紅蓮の炎、群青の月 第一話
あらすじ
ある日、高校生の渡辺敦の前に、轟天丸と姫夜叉と名乗る二匹の鬼が現れた。敦を守るために鬼の里から来たという。
平安時代中期、鬼は京の都で人間と共存していた。しかし藤原道長は、陰陽師安倍晴明を通じて、桃太郎という悪鬼に鬼退治を命じた。
京の都は地獄絵図となった。見かねた源頼光と四天王が、蘆屋道満の力を借りて、不死身の桃太郎を千年の封印に閉じ込めた。
赤鬼と青鬼は敦に向かい、千年の封印が解けて桃太郎が蘇り、渡辺綱の子孫である敦に復讐しに来ると話した。
敦は鬼とともに、頼光と四天王、道満や晴明の子孫を探し出し、犬猿雉の怪物を復活させた桃太郎と対峙した。敦たちは鬼の里での激闘の末、再び桃太郎の封印に成功した。
プロローグ
桃太郎は、深い泥の底からゆっくりと浮かび上がるように、目が覚めてゆくのを感じた。千年の長きにわたって、深い闇の奥で夢も見ずに眠っていた状態から、ようやく自分が眠っていることがわかるというところまで意識が戻ってきた。
最初に自分の呼吸音が意識にのぼった。鼻から入った空気が肺を膨らませる。つぎに四肢の存在を感じた。腕も脚もずっしりと重い。
桃太郎は今まで眠り続けていたことを思い出した。今、瞼を開けると何が見えるだろう。しかし瞼が重い。まだ眠り足りない。できればもっと微睡(まどろ)んでいたい。そう感じるところまで、桃太郎の意識は覚醒に近づいていた。
桃太郎はゆっくりと目を開いた。周囲は未だ薄暮にも至らず、無明の闇のままである。目を開いた意味すらない暗黒の中で、桃太郎は再び目を閉じた。
この闇は懐かしい。すべてを奪われ、桃の実にに閉じ込められたあのときにも似て、怖れと温もりがない交ぜになった感覚に包まれていた。あのときの桃太郎は、すべての力をはぎ取られた一個の胎児に過ぎなかった。
しかし今度は違った。千年の眠りを経て、瞼の裏に悪夢のような光景がよみがえった。
「綱め」
目を閉じた桃太郎のこめかみに太い血管が浮かんだ。瞼の裏の悪夢が興奮を呼んだのか、桃太郎の全身が赤らみ、筋肉が膨れ上がったように見えた。
「許さぬ」
桃太郎ははっきりと思い出した。道長公と安倍晴明の後ろ盾と力を得て、都の鬼退治に乗り出したことを。そして、幾百幾千の鬼を退治して、数多の財宝を奪い尽くし、道長公の権力を盤石にしたのだった。
しかし、それを快く思わない者がいた。源頼光一味である。桃太郎に敵わぬとみるや、あろうことか道の者の力を借りて、大切な犬猿雉を皆殺しにしたばかりか、不死身の力を得た桃太郎を千年の封印に閉じ込めたのだった。就中(なかんづく)、頼光四天王の随一、渡辺綱こそが、名刀髭(ひげ)切(きり)で桃太郎を両断し、神鏡に桃太郎を封じ込めた張本人であった。
桃太郎は闇の中でかっと目を見開いて立ち上がった。しかし、千年に及ぶ眠りは、桃太郎からあまりに多くのものを奪い去っていた。桃太郎は、肉が落ち、痩せた膝を押さえて、蹌踉(よろ)めくのを止めるので精一杯だった。
「綱め!」
桃太郎の見開いた目は、闇の中でも確かに血走っていた。なによりもまず千年前の復讐を遂げ、再び世界に地獄を招来してみせると、昏い狂気の光がその目には宿っていた。
この後、桃太郎が千年もの長きにわたった封印を打ち破り、配下の犬猿雉ともども現世に蘇って、四天王の子孫たちと死闘を繰り広げることになることを、世界はまだ知らなかった。
1
敦は、剣道部の仲間と校門を出たところで二人の男に声をかけられた。
「渡辺君だよね」
「ちょっと、一緒に来てくれないかな」
言葉こそ穏やかだったが、二人とも派手なシャツに尖った靴、剣呑な雰囲気は隠しようもなかった。
敦は友人に脇腹を小突かれた。
「渡辺、〝いかのおすし〟を覚えてるか」
「おう。小学校で習ったな。知らない人について行かない、車に乗らない、押さない、すべらない、死んだふり、だっけ」
「あとの方は全然ちがう」
男の一人が割って入った。
「じゃなくてさ、お父さんのことで話があるんだ」
「あ、お父さんが交通事故に遭ったんで、おじさんが病院へ連れてってあげるってやつだ」
