しろなすび
あらすじ
文房具商社の課長である沢田は最近妻を亡くしたが、それ以来、身の回りに真っ白な茄子のような生き物が現れるようになる。その生き物は神と名乗り、どこにでも現れて沢田に話しかけてきた。
ある日、沢田のもとへ佐々木という課長補佐が転勤してくる。傲岸不遜で上司を上司とも思わない佐々木は、沢田を軽んじて会社の仕事を引っ掻き回すが、暴力事件に巻き込まれて残酷な死を遂げる。白茄子は自分が殺してやったという。
他にも不思議なことが起きるが、ある夜、白茄子のヒントで妻とのやり取りを思い出して、白茄子の正体に気がつくのだった。
夕暮れ時である。私は土手沿いの道を歩いていた。右に高い土手があり、はるか後ろからずっと前方にまで続いている。川の土手ではないらしく、見上げると架線がかかっている。土手の上は線路になっているらしい。ずいぶんと長く歩いた気がするが、一向に電車の音は聞こえない。踏切も見かけなかった。左手にはどれも同じような二階建ての建売住宅がずらりと並んでいた。
土手の方は仕方ないとして、長く続く家の間にも脇道がない。自分の家でもなければ見分けのつかないような瓦屋根の家が隙間なく並んでいる。私は、雑草の茂った長い土手と隙間なく並んだ貧乏くさい建売住宅の間の道をずっと歩かされていた。
そのうちにとうとう日が暮れた。土手の側にはかなり間隔をあけて、ぽつりぽつりと外灯がある。まことに心細い。その分を補うように、門灯をつけた家がとぎれとぎれにあって、足元が危ういようなことはなかった。
土手の上を電車が通る気配はない。廃線なのだろうか。それどころか、今歩いている道を通る車すらないことに気がついた。これだけの家があるなら車で帰って来る者も住んでいように。現に家々の車庫にはそれなりの国産車が停まっていたりいなかったりするではないか。もちろん、住民どころか歩いている人の姿も見かけなかった。
しかし、私はどこに向かって歩いているのだろう。安っぽい住宅と高い土手に挟まれた細長い夜道を延々と歩きながら、私は夢を見ているような気がしてきた。その証拠に、突然土手の下に蕎麦屋の屋台が現れた。そんなもの、時代劇でしか見たことがない。
それでも、少々歩き疲れたのもあったし、小腹も空いていたので、ものめずらしいのもあって、のれんをくぐってみた。
そこで目が覚めた。やはり夢だった。私はいくぶん安心して、トイレに立った。時計は3時半を指していた。小用をすませて再び寝床にもぐりこんだ。蕎麦屋の夢は見なかった。
妻を亡くしてから、おかしな夢を見ることが多くなった。駅前の交差点で信号待ちをしながら道路の下を鮫が悠々と泳いでいるのを眺めていたり、乗った電車の客が全員助六だったりしたこともある。仕事の得意先へ営業に出かけると、社員がスーツを着た狸だったり狐だったりしたこともある。それでも一番多いのは、先のようなさびしい道を一人で歩いている夢だ。海沿いであったり山沿いであったり、シャッター通りの古びた商店街であったり、無人の道をとぼとぼ歩く夢が多い。やはりどこかに孤独が影を落としているのだろうか。
消えない夢まである。夢と言っていいのだろうか。幻覚というほうが正しい気がする。妻の四十九日を終えたあたりから、視界の隅に白いものが見えるようになった。ふと首を巡らせた折など、箪笥の隅をつと回り込む白い影が見えたりする。顔を上げた拍子には、長押のすき間にもぐりこむ白いものが見えたりもする。ネズミならもっとがさごそ音もするだろうし、気のせいのような気もしてしばらくそのままにしておいた。
眼科を訪ねたのはもっと後になってからだった。いろいろ検査もしてくれたが、特に異常は見られないとのことだった。
「眼圧も視野も問題なさそうですし、眼底の様子も分泌液の循環も正常です。おそらく、飛蚊症の一種でしょう。五十を過ぎた方には珍しいものではありません。もしその白いものが急に増えるようなら、あらためておこしください」
飛蚊症なら知っている。それよりももっとリアルな、視界の隅を二十日鼠が横切るような感じなんです、と言ってはみたものの、見え方感じ方は人それぞれですからと取り合ってもらえなかった。目薬の処方さえないまま帰らされた。
その週末、風呂に入るのも億劫で、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出して、ダイニングテーブルに置いて座った。
うちには仏壇がない。そのうち小さなのを買おうとは思っている。それで奥の和室の隅に棚をしつらえて、妻の位牌と遺影を置いてある。墓を建てて妻の遺骨は納めたが、うちの宗旨の本山にも分骨しようと、別に小さな骨壺を用意して写真の脇に置いてある。それも延び延びになってしまっているのだが。
「順子」
死んだ妻の名をつぶやいた。缶ビールを口に含んだ。こうして缶のままビールを飲んでいると、順子は必ずグラスを持ってきた。家ではコップを使ってくださいと言って。
視界の隅で、床のあたりを白いものが横切った。またいつものあれかと思ったが、やはり気になってテーブルの下をのぞき込んでみた。すると、テーブルの脚の陰に隠れようとしたそいつが転んだ。ここまで近くで見るのは初めてだった。つまずくくらいだから実体があるのかと思って手を伸ばしたが、意外とすばしっこい。足元に来たので、蹴飛ばすとたしかに手ごたえがあった。
でちっ、という音を立てて流し台の扉にぶつかって床に伸びた。拾い上げてまじまじを見ると、形は小ぶりな茄子そのものだった。頭髪なのか本当にへたなのか、すべすべした下ぶくれの胴体の天辺にへたのようなものを乗せている。そこに先端がつるりと丸い、うどんのような手足がついている。そして色はやはり真っ白だった。ふわふわと柔らかく、ぼってりと持ち重りのする感じは、茄子というより大福のようだ。
へたの下あたりに複雑にしわが寄っていて、それが顔のようにも見える。気がついたのか、指のない棒のような手足をうねうねと動かしながらのたうつ純白の茄子はやはり気持ちのよいものではない。
「イテーダロコノクソガキ、ハナセバカ」
しゃべった。私は驚いて取り落としそうになった。鳴き声ではない。たしかに日本語だ。
「なんなんだお前は」
「ウッサイ、ボケ」
「口が悪いんだな」
「ハナセツッテルダロウガ」
私はつまんでぶら下げているのも悪い気がして、テーブルの上に置いた。逃げたら逃げたときだ。
見れば見るほど茄子そのままの形と大きさをしていた。真っ白ではあったが、へたの部分もそのままで、下ぶくれの本体がついている。茄子と異なるのは色のほかに手足のあることだった。茄子に手足をつけるならそのあたり、としか言いようがないとろに、白いうどんのような手足がついていた。
