本当に寂しかったのは。
『ひだまりが聴こえる』を観ていて、理解しているようで理解しきれていなかったことがある。
それは、どうして太一はあんなにもなんの壁もなく航平と接することができたのか、ということだ。
もちろん太一が、耳が聴こえる/聴こえにくい、といった障碍やその他のさまざまな特性で相手のことをジャッジしないフラットな人だから、というのが解だとは思う。
あとは、航平に限らず、誰とでも仲良くなれるタイプの人であることも大きい。
でもそれだけなのかなあ、というのが引っかかっていた。
太一が航平に向ける視線は、単純に仲良くなりたいという陽のオーラにとどまらない、どこかウェットなものを含んでいて。言語化すると、ほっておけないという庇護欲に近い。
それは、太一が言葉にする通り、航平がいいところをたくさん持っているのに周りと関わろうとしないことがもったいなくて、みんなに航平のいいところを知ってほしいという思いが起点なのかもしれない。けど、それだけじゃない、ただの献身だけじゃない何かを、ずっと僕は太一から感じていた。
太一の目は、ピュアで、まっすぐで、曇りがない。でも、どこか泣き出す前の子どもみたいに見えて、その一瞬見せる弱さの正体を、僕はずっと知りたかった。
そして気づいた。
太一は、寂しさを知っている人なのだ。寂しさを知っているから、航平が抱えている寂しさに気づいて、自分の中に隠し持っている寂しさが共鳴したんだと思う。
普段は明るく振る舞っているけど、実の親に選んでもらえなかったことがずっと太一の傷になっていて。他人に対して壁をつくりたがる航平のことが、ひとりぼっちになった自分と少し重なったから、なんとかしてやりたかった。
一見寂しそうなのは航平だけど、本当の意味で寂しさに敏感なのは、太一のほうなんじゃないかな。
一度大切な人から手を離された経験のある太一は、手を離されることに対して、どこか臆病になっている。航平が太一を「向こう側」の人間だと線を引いて距離を置いたときも、あの雨の日からずっと航平がメールを返してくれなかったときも、家庭教師のバイトを黙っていたときも、つい航平がふてくされたりムキになってしまうのは、無意識のうちに寂しさを感じたから。
「無邪気なアホの子」というわかりやすいパッケージを剥がした内側には、自分の親権をめぐって言い争いになっている両親に対して何も言えなかった在りし日の太一が、今もずっとうずくまっている。
僕はこのドラマを好きになったとき、てっきり航平の寂しさに心が吸い寄せられたのだと思っていた。けれど、違った。僕がキャッチしていたのは、太一の寂しさのサインだったのだ。
口は悪いけど気のいいじいちゃんがいて、ヨコとヤスという友達にも恵まれて、キャンプに行っても飲み会に行っても、すぐに誰とでも打ち解けられて、気づけば周りに人が集まっている太一が、ほんの一瞬だけ示すSOSみたいなコールサインが気になってどうしようもなくて、つい太一を目で追っていたんだと思う。
そのことに気づいてから、『ひだまりが聴こえる』を観ているとますます胸が苦しくなった。
マヤの登場により、航平には自分がいなきゃという使命感がただの思い込みで、航平は自分がいなくても平気なんだと太一は疎外感を抱くようになる。初対面の人のお弁当をパクパク食べて、他人のテリトリーにひょいと飛び込むことのできた太一が、今では新年度のノートテイクもまた自分にさせてもらえるのか確認することさえ切り出すタイミングを掴めない。
太一に「やるよ」と言われて、航平は安心したように崩れ落ちたけど、たぶん太一も同じくらいうれしくて。だから「んなことしねえよ」と鼻をさわったあと、照れ隠しみたいに遠くを見た。ふたりをつなぐノートテイクという糸が切れてしまうことに怯えているのは、航平だけじゃなく、太一もだ。
気を抜いたらあっという間にほどけてしまいそうな頼りない糸をきゅっと握りしめるその握力が、このドラマの吸引力となっていて。二人がはぐれてしまわないように、僕たちもまた大切なものを守るように、強く強く拳を握って、二人の行方を見守っている。
夕陽を見たとき、あたたかい気持ちなれる人と、寂しさがこみ上げてくる人がいるとして。きっとこのドラマにのめり込んでいる多くの人は、後者なんじゃないかという気がする。
それぞれの抱える寂しさが、航平と太一を見ていると小さな痛みを伴って疼くから、つい目が離せなくなる。
どうか、寂しがり屋の航平と太一がこれ以上寂しい思いをしなくてすみますように、と。
ときめきよりももっと切実な、祈りに似た気持ちで、二人の幸福を願い続けている。