「うるせえな、てめえは」
男に一喝されて、友人は黙ってしまった。
「で、来るのか来ねえのか」
堅気は絶対使わないような巻き舌で、男たちはもう正体を隠さなくなってきた。
「行きませんよ。父に話があるならうちに来てくださいよ。どうせまた処分場の話でしょ」
「悪いけど、こっちも連れてこいって言われてるんだ。ここで坊主の答えは、はいかイエスしかねえよ」
敦は唇を引き結んで男をにらみ返した。このチンピラたちは、上にいわれている以上引き下がるとは思えなかった。
「わかりました。暴力だけはご免ですよ。ぼくは関係ないんですから」
そこで敦は友人を振り返った。
「悪いけど、スマホでこの人たちとそのワゴン車のナンバーを撮っといてくれ。あと、警察とうちの親に、渡辺敦がさらわれたって連絡しといてくれないかな。そのあとで教頭先生に」
友人はうなずいて敦をハグしてきた。
「だけどよ、どう考えても行かない方がいいと思うけど」
耳元で囁いた。
「いろいろあるんだよ。親父も大変でさ」
そう言い残して、敦は男たちとワゴン車に乗り込んだ。
敦を乗せた車は案の定、山奥のプレハブ小屋に向かった。工事現場の仮設事務所のような粗末な小屋の中で、敦はパイプ椅子に座らされて後手に縛られ、ヤクザ映画に出てくるような男たちに取り囲まれていた。やっぱり来るんじゃなかった。友人の写真があるので手荒なことはされないだろうが、敦は心底後悔していた。
「悪いな坊主。ここがどこだか、もうわかってると思うが」
敦は身を固くしてうつむいていた。連中の素性はわかっている。産廃業者の関係者だ。それもかなりたちの悪い。
敦の父親はただのサラリーマンだが、今年たまたま自治会長をやらされていた。新興住宅地の常として、くじ引きで回ってきたのだ。ただ、それがよくなかった。敦の住む大規模な住宅地は、川沿いの下流部分の広くなった沿岸部を整備して開発されたのだが、今年になって突然、上流の山間部に産業廃棄物の処分場の計画が持ち上がったのだ。地主にしてみれば、アクセスする道路もない山間の荒れ地など、売りようがない上に維持するだけでも金のかかるお荷物なのだから、高値で買ってもらえるとなれば否やはないだろう。
驚いたのは下流の住宅地である。山の上の盛り土が町を押し流した土砂災害の記憶も新たなのに、大量の産業廃棄物が川上の山林を切り開いて持ち込まれるとなると、穏やかでいられるわけがない。ものがものだけに、河川の水質汚染を警戒する声も高まった。
市の担当者と業者とによる説明会が幾度か開かれたが、業者の計画が素人目にもずさんなものだったこともあって、説明会のたびに怒りと糾弾の声が飛び交い、毎回物別れに終わった。
とばっちりを食らったのが敦の父親である。自治会長を引き受けた手前、何かあるたびに、住民の意見のとりまとめや、市や業者との交渉の矢面に立たされることになった。
話が進まないことに業を煮やしたのは、地主か業者か。いつの間にか住宅地のまわりを目つきの悪い男たちが徘徊するようになった。敦の父親はもちろん、主立った反対派住民の家のまわりをうろついては、出入りする住人を写真に撮ったり、平気で門柱に立ち小便をしたりした。
そしてとうとう実力行使に出たようだ。自治会長を懐柔するなり脅すなりして、処分場の開発を飲ませれば、あとは与しやすいと考えたのだろう。
「おう坊主、お前の親父はどうすれば言うことを聞いてくれる? 息子の小指を見たら気も変わるか?」
恰幅のいい中年男が話しかけてきた。年も一番上のようだし、この場の責任者なのだろう。
男たちはあと四人いた。プレハブ小屋の入り口を背にして、筋肉質の若い衆が二人。中年男の両脇に陰気な目をした男たちが二人。高校生一人さらうのにえらくものものしい。
敦は思わず顔を上げた。
「え、いや、そんな、やめてください」
虚勢を張っているつもりでも、膝が震えるのはどうしようもなかった。
「親父なら、ぼくが頼めば反対なんてしませんよ。自治会長だってくじびきでなったんだし」
「それがよ、締め上げて脅そうが、金をちらつかせようが、洟も引っかけねえんだ。ただのリーマンのくせに」