なぜそれが手足だとわかったかというと、白い茄子はダイニングテーブルの上で直立して、とことこ歩いたからだ。そして、私の方に向かって腕を組んで胡坐をかいて座った。
「ハーア、ビックリシタナコリャ」
「驚いたのはこっちだ。なんだお前は」
「カミサマダヨ」
「そんな格好の神様なんて見たことも聞いたこともないぞ。茄子の化け物か何かか」
「ダカラカミサマダッテイッテンダロウガ」
「その神様が、なんでこのごろうろちょろしている」
「ハーア。ワカンネエンナライイヤ」
「わかるもんか。神様だというなら、ご利益くらいないのか。宝くじ当ててくれるとか」
私はぶっきらぼうに言った。
「カネガホシイノカ」
「ああほしいね。いつもほしい」
私は缶ビールを飲みほした。もう一本のプルタブを開ける。何もかもどうでもよくなっていた。私は腕を伸ばして、デコピンのように白茄子を指ではじいた。
「イテッ」
白茄子はテーブルから転げ落ちた。と思ったら目の前にいた。
「イテーダロガ」
「痛いのか」
「オボエテロ」
白茄子は姿を消した。
「忘れるよ」
私は天井に向かって言った。
それが私と白茄子との出会いだった。出会いというのも妙な気がするが、それ以来、白茄子はところかまわず現れるようになった。地下鉄の網棚に鞄を乗せようとすると、縁に座ってこっちを向いていたりする。職場についてノートパソコンを開くと、キーボードの上で胡坐をかいている。幻覚だと頭ではわかっていても、払いのけたりつかんだりするたびに感じる、柔らかくて持ち重りのする感触は現実のものとしか思えなかった。
白茄子には目がない。顔にも見えるしわの間にあるのかもしれないがそれはわからない。口はある。ちょうど上から三分の一くらいのところに真一文字に横線が一本刻まれている。しゃべるときにはそこがぱくぱく動く。口の中は赤かった。表面が真っ白なだけに、よけいに強烈な赤として目に入った。
駅を出て会社に向かう間も、もちろんついてくる。ちょこまかと足元にまとわりついては姿を消し、ふと前を見ると遠くの歩道の真ん中で、〝シェー〟をしていたりする。
職場に着くと、机の上に三匹いた。つぶれでもしないかと、その上に鞄を投げ出してみた。
「うわ課長、なに荒れてんすか」
白茄子たちはつぶれるわけもなく、鞄を突き抜けて穴から這い出すように姿を現した。
三匹の白茄子は、鞄を乗りこえて、仲良く手をつないで机の隅に移動した。積み上げた書類に腰を下ろして、顔を見合わせている。
うちの会社ではオフィス用品を主に扱っている。文房具類からパソコン、事務机や書類ロッカー、パーテーションの類から新規のオフィスデザインまで、手広く扱う商社としては中堅どころだと思う。首都圏を中心にいくつかの営業所を構えている。
町の文房具屋へ商品を納める問屋のようなこともしているがそれは別の部署だ。私の課では、主に企業や自治体相手に、多くの事務用品やオフィス家具を納める仕事をしている。入札案件になると一度の仕事での儲けは大きいが、細かい仕事で日々顔をつないでいないといけないし、法人相手だとわがままな注文も多いので気は抜けない。
ゴールデンウィークを目前にして、私はダイニングテーブルに寝っ転がった白茄子と向き合っていた。
「本当に神様なのか」
「ソウイッテルダロウガ」
肘枕をして横になってる真っ白い茄子に、神様だと言われても信じようがない。むしろ茄子の妖精だの、座敷童の眷属だのと言ってもらった方がありがたい。
「縁起とか由来とかないのか。天照大神の遠い親戚だとかなんとか。それかこう、本体は出雲あたりのなんとか神社に祀られてるとか」
「ネーヨ、ソンナノ。コチトラモットフルインダ。バチアテルゾ」
いにしえの古き神々ってやつか。クトゥルー神話じみてきたな。
「罰は困るな。ご利益の方にしてくれ。なんかないのか」
「ナンデモイイゼ。アンザントカドウダ。オトコガウムトヒョウバンニナルゼ」
「それはごめんだな。じゃあ、少し金持ちにしてもらおうかな」
白茄子は肘枕をしたまま、ごろりと向こうを向いた。
「ナンダツマンネエ。スキニスレバイイ。バケンデモカエ」
そんなやり取りを思い出して、週末の場外馬券売場まで来た。
土曜日で重賞レースもないはずなのに、フロアはむさ苦しい中高年の男でごった返していた。みんなカーキ色か茶色の似たようなジャンパーを着て、ハンチングか野球帽をかぶっていた。あとはゴルフ帰りかと思うような趣味の悪いポロシャツを着た中年の男たちだ。平日は毎日スーツとネクタイで過ごしているせいで、休日の服装が想像できないタイプだと見た。若い男やカップルも意外と多かった。
モニターに映るオッズ表を見ながら、ものは試しと本命馬を中心に馬連を数枚買った。これは問題なく一つが当たった。五千円買って二千円ばかり浮いた。それだけではご利益かどうかもわからないので、次のレースでは中の下くらいの人気馬を三頭選んで、一万円で三連単を一枚買った。スマホを開いてJRAのサイトで確かめると、オッズは四万くらいになっていた。当たれば四百万だ。
そして的中した。
「ホラミロ、コレデシンジルキニナッタカ」
肩の上に白茄子が乗っていた。
「すごいな。ありがたくもらっとくよ」
半信半疑のまま答えた。
払い戻しはもちろん機械ではなく、高額当選者用の受付で現金を受け取った。
次は十万円ほどつぎ込んでみようかと思ったが、どこか怖い気がして帰ることにした。無駄に欲をかいてはろくなことがないのは、昔話でも怪談でもいやというほど見てきた。
五月の連休明けのその日、新しい課長補佐がやって来ると聞かされていた。なんでも本社の肝いりらしく、本社から直々に送り込まれるらしい。連休前の所長の鼻息は荒かった、仕事が抜群にできること、広い人脈を持っていること、当面営業一課(うちの課だ)の課長補佐で入ってもらうことなど、これからうちのエースになる人間だと皆の前で滔々とまくし立てた。
朝一番で総務課の女性スタッフに案内されてきた課長補佐は、佐々木と名乗った。型通りの自己紹介をしたあと、自分の席となった机の上にブリーフケースを投げ出すように置いた。斜め前の席に座る私をねめつけるように見ると、
「あなたが課長さんですか」と、いきなり深いため息をついた。「ちゃんと仕事をしてくださいね。私の上司なんですから」
なんだこいついきなり。向かいの席の奥田係長も目を丸くしていた。
うちの課で持っていたいくつかの案件を、新しい課長補佐に任せることにしていた。係長にファイルを持ってこさせて、奥の会議室でひと通り引き継いだ。こちらが丁寧に説明しているのに、ずっと仏頂面でろくに返事もせず、「それ私の仕事なんですか」というセリフだけを何度も聞かされた。
