、なんとなく思う。まぁそれも勝手な自己満足ではあるのだけど。
とはいえとはいえ、「なんのために生きるのか」とか「僕の人生に意味があるのか」とかを考えること自体が結局「いかに死ぬときに自己満足できるか」っていう話なんだから、とりあえず自己満足する方向に向かって生きようとするっていうことでいいんじゃないか。
一言で言うなら、
僕が生まれる前より死んだあとが、少しでもいい社会になってほしい。
しかしながら、社会を「よくする」だの「悪くする」だのっていう価値基準は、それこそ絶対的に決められるものじゃないから、そこも「自己満足」のために、自分がいいと思うか悪いと思うか、ということなんだけど、僕の善とするものとはなにかというと、「個人が自由に選択をして生きられる社会」ということなのだろうと思う。逆に言えば、僕にとって、他者の可能性を奪い合うような社会が「悪い」社会。
現代の人生において、「仕事」の占める割合は大きい。仕事、というか労働は生きるための糧を得る手段であるわけだけれど、僕としてはできればただ糧を得られればいいのではなくて、仕事をすることによって「社会をよくする」ことにほんの少しでもいいから加担できるようにしたい。そうでないとモチベーションがわかない。
たとえば、
避妊の仕方とか会社の辞め方とか貧困になったときや精神を病んだときの手続きの方法とか、論理的な議論の仕方とか歪んだ認知をしないための思考法とか、他人の人権を侵害しない方法とか、そういう「生きていくために必要だけど誰も教えてくれないこと」を教えるような仕事がしたい。
とか、そういうこと。
まだうまく形にならないけど。こういうことを、考え続けて生きていきたいな。