敦は驚いた。反対運動の先頭に立たされてぼやく姿は何度も見たが、脅されただの痛い目に遭っただのという話は聞いたことがない。それどころか、さほど大きくもない会社の中間管理職なのに、そんな目に遭えばすぐ折れると思っていた。
「まあそれでも、ティッシュに包まれた息子の指なり耳なりを見れば気が変わるだろう」
男がそばの手下に顎をしゃくると、暗い目をした男が事務所の隅から、白い布と何本かの刃物を持ってきた。
敦は男たちが本当に自分を傷つけようとしていることを悟った。
「あああ、親父はぼくが説得しますから、か、必ず処分場は賛成させますから」
そのとき、爆発するような音を立ててプレハブ小屋の扉が開いた。
敦が椅子に縛られたまま目を凝らすと、大きく開いた引き戸の向こうに、赤い壁のようなものが見えた。
その壁が身をかがめて、のっそりと部屋に入ってきた。
「お、鬼!」
敦は思わず声を出した。
赤銅色の巨人は、まさしく絵本で見た赤鬼そのものだった。ごつごつした岩を切り出したような顔貌、毛むくじゃらの太い腕、もじゃもじゃの頭髪、頭から突き出た二本の角、身に着けているのは虎皮の腰巻一枚で、手には鋲を打った金棒を持っていた。頭が天井に届かんばかりの巨漢で、体格は映画で見た超人ハルクそのままだ。
「なんだてめえ!」
チンピラの一人が突っかかった。手の特殊警棒を赤鬼の鼻先に突き付けた。
「どっから来た! おかしなカッコウしや……」
赤鬼が無造作に右手を振った。手の甲が男の頭に当たって、男は人形のように吹っ飛んだ。床に倒れた男の首がおかしな角度に曲がっていた。男の鼻と耳から盛大に血があふれて床に広がった。背後に回った別の男が、声も出さずに赤鬼の後頭部に木刀を叩きつけた。腰の入った容赦のない打撃は、人間なら簡単に頭蓋骨を砕いていただろう。
しかし、苔むした岩を叩くような鈍い音がしただけで、木刀は男の手から跳ね飛んだ。赤鬼は振り返ってにやりと笑った。お返しのように、左手の金棒を男の頭に振り下ろした。男は脳天から足元まで一撃で叩き潰されて、一山の肉塊に変じた。
赤鬼は一歩進んできた。敦を囲んだ男たちは声もなく立ちすくんでいた。
赤鬼の背後からもう一人現れた。今度は青鬼だ。身長は赤鬼ほどではないが、はちきれんほどのバストに長い黒髪、深いスリットの入った黒のロングドレス、額の角とブルーの肌さえなければハリウッドのグラマー女優と言っても通るような美女だった。
「こんにちは。私は姫夜叉。姫って呼んでね」
にっこりと微笑んだ。
敦の隣でごくりと唾を飲むを音がした。高木と名乗ったリーダーらしき男だ。
「な、なんだお前ら」
赤鬼が太い声で答えた。
「えらく探す羽目になったが、間に合ってよかった。とにかく、その人には、毛ほどの傷も許さない」
言葉が通じることがわかって、高木は我に返ったらしい。
「こいつを助けに来たってのか。俺もお前らを許さねえよ。若いもんを殺されて黙ってられるかってんだ」
高木もいっぱしのヤクザ者としての胆力を見せた。目の前で子分を二人も殴り殺されて、平静どころか逆に凄めるというのは並みの三下ではない。
高木と両脇の男がスーツの胸元から拳銃を取り出した。
「あいにくここは山ン中だ。銃声を聞く人間はまわりにいねえし、お前らを埋める場所にもこと欠かねえ。気の毒だったな」
三人が同時に引き金を引いた。プレハブの事務所の中に銃声が重なって響き渡った。敦は鼓膜がどうにかなるかと思った。
二匹の鬼はそれでも平気な顔で立っていた。
「鉄砲はかなわんなあ。ちくちく痛いんじゃ」
赤鬼の声がした。毛むくじゃらの胸板を手で払うと、つぶれた弾丸がばらばらと落ちた。
高木たちは呆然としてその姿を眺めていた。
「十六夜」
青鬼の声がした。どこから出したのか、青鬼の手に日本刀が現れた。白刃が三筋の白光を曳いて閃いたと思うと、敦の足元に三つの生首が転がった。
「わああああ!」
敦は悲鳴を上げた。
「あなたが綱様の子孫なのね」
青鬼がにっこり笑って話しかけてきた。赤鬼は敦に向かって平伏していた。