周辺の知り合いからおいおい聞いたところでは、営業所への異動というところからそもそも気に入らなかったらしい。しかも本社でも課長補佐だっただけに、課長で行けると思っていたところに変わらず課長補佐だ。エリートだという自負がある分、腹に据えかねたのはわからなくもない。そこからがボタンの掛け違いというかなんというか、自分の優秀さを鼻にかけつつ、私に憎悪を向けることになったようだ。
白茄子は別にしても、やっぱり妙な夢を見る。昨晩は、風呂から上がってテレビの前でビールを飲んでいると、トイレから浴衣一枚の大男が出てきて驚いた。上野の西郷隆盛像のような風貌で、首をすくめても天井に後頭部が当たっていた。それがテーブルをはさんで向かい側にどすんと座った。
椅子に座っても大男の後頭部は天井に当たっている。座ったはずなのにおかしなことだ。
大男は私に向かって、テーブルに伏せてあったコップをつかんで突き出した。手もコップも普通の人の大きさに見えたので、私は瓶のビールを注いでやった。大男はコップのビールを一気に飲み干したが、天井近くの顔のところまで持ち上げられた腕は丸太のようで、小さなコップが大ジョッキのようになっていた。
「どぶの泥はくさいですな」
大男は不意に声を出した。太くもなく細くもなく大男らしい声だった。どぶ川の大ナマズか何かが変じたものかも知れない。
「その大きな浴衣はあつらえものですか」
私は自分と相手のコップにビール注ぎながら聞いた。
「あはは。女房がね、縫物が得意なもので。普段着くらいなら」
大男はどんどん大きくなっていく。すでに鎖骨のあたりまで天井に吸い込まれている。足はとみれば膝より下は床に潜ったようになっている。
「なるほど、やはり器用な奥さんがいるとよいものですな」
大男は幅も大きくなってきたのでだんだんと窮屈に感じられてきた。上はすでに胸まで天井に埋まり、突き出した腹はテーブルを飲み込んで、どんどん私の方に迫ってくる。
大男の腹部が部屋いっぱいに充満して私が部屋の隅に押し込められたところで目が覚めた。
これでベッドから落ちて壁に挟まれて動けなくなっていたというのなら、話のオチにもなるのだが、そんなことも当然なく、壁の時計は5時を指していた。
私は仕方なくもそもそと起き出して、顔を洗ってトーストを焼いた。
昔から付き合いのある文殊精機という機械メーカーが、創業百周年のイベントをするにあたってうちに相談したいというので、係長の奥田を連れて出かけた。長い付き合いの会社なので、佐々木の顔見せも兼ねて連れて行こうとしたら、「課長が行くんなら、奥田でいいじゃないですか。自分も忙しいんすよ」と断られたのだ。「じゃあ、今やってるキドテックスさんや山克商事さんの件、課長面倒見てくれるんですか。自分で仕事できないくせに余計な手間かけさせないでくださいよ」とまで言われた。
文殊精機は大口の得意先で、昔からよくしてもらっていた。いつもなら練馬の本社へ行くのだが、今回は八王子の端っこの工場へ呼ばれた。どうやらそこが創業の地らしい。山奥の工場からはじまったそうだが、周囲の土地を買い足して、今や広々とした工場地帯になっている。周囲の自然に溶け込むように、芝生広場と灌木で公園のように整備されていた。国道から脇道を上がって行くと一番最初に目に入る管理棟は、遠目には丘陵地の上に立つリゾートホテルのようにも見えた。よく晴れていれば絵葉書のような風景にも見えたのだろうが、その日はあいにく鉛色の雲が低く垂れこめて、昼を過ぎたばかりなのに夕方のように暗かった。
「課長も大変ですねえ。なんなんすかあの課長補佐」
奥田はハンドルを握りながら、ルームミラー越しに後部座席の私に話しかけた。
「まあな。でも、俺とお前くらいだろ、当たりが無茶苦茶なのは」
「なめてんじゃないすか、我々を。他の部下には猫なで声で」
なぜ奥田まで目の敵にするのかは私にもわからなかった。他の同僚には手取り足取り親切この上なく、仕事のアドバイスや資料作りの手伝いまでしてやるのに。職位は下でも、営業一課では私よりはるかにベテランの奥田係長が煙たいのかもしれない。仕事には自分が一番詳しくなければ気がすまないようだから。
「気にしたら負けだ。所長の話の通り、少なくともあいつが仕事ができるのは確かだ。なんとかとハサミは使いようだよ。こっちが少し合わせてやれば、営業一課全体の成績が上がるんだから、課長としてはあれでいい。お前も気にすんな。仕事はできるだけ重ならないようにしてやる」
「でも課長」
そこへ大粒の雨が降り出した。突然の土砂降りもいところで、アスファルトの道路が雨粒の跳ね返る飛沫で真っ白に見えた。車の屋根にあたる雨の音で会話もままならなくなった。
丘陵地の奥に向かって広がる工場群は、広大な敷地に幾棟ものプレハブや燃料や資材のタンク、大きなタワーを並べ、さながらそれだけで一つの工業地帯のようだった。
門衛に入構証をもらって、教えられたとおりにそのまま車で東B-2棟へ向かった。広々とした駐車場に車を停めると、傘を広げて小走りで建物に駆け込んだ。雨はいよいよ激しく、傘をさしていてもあっという間にずぶ濡れになった。ハンカチで手足の水滴を払って入口の受付で入館証を受け取ると、作業着姿の社員が現れた。いきなり会長室に案内してくれるらしい。
何枚かのドアをくぐって工場フロアに入った。たくさんの工作機械が並んだフロアは、向こう側がかすむくらいの広さがあった。何本ものラインを囲んで、無数の産業用ロボットがアームを動かし、流れるライン上で何かを作っていた。人間の労働者もラインごとに配置されているはずだったが、人影はまばらにしか見えなかった。
そのまま工場の中を通って、緑色の床の上を片隅のエレベーターまで案内された。エレベーターはいかにも工場らしく、上下する鉄板の床に手すりとリモコンだけがついた荷物運搬用のものに見えたが、会長室専用とのことだった。会長室は工場の中二階というか天井近くにあった。
中に入ると広々とした応接室のようだった。壁一面は全部ガラス張りになっており、眼下の広大な工場を一望できるようになっていた。豪華な調度といい、一流競馬場の貴賓室を思わせた。
文殊精機の会長は、現社長の父親である。八十四歳という高齢を理由に月に一度の取締役会以外では本社に現れないという。もともと文殊精機を大きくした立役者の技術者であり、八王子工場で最も大きな工場棟に、このとおりライン全体を見渡せるような会長室を設えて、普段はここに出勤しているとのことだった。
私と奥田は、製造担当役員の岩木と工場長の林にはさまれて、会長が来るのを待っていた。会長と話をするとなると、おおむね業務内容が固まってからうちの社長や役員が出張るものだと思うのだが、延山会長は叩き上げらしく、そのあたりにこだわりはないタイプなのだろう。