「鬼!」
敦は再び叫んだ。
「そう、私たちは鬼です。千年の昔、あなたのご先祖の渡辺綱様に助けていただきました。今度は私たちが助けに来たの」
青鬼は優しい声音で敦に囁いた。これもどこかから取り出した小刀で、敦を椅子に縛り付けていた縄をはらはらと切り離した。青鬼が手首を縛られて血の気を失った両手を手の中に包んでさすってくれた。青鬼の掌は意外と柔らかくて温かかった。
赤鬼ががばりと顔を上げた。
「わしらがみなさんをお守りします。安心してもらって結構」
敦に徐々に落ち着きが戻ってきた。鬼たちはどう見ても怪物にしか見えないが、自分に危害を加えるつもりはないらしい。
鬼は悪者ではないと、昔話のたびに繰り返し語ってくれた祖母の言葉を思い出した。うちのご先祖の渡辺綱は鬼退治で有名じゃが、本当は鬼の味方なんじゃ、そんな話も思い出した。
しかし、無惨な死体が散らばった小屋の中は、ただの高校生には耐えがたかった。
「わかったよ。あんたらにも事情があるんだろう。だからもう帰らせてくれないか。こんなところにはいたくない」
青鬼がうなずいた。
「承知しました。お送りしましょう。ご説明にはあらためてうかがいますゆえ」
敦は、来なくていいともほっといてくれとも言えなかった。青鬼の声にはどこか切迫した調子が感じられた。
三人で表に出た。山奥のことなので樹上には満天の星空が広がっていた。
「晦日ですから星がよく見えますね」
青鬼はキャンプにでも来たようなことを言った。そこに赤鬼が話しかけた。
「姫、ちょっと暴れていいか」
「どうぞお好きに」
青鬼がそう言うが早いか、赤鬼が金棒を振り上げてプレハブ小屋を叩き壊し始めた。とんでもない破壊音とともに、みるみる小屋は瓦礫の山に変じた。次に傍らに置いてある重機に飛びついた。ブルドーザーで三発、大きなユンボで五発、金棒の打撃で簡単にスクラップになった。
赤鬼が敦を振り返って、手の金棒を少し持ち上げて見せた。
「こいつは炎嶽と言いましての、鬼の間じゃちょっと名の知られた得物で」
名刀に名前があるように、金棒にもよい物なら銘があるのだろう。
「さあ、つかまってください」
青鬼が敦に背を向けてしゃがんだ。
「え、おんぶ?」
「送って差し上げるって言ったでしょう。ご自分で歩くよりきっと早いですよ」
敦は言葉に甘えて覆いかぶさった。青鬼は女に見えても二メートル近い身長がある。広い背中の安定感は、母の背に負ぶさった幼いころに還ったように感じられた。青鬼の背は意外と柔らかくて温かかった。
「じゃあとで」
青鬼は赤鬼に目配せして走り出した。歩くより速いどころではない、山の上から林道を駆け下って、国道に出てから何台の車を追い抜いたか。敦は生きた心地がしなかった。小さい頃のおんぶの思い出に浸っている場合ではなかった。ほとんどの間、目をつぶって青鬼の首筋にかじりついていた。
青鬼は敦を自宅の前で下ろした。息も切らしていない。敦の方が疲れ切っていた。なぜ家を知っているのかと聞くことすら思い浮かばなかった。
「それでは、また明日にもお目にかかりましょう」
青鬼は風を巻いて姿を消した。
2
一夜明けて、ベッドから起き上がった敦は、昨夜のことを思い出した。柄の悪い男たちにさらわれて、山奥の産廃業者のプレハブに連れ込まれたことはもちろん覚えている。そこへ突然、絵本のような赤鬼と青鬼が現れて、男たちを殺してしまった。そこからの記憶は曖昧になっている。鬼と話して青鬼におぶさって家まで送ってもらったことは記憶にある。玄関先で呆然としていると、ほどなく帰ってきた父親に、こんなところで何してるんだと言われて我に返った。だから赤鬼と青鬼のくだりは、本当にあったことなのかどうか、考えれば考えるほど曖昧になっていく気がした。願わくばすべてが幻で、人など殺されていてはほしくないが、シャツや靴についた血を見れば、その願いも望み薄な気がした。