奥田と二人で壁を背にして立ったまま縮こまっていると、奥のドアから会長が現れた。小太りで見事な禿頭、真っ白な眉毛がふさふさとしている。肌の色つやといい、到底八十四歳には見えなかった。
「やあやあ大澤さん、ようこそようこそ」
あわてて最敬礼する我々を両手で制しながら、大きな声で話し始めた。
「おたくの会社とは先代の社長さんからの付き合いでな、この工場のファイルやボールペンなんかも、みんなあんたのとこから買わせてもらってるはずだ」
「はいそれはもうお世話になっております。先だっても、本社様のオフィス什器などを納めさせていただきました」
会長は、他業種にも手を広げて成功している本社より、やはりこの工場に愛着があるらしい。いろんなものを作っているし、注文次第で何でも作るし、大量でも少量でもメーカーのいう通りのものを作るのがわしらの誇りだからと会長は言ったが、直接消費者の目に触れないものであることというのが唯一の条件だということだ。だからOEMさえやらないらしい。わしらは部品や資材をメーカーに作ってやる、ネジ一本からロケットエンジンまで作れんものはないよと誇らしげに言った。いま現在だけでも、製品は何万種にもおよぶらしい。全体像は誰も把握しとらんのじゃないかと、会長と工場長が声を合わせて笑った。
「あっちのほうは自動車の何かで、このあたりは洗濯機の何かだったかな。それで向こうのほうは事務用やなんとかチェアという椅子の部品を何種類かいっぺんに作っている。オフィス用のやつは、そのうちお宅のところへも回るんじゃないかな」
「それで、わしのじいさんが町工場から始めたこの会社もとうとう百年になるっちゅうことでな、これは一発、百周年事業を派手にやりたいと思うたわけだ。社長の浩一郎にも好きなようにやっていいとお墨付きをもらったとこじゃ。いい冥途の土産になるしな。」
そう言って会長は楽しそうに笑った。
「それがよ、この岩木や本社の広報担当を通じて、広告代理店やイベント屋に当たってもらったんだが、どうにもこうにもしょぼい企画に億超えの見積もりを吹っかけてきやがって、頭に来たからお宅に声をかけたんじゃ。不慣れな仕事だとは思うが知恵を絞ってくれんか。こみこみで1億以内に収めてくれればいい」
これには驚いた。文具メーカーや教材業者のレセプションや商品説明会の手伝いなら何度か経験はあるが、そんな大きなイベントを任されるとは思わなかった。百周年事業の話だというので、てっきりネーム入りのノベルティか何かの相談だと思っていたのだ。
そのあとは岩木常務が引き取って、周年事業の概略を説明してくれた。式典の来賓には関係各社の社長や役員、市長や地元の議員などを招いてセレモニーはきちんとやりたいこと、社員と家族を含めて千人くらいは呼びたいこと、工場内の敷地も建物も存分に使っていいこと、できれば芸能人や有名人を呼んで派手で楽しいものにしたいことなどなどである。広告代理店が持ってきたという「しょぼい」企画書のコピーまでくれた。
オフィス用品の納入がメインの営業所には荷が重い気もしたが、文殊精機の厚意を無下にもできない。それに、名入りボールペン千本とは利益が二桁も三桁も違う。深くお礼を重ねて、前向きに検討いたしますと持ち帰ることにした。営業所長に相談して、本社広報部の伝手や営業所あげての人手を借りれば何とかなるに違いない。
話を終えて外に出ると、雨の勢いは一向におさまっていなかった。もう少し小降りになるまで待てばいいという副工場長の親切な言葉に頭を下げながら、私たちは営業車に駆け込んだ。
「にしても、面白い話になりましたね。芸能人呼んでもいいって」
「まあ、額が額だからな。トップクラスの芸能人をたくさん呼ぶのは無理だろうが、それなりのショーや有名人の講演くらいはありかもな」
私たちは、叩きつけるような雨風の中を、大声で話しながら車で山道を下った。時間も夕方に近くなり、あたりはどんどん暗くなる一方だった。狭い道を車で走りながら、あまりにうまい話に狐につままれたような気がしてきた。
「なんだかうまく乗せられてないか、俺ら」ふとつぶやいた。
「代理店に頼んだら吹っ掛けられたから、お鉢が回って来たんでしょ」
「そう言ってはいたけどさ。まあ、所長や本社を説得してからになるが、企画書がんばってみよう。とりあえずアイデアだけでもいくつか出してみてくれ」
「マジすか。太田や竹内さんに手伝ってもらっていいですか。実際に動き出したら、二課や総務の応援は、課長頼んでくださいよ」
「ああ、それは任せろ。本社にも応援は頼むさ。ともかく文殊さんが喜ぶような企画を頼む」
私たちは大雨の中本社に戻った。
濡れた上着の雨粒を払って更衣ロッカーに押し込み、机に戻ってパソコンを開くと白茄子がいた。だまって手の甲で払いのけて、電源を入れた。佐々木からメールが届いていた。
「浮かれて八王子まで出かけるのも結構ですが、その他の課内の業務については、きちんと指示をいただきたい。太田君が杉並区の件で右往左往してました。私が手を貸してそこそこの見積もりを上げましたが、課長ならもう少し仕事してもらえませんか。 佐々木」
当の課長補佐は目の前に座って、無表情にパソコンを見つめている。私も黙って返信してみた。
「それは手を煩わせた。区役所の件は、向こうの担当と太田とでやり取りが進んでたんで、目が行き届かなかったようだ」
送信ボタンを押すと、数秒で佐々木の大仰な舌打ちが聞こえた。
「あーあ、やってらんねえな。これじゃ部下も苦労するわ」
鞄と上着をもって立ち上がった。あいさつどころかこちらを見もせずに出て行った。ホワイトボードには「キドテックス、直帰」とだけ書いてあった。
席に戻っていた奥田係長がおびえたような目で肩をすくめた。
定時を過ぎたところで、帰る前に総務課に顔を出した。制服姿の女性社員が席を立って、弾むように寄って来た。麻野という名だったと思う。しばしば庶務関係のメールを社内に流して来るので名は覚えている。本社の総務課から今年うちへ異動してきたばかりだったはずだ。
「あ、沢田課長、お元気ですか。何かご用事でも」
お元気ですかはないだろう。毎日どこかですれ違っているのに。
「うん、総務課長に相談があってね」
「でも課長は昼から所長のお付きで出張ですね。今日は戻らないですよ」
「じゃ、明日でいいや」
と言い残して帰ろうとしたら、麻野さんが声をかけてきた。
「課長ももう帰るんですか」
私が鞄を持っていることに気がついたらしい。
「じゃ私も帰ります。下までご一緒していいですか」
もちろん断る理由はない。何か相談があるのだろう。飯でもと言わないところを見ると、大したことでもないらしい。上着のポケットから白茄子が顔を出した。