昨夜の惨劇は、まだ朝のニュースにも流れていなかった。あれほどの殺害と破壊が行われたのにと思うと、それも敦にとって、記憶に自信がなくなる理由のひとつだった。現実的に考えれば、山奥のことでもあり、関係者が訪れるまで誰に気づかれることもなく、警察への通報もないのだろう。翌朝早々のニュースにならないのも不思議ではない。それでも産廃業者は機械の回収に向かうだろうし、五人もの死体が転がっているからには、近いうちに大きなニュースになるにちがいないと、敦は思った。
「おっはよー!」
教室に入るなり、あとから飛び込んできた海老沢に肩をどやされた。
「ってーな、のやろー」
こっちも負けずに振り返って頭をはたいてやる。海老沢は小さいので、ちょうどいい高さに頭がある。
「毎日毎日レディの頭を叩くな馬鹿野郎」
「誰がレディだ」
敦が自分の机の上に鞄を放り出すと、早速谷沢が話しかけてきた。
「ようよう、転校生の話を聞いたか。二組と六組にいっぺんに来たらしい」
「知らないよ。俺は今来たばかりだぜ」
「そりゃいずれ紹介もあるんだろうけど、二人とももうクラスに来てるからさ、噂は一気に広がってるよ」
さすが早耳の谷沢だ。朝からちょこまか走り回って情報をかき集めてきたんだろう。
「変わったことでもあるのか?」
「変わったどころじゃねえよ。二組の女子なんて、背の高いすっげえ美人でよ、脚なんて長いどころじゃねえぞ」
「短いのか」
「バカか。六組の男子は、打って変わってゴリラみてえないかつい野郎で、朝から柔道部の山下が勧誘に張りついてるよ」
敦は、なんだかいやな予感がした。
もちろん、いやな予感が外れることはない。
一時間目が終わったところで、二人が敦のクラスにやって来た。女の方は目をハート型にした男子生徒をぞろぞろ連れて、男の方は柔道部やラグビー部のいかつい勧誘部隊を同じくぞろぞろ連れていた。
「鬼!」
敦は叫んで立ち上がった。一目でわかった。やっぱり昨晩の赤鬼と青鬼だ。サイズは人間並みになってるが。
「ここで鬼は控えてもらえませんかの」
敦は再び座り直した。敵ではないとわかってはいるが、昨晩の残虐な行為を見ただけに、どうしても身構えてしまう。
「じゃあ、丁寧な口調もやめてくれ。ここでは渡辺でいい。敬語も不要だ」
敦は小声で念を押した。二人は小さくうなずいた。
「あたしは、姫野叉絵ってことになってるから、姫でいいわ」
「わしは轟天吾なので、轟でも天吾でも」
二人は振り返って、つきまとってた連中を追い払った。
「はーい、みんなごめんなさいね。お昼休みにまた会いましょう」
「ちょっと、大事な話をするんで、ここは控えてもらえませんかのう」
二人について来た連中は、ぶつぶつ言いながら教室を出て行った。
それでも、教室中の人間が聞き耳を立てていることがわかったので、敦は二人を階段の踊り場まで連れ出した。
「お前らがどこから来たかは知らないし、鬼が本当にいたことさえまだ半信半疑なんだ。いったいどうして現れたんだ」
「その理由をお話ししようと思ってます」
「長い話になると思ってくれ」
敦は二人をじっと見つめた。青鬼の美しい目も、赤鬼のどんぐり眼も、これ以上はないというほど真剣な表情を湛えていた。
「僕が渡辺綱の子孫だからか? 鬼退治の仕返しにでも来たのか?」
「ちがう。あたしたちはあなたたちを守りに来たの。そしてあなたたちの力を借りに来た」
「桃太郎の話を聞いたことはないか」
轟天丸の目に力がこもった。
「どっちの?」
「めでたしめでたしじゃない方」
「ばあさんに少し聞いたことがある。京の都が鬼の血で血の海になって、うちの先祖が食い止めたとか」
「そう。その桃太郎が蘇ったの。じきにやって来るわ」
突然そんな話を聞かされても、敦にはピンとこなかった。日本一と書かれた幟を背負った陣羽織の少年が、今の日本に出てきてどうしようというのだ。
「そんなこと言われたって、僕はただの高校生だよ。桃太郎だって、今さら鬼退治でもないだろう。僕に何をしろって言うんだ」
敦は肩をすくめた。その仕草には、そんな話を聞かされても仕方ないという意思がこもっていた。
「命が危ういと聞いても? 昨夜どころの危険じゃないよ」
「家族どころか、この国まで危ういんじゃが」
「マジか」
「マジ卍」
「高校生に化けるんで勉強してきたんだろうが、もうそれちょっと古いよ」
そこで二時限目を告げるチャイムが鳴った。
「じゃ、学校が終わったらまた来るから」
「三人で一緒に帰るぞ」
二人はそう言い残すと、返事も聞かずに出て行った。
谷沢が飛びつくように寄ってきた。
「渡辺、お前あの二人と知り合いなのか」
「ああ、二人とも遠い親戚ってことがわかった。どっちも親の仕事でこちらへ来たらしい。同時に同じ高校に来たんでお互いびっくりしてたけど」
敦はとっさにごまかした。谷沢の目つきには、まだ疑わしげな色が残っていたが。
「すっげぇじゃん、あの女の子! モデルみたい。敦ってば、あんな親戚いんの?」
単純な海老沢は信じてくれたらしい。
「今日は一緒に帰って、うちの親とも懐かしい話をしようってさ」
「今度遊ぼうって言っといてくれよ。あんな子とカラオケ行きてえよ」
「うんうん、あたしも美人とパフェ食べ行きたい」
二人とも目なんてキラキラしていた。やっぱり美人の力はすごいな。正体は人の首でもスパスパ切っちゃう青鬼なんだけど。敦は心の中で呟いた。
「男の方はいいのか」
二人は急に真顔になった。
「あれはいい」
「こわい」
ひどいやつらだ。
その日の昼休み、敦は職員室を訪れて、剣道部の顧問に部活を休むことを告げた。しょせん公立高校のクラブ活動である。もとより全国大会を狙うような部活でも選手でもない。顧問も、敦が家の都合でと言うだけで、二つ返事で認めてくれた。
とはいうものの、敦の剣道歴は長い。幼稚園の時分から、祖母と母に無理矢理町の剣道教室に通わされた。才能がある方ではなかったが、おかげで中学生の間に二段を取った。祖母からは、渡辺家の男はいざというときのために刀が扱えなければだめだと言い聞かされてきたが、納得したことは一度もなかった。
放課後、敦が帰り支度をしていると、例の二人が敦のところにやってきた。
「敦く~ん、帰ろうよ~」
姫夜叉が妙になれなれしい様子ですり寄ってきた。座っている敦の首に腕を絡めてきた。心なしかクラスの男子連中の視線が一斉に冷たくなった。
「渡辺、帰るぞ」
轟天丸が横から敦の襟首をつかんで椅子から引き上げた。男子連中の視線が一斉に和らいだ。
「帰る帰る。とにかく離せ」
駅までの道すがら、敦は二人に尋ねた。
「それにしても、なぜ今になって現れたんだ。そして、なぜ学校にまで押しかけてくるんだ。そもそも、なんで人の格好になれるんだ。で、どうやって転校の手続きをごまかした」
疑問も質問も後から後からあふれてくる。
「話は千年前にさかのぼる」
轟天丸が野太い声で厳かに告げた。
「千年前? なんだそりゃ」
「黙って聞け。平安時代、一条天皇の御代じゃ」
「聞いたことあるでしょ。紫式部や安倍晴明の名前くらい」
そりゃ高校受験でも勉強したし、今だって古文や日本史ではなじみの時代だ。
そこで敦は気がついた。それは渡辺家の先祖と言われる渡辺綱が活躍した時代だ。
「その頃、我々鬼族と人間は、それなりにうまく共存していた」
「それはばあちゃんに聞いたことがある。昔の鬼は悪者ではなかったとか。けどさ、鬼なんて特級品の妖怪変化じゃないのか。でないと、鬼なんて名で呼ばれないだろう。人間を食ったり、桃太郎に退治されたり」
姫夜叉がすごい目でにらんできた。
「あ、いや、ごめん。続けて」
そこから、歩きながら、電車に乗りながら、途切れ途切れではあるが大雑把に話を聞いた。なんでも千年前に、人間が突然鬼を目の敵にして排除し始め、多くの血が流れるに至って、鬼は異世界に逃げ込んだらしい。そのときに殺戮を重ねて鬼を追い込んだのが、桃太郎だという話だった。そして、鬼をかばって桃太郎と戦ったのが、敦の先祖の渡辺綱ということだった。
敦が祖母に聞かされた話とは符合するが、現代の常識とはかけ離れていると言わざるを得ない。突っ込んで聞こうとしたところで、ちょうど敦の住むマンションの前に着いた。
玄関を開けると敦の母親が出てきた。転校生を二人ばかり連れて帰ると連絡してあったせいだ。敦が友だちを連れて帰ることなどめったにないので、珍しがっているのだろう。