「ナニヲキタイシテルンダ、コノドスケベ」
私は右手でそいつをポケットに押し込んだ。他人には見えも聞こえもしていないことはわかっているが、念のためだ。
麻野さんは制服を私服に着替えて現れた。ごく普通のブラウスとスカート、そしてローヒール。額に入れて飾りたいくらいのOLスタイルだ。
二人で、というよりほかの四、五人とエレベーターに乗った。二十六階から一階まで特に言葉は交わさなかった。多くの会社が入るオフィスビルでもあり、情報漏洩の可能性があるのでエレベーター内での私語は禁止されている。とはいえ、全員で口をへの字に結んで階数表示を見つめているのもおかしな絵面だ。
会社の建物を出ると、雨はすでにやんでいた。並んで歩く麻野さんに声をかけた。
「何か相談があったんじゃなかったの」
「相談じゃなくて、話を聞きたかったんですよ。私、人事も担当してるんで。それでなんですけど、今度の課長補佐どうですか」
単刀直入に来た。総務課の耳に何か入ったのかもしれない。
「駅に着くまでに答えられるレベルで答えよう。仕事は大変よくできる。業務の知識も豊富だ。部下の面倒見もいい。資料を作らせると要を得て簡明、研修の講師にしたいくらいだ。そして、私となぜか奥田を憎んでいる。きっと課長でなければ自分に対する評価として満足できないんだろう。性格は狷介不羈で傲岸不遜。自分の優秀さアピールに余念がない。会社の仕事をしたいのか、自分の優秀さを誇示したいのかわからなくなることがある」
相手が水を向けてきたとはいえ、自分の部下をつかまえて少し言い過ぎたかもしれない。でも、麻野さんは人事担当でもある。黙って聞いてうなずいた。
「総務課長も近いことを言ってました。トキワ文具の件では、大宮の倉庫や浦和営業所とももめてるそうですね」
「え、いや、それは聞いてない」
「そうなんですか? 必ずしも佐々木さんが間違ってるわけではないらしいんですけど、どちらも担当の係長が、上司でもないのに上から目線でさんざんに言われて、えらく腹を立てているとか。総務課長は浦和から来た人ですから、人づてに聞いたみたいで」
あー、これはじきに私にまで話が回ってきて尻拭いさせられるやつだ。
「付け加えると、報連相はなってない。うちの課のスタッフを使って好き勝手に仕事をしているが、事前の断りもなければ事後の報告もない。私なんて眼中にないというアピールなんだと思うが、課長との情報共有を拒むというのは、組織としては問題が多い。たまに注意はするんだがね、私がなんか言うと、なぜか感情的になるんだ」
麻野さんは私の横を足早に歩きながら、話を聞いていた。
「佐々木さんがねえ」とため息をついた。
「もともとは営業所長が、本社の山井部長に勧められたんですよ、君のところで育ててやってくれとかなんとか。本社での営業成績は抜群だったんで、泥臭い仕事の多い支社の管理職を経験させたいって。それで所長も何度か本人と話をしたうえで、大いに気に入って引き受けることにしたらしいんですけど、人柄までは見抜けなかったんですかねえ」
「まあ、外面っていうか、人当たりはいいからね。私と奥田係長に対するときを除いて。所長も、三課あたりの課長で引き受ければよかったんだよ。そうすれば、あいつもここまで拗らせなかったろうに」
麻野さんが顔を上げて、私の顔をのぞきこんできた。
「話は変わりますけど、課長、今は食事ってどうしてらっしゃるんですか。自炊とかですか」
話題が変わりすぎだろう。妻を亡くして間もないことは、社内では皆が知るところなので、人事担当ならそこまで不自然な質問ではないが。
「そのへんは器用な方でね、家内がいたころから料理はよくやってた。今夜は鯵の南蛮漬けを作ってあるので、それで晩酌でもしながら一人でナイターでも見ようと思っている」
野暮なのは承知だ。いますぐ電話して予約の取れるワインのうまいレストランくらい、二軒や三軒は知っている。それでも今はいろいろと面倒くさい。
「あ、すごいすごい。今度ごちそうしてくださいよ。総務課から若い子も連れて行きますから」
駅に着いた。本当はもう少し佐々木の話を聞きたかったが、路線も方角も違うので、麻野さんとは小さく手を上げて別れた。
家に帰って雨で湿ったスーツをハンガーにかけると、すぐシャワーを浴びた。八王子の埃と佐々木の嫌味を洗い流して、パンツとTシャツ姿になって飯を食うことにした。
テーブルに鯵と少しの野菜と納豆を出して、グラスに缶ビールを注いだ。
グラスを持ち上げて一気にあおった。ビールは最初の一杯に限る。このうまさは何物にも代えがたい。一息に飲み干して、もう一杯注ごうとしたところに白茄子がいた。
「ヤセガマンシヤガッテヨ」
「そんなんじゃない。でも麻野さんって美人なんだな。いつも見てるのに今日初めて気がついた」
「アワヨクバッテメデミタカラジャネーノカ」
「だから、もういいんだそんなのは。順子の見てる前でおかしな話をするな」
私は首を巡らせてテーブルに置いた順子の小さな写真を見た。肩をすくめて見せた。
「それより、何が目的でいちいち出てくるんだ。お前なのかお前たちなのかよくわからないが」
「キイテイイカ。ジュンコッテノガオクサンノナマエナノカ」
「ああそうだよ。言ってるじゃないか」
「ジュンコハドンナオンナダッタ」
「そんなこと聞いてどうするんだ」
「イイオンナダッタカ」
「ああ、いい女だったし、いい妻だった。よく働いた。いつも明るかった。ちょっと口うるさかったけどな」
私は死んだ妻のことを思い出した。思い出したというのもおかしいかも知れない。毎日考えない日などないのだから。
私と順子は職場結婚だった。今の会社で一般職だった順子と結婚することを、会社で話したときは、みんな狙ってたのにうまいことやりやがってと、ずいぶんからかわれたものだ。
順子は結婚を機に仕事を辞めたが、そのうちスーパーの仕事を見つけてきた。経理と庶務の腕を買われて、レジではなく内勤のパートだったが正社員よりよく働いた。
「ドコガヨカッタ」
「どこがって何を聞いてるんだ」
まずスタイルがよかったな。死ぬまで美人だったし、若いころは駅前の雑踏にいても、遠目からでもいい女だとわかったよ。
「ダイタカ」
「抱くよそりゃ、夫婦なのに」
私は手を伸ばして白茄子をつかんだ。形も大きさも茄子ぐらいだが、持ち上げるとぐんにゃりとしている。表面はさらさらしているがしっとりとした感じで、やっぱり大福のようだ。
「ヤメロヤメロ」
死ぬのかな。ぎゅっと握ってみた。つぶれて体液とかで手が汚れるいやだなと思ったが、そのまま力を入れた。白茄子は悲鳴を上げず変な声も出さず、ぽふっとした感触とともに消えた。うっすらと煙が上がったように思ったがきっと錯覚だ。まさに、ぽふっと消えた。