玄関先で挨拶を終えると、母親が目を丸くした。
「姫ちゃん?」
「弓ちゃん!」
「なにそれ知り合い? なんで?」
母親は妙にはしゃぎはじめた。
「説明はあとあと。早く上がって上がって」
リビングのテーブルにお茶とお菓子を並べながら、母親が姫夜叉に話しかけた。
「なつかしいわねえ。四十年ぶりくらい?」
「そうそう、あのときはあたしも髪をおかっぱにしてたから。よくわかったね」
「そりゃわかるわよ。私だって渡辺の娘だもの」
兄の友人が来たというので、自分の部屋に引き上げようとしていた、妹の夏が足を止めた。
「え、なになに、お母さんを知ってるの? お姉さんが鬼の子?」
十四歳らしい屈託のなさで、ぶしつけに聞いた。
「そうよ。あたしの名前は姫夜叉っていうの。姫って呼んでね」
弓も付け足した。
「そうそう、小さい頃よく話してあげたよね。私たち、京都じゃよく遊んだのよ。川べりとか野原とかで」
リビングの話し声を聞きつけて、奥の和室から、祖母まで出てきた。
「これはこれは珍しいお客さんが来たな。敦の友だちと言うから誰かと思えば」
「あ、ハナさん」
轟天丸が腰を浮かせた。
「なんだなんだみんな知り合いか。母さんもばあちゃんも、そんな昔からこいつらを知ってんの?」
「そりゃ、渡辺の家だからの」
祖母のハナが微笑んだ。
轟天丸と姫夜叉は、これまでも何度か祖母と母親の前に現れたという。母の前には今の話の通り、姫夜叉が禿姿で出てきては、近所の子どもたちとよく遊んだらしい。祖母が幼い頃は、戦後の本当に物のない時代で、轟天丸がよく米や芋を大量に持ってきたという。
「そりゃ、渡辺のみなさんを飢えさせては鬼の名折れですから」ということらしい
轟天丸はソファの上で居ずまいを正した。
「桃太郎の封印が解けました」
ハナが息をのんだ。
「千年たったか」
「まさに。先月」
轟天丸と姫夜叉の物語は長く続いた。敦の理解はともかく、説明が一段落する頃には、日もとっぷりと暮れていた。
弓が立ち上がってエプロンの裾をはたいた。心なしか青ざめていたが、気持ちを切り替えることにしたのだろう。
「二人とも晩ご飯食べて行くわよね。今日は唐揚げをたくさん揚げたのよ。ご飯も炊いてあるから大丈夫。轟ちゃんは大食いそうだからちょっと心配だけど」
轟天丸が小さくなって答えた。
「いや、最近はあんまり食べないようにしてるんで。牛なら一度に一頭どまりです」
「三日で破産するわ」
すかさず夏が突っ込んで緊張のほぐれたところで、みんなでダイニングに移ろうと腰を上げた。
そこへ敦の父親が帰ってきた。渡辺均四十四歳、渡辺家の入り婿の、しがないサラリーマンである。源氏渡辺家では敦がそうであるように、祖先の綱以来、一字名が伝統になっている。均はもちろん偶然らしいが、弓に言わせるとそこもポイントだったらしい。
「なんだなんだ、今日は敦の友だちが来てるのか。しかも女の子まで。これは珍しいな」
均は、ネクタイをほどきながら二人にあいさつをした。姫夜叉の胸元に目がとまるのは仕方ないと、同じ男として敦は思った。
「でもね、均さん」
弓が硬い表情で夫に声をかけた。
「ん」
均はジャケットとネクタイをハンガーに掛けながら生返事をした。
「この二人は、赤鬼と青鬼。桃太郎の復活を告げに来たの。今度の危険は、産廃業者の比じゃないと思う」
均は天を仰いで嘆息した。轟天丸と姫夜叉をじっくりと眺める。
「おとぎ話じゃなかったのか」
もう一度深いため息をついて、手と顔を洗うために洗面所に消えた。
均も普段着に着替えて、みんなでダイニングテーブルを囲んだ。轟天丸だけは、高校生の姿でも場所をとるので、目の前に唐揚げと丼飯を並べてもらい、リビングのソファの方に座らされた
「桃太郎ってのはそんなに手強いのか」
均が一人でビールを飲みながら聞いた。姫夜叉が答える。
「千年前、手下とともにあれだけの鬼を殺したんですから」
「そんなものどうやって封印なんてできたんだ」
「それが綱様と道満様のおかげで」
よく知られる打出の小槌や隠れ蓑の他に、鬼の世界にも高い霊力を秘めた「三種の神器」があった。皇室に伝わると言われるものと同じく、剣と珠と鏡である。製鉄や鋳造の技術の伝播を考えると、むしろ皇室の護持するものが鬼から伝わった、あるいは鬼のものの写しであろうとも言われている。
鬼たちの説明によると、まず在野の天才陰陽師であった蘆屋道満が、源頼光とその四天王に桃太郎を倒す力を与えたという。そして、剣によって桃太郎を両断し、不死身の桃太郎を鏡の中に封じ込めたということだった。
「とはいうものの、今となっては、桃太郎が善玉の代表で、鬼は悪の権化ってことなんだからな。渡辺綱だって鬼退治で有名だし」
「それが藤原道長の狡猾なところです。鬼の財物と秘宝、狩猟漁労のネットワーク、はるかに進んだ工業技術、それらを奪い尽くして、権力の頂点に立つや歴史を書き換えました。私たち鬼を悪の象徴として、自らの野心を助けた桃太郎を善なる快男児として描くことで、自分の権力欲と収奪を正当化したのです」
「本当ならひどい話だが、藤原道長と言われても、歴史の授業で聞いただけの名前という印象しかないな」
均は唐揚げを口に放り込んだ。
「もう一つ聞いていいか。君たちはなんで敦のところに来たんだ。頼光はどうした。あっちも危ないだろう四天王の親玉なんだから」
姫夜叉は敦の方を見た。
「桃太郎を封印したのが綱様というのがひとつ。だから、復讐にはまず敦様のところに来るだろうと。もうひとつは桃太郎を倒した宝剣、髭切を持つのが敦様であるということ。桃太郎は髭切を奪うために必ずここへ来ます」
「そんな刀、うちにはないぞ」
「ここにお持ちしました」
姫夜叉は、スクールバッグから長尺の刀剣を取り出した。なんで普通の鞄にそんな長いものが入ってるのか、敦は深く考えないようにした。
「そんな物騒なものを持って来ないでくれるか。それがあるから桃太郎が来るんだろ」
「しかし、髭切は綱様のもので、この刀を扱えるのは敦様だけですから」
ハナが割って入った。
「ありがたいことじゃないか敦。その刀を手に取ってみよ」
敦は姫夜叉から刀を受け取った。ずっしりと重い。
「抜けるか」
祖母に言われて、敦は左の腰に刀を据えた。剣道部だとはいえ、居合いを学んでいるわけではないので、真剣を抜いたことなどない。時代劇を思い出しての見よう見まねだ。
左手の親指で鯉口を切って、右手でそろそろと刀身を引き出した。左手の鞘を置いて、白銀色に輝く真剣を両手で構えてみた。
敦の髪の毛がぞわりと逆立った。鋼の刀身が光を放つように見えた。敦の手から刀の重みが消えた。竹刀どころか物差しほどの重みしか感じない。これならどんな操法でも可能だ。
敦は左手で鞘を拾い上げた。と同時に、鍔鳴りの音を残して髭切は鞘に納まっていた
「さすが敦様」
姫夜叉の目にはうっとりとした表情が浮かんでいた。敦は今何が起こったのか、むしろ髭切に操られたのは自分ではないのかと、狐につままれたような気分で、姫夜叉を見返した。
「でもお母さん、どうして私やお祖父さんじゃなくて、敦なんですか」
「それが千年目の因果じゃろう。封印が解けてすべてが動き出したのじゃよ」
姫夜叉がうなずいた。
「だから、私たちが遣わされました。命に代えても皆様をお守りします」
「そりゃありがたいが、どうやって守ってくれるんだろう。この家に住み込んでもらうわけにもいかないし」
均がのんきな声で聞いた。姫夜叉が答えた。
「鬼の里は異界にあります。私たちは鬼の里を通じて、こちらの世界のどこにでも現れることができます。とくに、今回は四天王のみなさんをお守りするために、鬼の里を挙げて警戒しています。ですから、みなさんの身に危険があれば、私たちがいつでも駆けつけます」
「それは心強いな」
均はあからさまに半信半疑の表情で言った
第一話 (本ページ)
第二話 紅蓮の炎、群青の月 第二話
第三話 紅蓮の炎、群青の月 第三話
第四話 紅蓮の炎、群青の月 第四話
第五話 紅蓮の炎、群青の月 第五話
最終話 紅蓮の炎、群青の月 最終話
よろしければサポートをお願いいたします。いただいたサポートは、創作活動の大きな励みになります。大切に使わせていただきます。