そして目の前にいた。
「イイカゲンニシロヨコンチクショウ。カミサマニムカッテ」
「なるほど。潰れたり死んだりしないのか」
「タリメーダ、バーロ」
白茄子は姿を消した。私は炊飯ジャーに残った白飯を茶碗によそって食事を終えた。
いつもの駅で地下鉄を下りたら、改札口から出口へ向かう階段が下に向かって続いていた。外へ出ないといけないのに妙な気がしたが、「6番出口」という表示はいつも通りなので、私は階段を下りはじめた。どんどん薄暗くなってきたが、階段はどこまでも続いていた。いつの間にか周りを歩いていたサラリーマンやOLの姿も消えて、私は一人で薄暗い階段を下っていた。長い階段には踊り場も折り返しもなく、はるか深くまでまっすぐ続いていた。先の方は真っ暗で、どれほど深くまで続いているのか、まったくわからない。それでも私は深く考えず、今日はどうやら出口までかなりかかりそうだなどと考えていた。
ずいぶん長く歩いたので疲れてきたなと思ったら、突然踊り場に出た。階段はまっすぐ続いているが、踊り場は少し広くなっていて右手の壁に寄せてベンチがあった。私はひと休みしようとベンチに腰を下ろした。
「なかなか出られませんな」
隣で声がした。先ほどはいなかったはずの老人がベンチの端に座っていた。私はなぜか驚かなかった。ぼさぼさに伸びたまだらの白髪に作業着のようなジャンパー、ズック靴には穴が開いている。決して裕福には見えなかった。
「地下鉄の出口なら上に向かうはずなんですけどね」
「地球は丸いからな。斜めにまっすぐ下るとどっかで地上へ出るだろう」
頭の中で図を描いた。算数の問題だ。入口の地表から三十度の傾斜でまっすぐ進むと、地球の円弧を六分の一横切って地上に出る。直線距離で六千四百キロだ。そんなのんきな口調で話せる距離ではない。
「困りましたね。戻りましょうか」
私は腰を上げて、来た方を振り仰いだ。上りの階段も視界の果てで暗黒に飲み込まれていた。
地の底に向かって歩くよりましかと思って、私は来た階段をのぼり始めた。上りの階段は地下鉄駅の階段とは似ても似つかず、いつの間にか左右の壁もステップもむき出しのレンガ造りになっていた。私は赤黒いレンガを踏みしめながら、見慣れない階段を上がり続けた。
いいかげん足も疲れて上がらなくなってきたところで広い場所に出た。踊り場かと思ったら水族館の中にいた。薄暗いホールの中央に、巨大な円筒型の水槽がそそり立っていた。水槽の中には大小さまざまな魚がたくさん泳いでいた。群れをなす小魚が照明に煌めきつつ一斉に方向を変えるさまは、分厚いガラス越しにざあっという音が聞こえてくる気がした。数メートルもあるようなサメやエイもゆったりと泳いでいたが、きっとおとなしいのだろう、ほかの魚が逃げる様子は見えなかった。私は、なんとか地上へ出るか駅に戻れるような表示を探していたが、いつの間にか水槽の中にいた。体のまわりをたくさんの魚が泳いでいる。色とりどりに彩色された岩や飾りつけを眺めながら、私はスーツも鞄も濡れるなあと困り果てていた。なぜか呼吸はできた。
目覚めるとすでに日が昇っていた。その日は日曜日だった。
掃除や洗濯は午前中に済ませた。私は昼食を終えたところで、流し台に置いた食器を洗わないとなとぼんやり考えていた。
ダイニングテーブルの上に白茄子が現れた。
「キョウハデカケナイノカ?」
「ああ、休みだしな。布団を干して、持ち帰った仕事でもするさ。外へ出るといってもスーパーくらいにするつもりだ」
玄関のチャイムが鳴った。
ごめんくださいという声がしたので廊下に出てみると、玄関先に近所に住む女性が立っていた。順子ともども親しくしていたので、辻原さんという名は知っている。
辻原さんは同じ町内に住む人妻だ。順子より少し若いが、くじ引きで回ってくる町内会の役員を同じ時期にしていたことがあって、それをきっかけに主婦同士仲よくなったようだ。二人とも子どもがいないこともあって、休みの日などよく買い物や食事に一緒に出かけていた。ご主人は大手の電機メーカーに勤めていたと思う。二度ばかり四人で食事をしたことがある。辻原さんは三十代の半ばで長い髪の妙にきれいな人だった。近所のスーパーなどで出会うことも多く、また見とれてる、とよく順子にわき腹を小突かれたものだ。
庭掃除でもしていたのだろうか、辻原さんはTシャツにエプロン姿で、手にはほうきとちりとりを持っていた。暑くもないのに額のあたりがうっすらと汗ばんでいた。Tシャツは妙にくたびれていて、ニットのスカートも形が崩れかかっていた。
「う、裏の、というか、8班の辻原です。ご無沙汰しています。奥様にはよくしていただいていて、よくしていただきました」
いつもの辻原さんとは様子がちがった。妙な早口と、私の後ろを見ているような目の焦点が気になった。
「はいこんにちは。いつもお世話になってます。それで、辻原さんが、その、なにを」
「奥さんにあのお線香を、お線香を上げさせてほしくてお線香を。いえね少し前に奥さんなくなられたでしょそれでお葬式以来お線香も上げさせてもらってないしいろいろご不自由こともあるかもしれませんしねうふふふそれで一度お仏壇に」
辻原さんはほうきとちりとりを三和土に置いて勝手に入ってきた。ちょっと待ってくださいと広げた私の両腕をすり抜けるようにかわした。様子がどうもおかしい。
辻原さんは、もともと順子とは仲が良かったので、私の家とは近所づきあい以上のかかわりがあったし、何度も行き来しているのでわが家の勝手もわかっているのだろう。するすると奥の和室に進んで、順子の遺影の前に座った。
様子がおかしいからといって無理に追い返すわけにもいかず、私は客用の湯飲みでお茶を出した。
辻原さんは線香をあげると、手を合わせて長いこと拝んでいた。ぶつぶつと何かを唱えている。仕方がないので辻原さんの後ろに座って、畳の上のごみをつまみ上げたりしていた。辻原さんはなかなか念仏だか題目だかをやめない。お経の一本でも上げてしまうつもりなのだろうか。
後ろから眺めていると、辻原さんの二つ並んだ足の裏が意外ときれいなことに気がついた。しわが少なくて、ピンク色でつやつやしている。その上に丸い尻が乗っている。本人が微妙に前のめりになっているうえに、ニットのスカートなので形がよくわかる。たっぷりと丸くて張りがあった。
Tシャツに透けるブラジャーの線や、後れ毛のはりついたうなじのあたりを見ていると、不意に辻原さんが振り返った。目を見開いたまま首を回し、人形のような面持ちで部屋を見回した。
「きれいになさってるのねこれなら奥さんもあちらで安心だわ」
「性分ですから」
辻原さんはもう一度仏壇に向かって短く何かを唱えると、ひゅっという感じで再び振り返った。脇に置いた湯飲みをつかんで天井を仰ぐようにして一気に飲んだ。冷めたお茶が口からあふれてTシャツを濡らした。タオルを、と腰を浮かせかけた私を手で制して、辻原さんはTシャツの裾をぐいと持ち上げて口元をぬぐった。縦長のへそとピンクのブラジャーの端がのぞいてどきりとした。普段はもっと上品な人だったはずだ。
「ふう生き返ったわのどが渇いて、のどが渇いていましたの」
辻原さんが座布団から滑り降りるようにしてにじり寄ってきた。
「おかわいそうにおさびしいことでしょう」
私はのけぞるように身をそらせた。後ろに手をついたが、そこへ覆いかぶさるように辻原さんの顔が近づいてくる。なんなんですか。声を出そうとすると手で口をふさがれた。
「いやいや、辻原さん、いくらなんでもこれは」
私は辻原さんの肩を押し戻して、ぶしつけではないですか、あなたは近所の知り合いなのに、といくらかの怒りを込めて続けようとしたところで遮られた。
「奥さんにはよくしていただいて本当によくしていただいてよくしていただいて」
「いやいやいや、ちょっと待ってください」
「ご近所ですからご近所ですから。奥さんにはよくしていただいて」
辻原さんは一気に体重をかけて覆いかぶさるようにもたれかかってきた。
「近いです近いです」
私はのけぞるように尻で後ずさった。
辻原さんは顔を寄せてきて私の顔を見上げた。辻原さんの息は甘い香りがした。
「おさびしいことでしょうおさびしいことでしょう」
辻原さんは私の胸元に手を伸ばしてシャツのボタンを外し始めた。
「ちょちょちょっと何を。やめてください」
辻原さんを押し返そうとしたが意外な力でのしかかってきた。
「いいのですいいのですおかわいそうにおさびしいことでしょういいのですいいのですいいのです」
辻原さんは再び左手で私の口を押さえたまま、右手だけで器用に私のベルトをはずした。そのまま半ば硬くなったものをつかみ出した。
私は観念して、上からのしかかってくる辻原さんの胸をTシャツの上から揉んだ。そのまま背中から畳の上に倒れた。もう一方の手で辻原さんのスカートの下をまさぐると、下着さえすでになく、熱いうるみが泥のように指に絡みついた。ちらりと、妻の写真の前でとは思ったが、髪を振り乱すように咥えたてられては、その事実さえ私の興奮をかき立てた。
ことを終えると、辻原さんはそそくさと立ち上がり、髪を手ぐしで整えて、「帰ります帰りますおじゃましました」と言って背を向けた。廊下を歩きながら、Tシャツの下でブラを直していた。私はベルトを締めながら後を追ったが、辻原さんは振り返りもせずにほうきとちりとりを持って玄関を出て行った。
和室に戻ると、散らばった座布団の上に白茄子がいた。五匹ばかり駆け回っていたが、辻原さんが最後に尻を乗せていた一枚の上に集まって、胡坐をかいて私を見上げた。車座になった白茄子の下には大きな染みが広がっていた。
「オサカンデスナア」
甲高い声できゅうきゅう音を立てた。笑い声のように聞こえた。
「なにがなんだか。いつもはあんな人じゃないのに」
自分はレイプされたのだろうか、それともなんかいい目を見たのだろうか。そんなことが頭をよぎった。
「ツジハラサンホンニンダッタヨ。ムコウノアカイヤネノイエダヨ」
私は白茄子に訊いた。なんでこんなことになったのだろう。
「そもそもお前らは何しに出てくるんだ」
「ナンダッテイイダロ。イマダッテキモチヨカッタンジャネーノカ」
「今のもお前らのせいなのか」
「サア、ドウダロウナ」
「頼むから余計なことはやめてくれ」
「ヨケイナコトダッタノカナー」
「やかましい」
そんなに簡単に人間を操れるものなのか。物の怪の悪さにしても愉快なものではないし、にわかには信じがたい。
「順子が死んだのがきっかけだと思うが、何しに出てきたのかだけでも教えてくれ」
「アンタ、アレ、オモイダサナイト」
「なんのことだ」
「タマゴヲカイニイッテ、オオゲンカシタヒノコト」
私はと胸を突かれて黙り込んだ。「卵を買いに行って大喧嘩した日」。少し考えたが私には思い当たることがなかった。順子とは喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかったのに。
また月曜日が来た。ただでさえ月曜日の出勤は憂鬱なのに、佐々木が来てからますます憂鬱の度は増していた。
それでも声をかけないわけにはいかない。私を無視して何もかも自分で勝手にやりたいのかもしれないが、営業一課の進捗管理は課長として当然の業務だ。
「佐々木君、三課との件は進んでるのか」
また舌打ち。このごろは私が話しかけるたびに舌打ちするようになった。
「メール見てませんか。ccに入れてるでしょう」
私は額に手を当てた。
「じゃなくて、状況を整理した報告がほしい。結構込み入ってるようじゃないか」
「必要ですか? どうせ聞き流すだけでしょ。事前に資料投げたときも、ふーんみたいな感じだったじゃないですか。どこの評論家かと思いましたよ」
私は目を閉じてゆっくりと三つ数えた。
「それと」
私は一呼吸おいた。
「浦和が怒ってると聞いたが、なにがあったんだ」
「誰に聞きました?」佐々木の目に剣呑な光が宿った。
「誰でもいい。噂レベルだ。だから君の話を聞こうと言っている」
佐々木はまた舌打ちをした。
「またくだらない悪口を言うやつがいるんでしょ。あれはぼくが本社にいた時に担当してた案件なんですよ。トキワ文具の債務整理の関係で、浦和で引き継ぐってなったんですけど、浦和の係長がどうしようもなく仕事のできない野郎で、ぼくがこっちへ来てからも、あれこれ指示してやらないと一向に前に進まなくて」
案の定か。自分の実績を鼻にかけて、異動して手を離れたのに上から目線でごちゃごちゃと、という聞いた話の通りだ。
「わかった。君が親切なのはわかった。ただすでに自分が転勤もして、浦和に引き継いだものなら放っておけ。浦和もいつまでも前任者に口を出されたくはないだろう」
「課長こそ何も知らないのに口出さないでくださいよ。浦和のぼんくらがどれほど役立たずか」
「それは浦和の問題だ。君になんの権限がある」
佐々木は憮然として黙り込んだ。
「ともかく、私はもう君のことで頭を下げるのはごめんだ。こちらの仕事に集中してくれ。手始めに、さっき言った三課との件について報告してくれ」
返事はない。課長補佐は黙ってキーボードをたたき始めた。
それでいい。こいつは仕事だけは丁寧だから、じきに理路整然として美しい報告書が届くだろう。
定時を過ぎたので、私は席を立った。上司が率先して帰らないと、部下も帰りにくかろうと思ってのことだ。だから鞄には今日も持ち帰り仕事が詰まっている。
そんなときも佐々木はスマホにメールをよこした。「君とこの課長、早く帰るなあ。暇なのか、って言われました」などと。
そりゃお前が思ってるだけだろうと思ったが、返信には「残業は基本すべきでない。みんなも効率的な仕事の進め方に気をつけてほしい」とだけ書いた。
そのあとのやり取りは省略する。そもそも仕事の割り振りがおかしいだの、負担が偏ってるだの、私がどれほどつらい思いで頑張ってるかわかるのかだの、指示も調整もできないのに人の仕事に口を出すなだの、何通ものメールが送られてきたことだけ書き留めておく。
部屋に帰って、小腹が空いたので鯖缶を開けた。皿に移して缶ビールを出した。サバをつまみながら缶ビールを飲む。
「辞めようかなあ」
ふとつぶやく。いろんな契約が途中、いくつかのプロジェクトが端緒、引き継いだものもあるし自分で始めたものもある。投げ出すわけにいかないのはわかっているが、すべて放り出したくなる。
空っぽの鯖缶から白茄子が出てきた。
「ヤメテシマエヤメテシマエ。ズットアイツノツラミテスゴスノカ」
「部下のパワハラで辞めますってか。そんな恥ずかしいことはできないよ。まあ、じきにあいつも異動するさ」
ここまで仕事を疎ましく思うのは、佐々木のせいであることはわかっている。直属の部下とはいえ、毎日毎日目の前の人間に憎しみと軽蔑がないまぜになった感情をぶつけられて、穏やかに過ごせるわけがない。
文殊精機の周年行事は、芝生広場を屋外イベント会場に、隣接する建設中の巨大な建屋を式典会場と屋内イベント用に利用する方向で固まってきた。かなり大掛かりな催しを提案したが、意外と会長が喜んでくれたので開催できる見込みが見えてきた。
創業百周年の記念式典では、市長以下、国会議員や市会議員、関係する大手企業の役員なども来賓に招いて盛大に開催する。社長のあいさつと来賓あいさつを皮切りに、百年間の映像記録を上映しながら、会長に文殊精機の歴史を語ってもらうことにした。
会場が広いことを利用して、パイプいすをぎっしり並べた入学式のようなスタイルではなく、参加者がみんなテーブルを囲むアカデミー賞会場のような設営を検討した。だから式典の終了からそのまま乾杯にして、第二部の会長の好きなジャズと演歌のコンサートに移る。ディナーショーのスタイルだ。
屋外では、広大な芝生広場にイベント業者を呼んで、家族向けに移動アトラクションとミニ運動会などを開く。キッチンカーもたくさん出して、できるだけたくさんの社員と家族を、レクリエーションで楽しんでもらえるようにする。
奥田係長と何度も八王子に通って、会長も喜んでくれるようなイベントの形が見えてきた。とにかくみんなが楽しかったと言ってくれるようなものを頼むと言われたとおりだ。イベント業者やケータリング業者を決めたり、出演者を手配したり、看板からサイン類まで会場のデザインを決めたりと、これからの事務量を思うと、気が遠くなるが。
その日八王子から帰ると、めずらしく佐々木の方から話かけてきた。妙に態度も柔らかい。
「課長、文殊精機さんのイベントの件、ぼくに任せてもらえませんか」
やはりそうか。派手好みで手柄を上げたい性格なので、いつか手伝わせてくれと言ってくるとは思っていたが。
「でもこれは、以前から文殊さんを担当してきた奥田係長と私に名指しで来た仕事だからな」
奥田の面子もある。途中から割り込んできて好き勝手させるわけにはいかない。もちろんマンパワーの必要な大仕事なので、私の補佐に回ってくれる人間はほしいが、私自身にこいつに関わらせてたまるもんかという意識がなかったとは言えない。
佐々木の表情が険しくなったが、そんなことは気にしない。
「それに、君は君でたくさんの仕事があるだろう、区役所の件もトキワさんの件も片付いてないし」
「そこは課長もフォローするのが仕事でしょう。自分のやりたいことだけえり好みするのが課長の仕事なんですか」
それはお前の方だろうが、という言葉を飲み込んだ。
「とにかく、私なら本社の広報課の知り合いを通じて芸能事務所にも渡りをつけられますし、適材だと思うんですけどねえ。課長からも所長や文殊さんに話してくださいよ」
「考えとく」
考えるまでもないが、それで話を打ち切った。
一人で八王子の森にいた。日当たりのよい小高い崖の上で、見下ろすと文殊精機の工場群が広がっていた。イベントの件で岩木常務と相談しないといけないことがいくつもあって、気持ちは焦っていた。
崖から下りる道を探したが、目の前は切り立った壁のようで下りようがない。振り返ると真っ暗な森が迫っていて、我ながらどうやってここまで来たのかわからなくて途方に暮れる。森に入り込んで回り道をしながら下るしかないとは思うが、この森に入ると死ぬ。根拠なくそんな確信にとらわれた。「道に迷うたか」
隣に会長が立っていた。いつもの会長の姿とはちがって、溶けた雪だるまというか不定形の泥人形のような姿をしていた。それでも会長だということが一目でわかった。かけられた言葉の意味もすんなり理解できたが、耳に入る響きはごぶごぶごぶごぶと、泥濘に泡が立つような音に聞こえた。
「あ、これは会長。今度の周年行事のことでおうかがいしようと」
「ここからだとうちの工場がよく見えるだろう」
ごぶごぶごぶごぶ。
「たしかに、広くて立派で、とても見晴らしがいいですね」
ごぶごぶごぶごぶ。
「でも会長、ここからどう行けば。岩木常務にお会いしないといけないんです」
会長は私の後ろに回ると、大変な勢いで私を突き飛ばした。私は悲鳴を上げて崖から飛び出した。頭の隅でこのまま飛んでいけるかもしれないと思いながら、やっぱり真下に落ちていた。
はっと目を覚ますと、手に白茄子を握りしめていた。深夜の2時を回ったばかりだったので、ベッドの下に放り投げて再び眠りについた。
文殊精機の話もずいぶん煮詰まってきたところで、ある日、文殊さんの件でと営業所長に呼ばれた。周年事業の実施に関しては節目節目の会議にも出てもらっているし、今さら進捗報告もないだろうと思いながら所長室に入った。
嫌な予感は当たった。話はやはり佐々木のことだった。所長は眉の間に、いくぶん申しわけなさげな色を浮かべながら、文殊の周年事業は課長補佐に引き継いで、彼中心でやらせてやってくれないかと言い出した。
今まで奥田と二人三脚で取り組んできたことも、本社や浦和に頭を下げながら不慣れなイベントの協力を取り付けてきたことも、所長はつぶさに見てたでしょう、それを今になってなんで、課長補佐に仕切らせようというんですか、と食い下がってはみたものの、彼にもここで大きな仕事を経験させたい、彼は優秀なんだからと取り付く島もなかった。
あいつが直接ここへ直談判に来たんですか、それとも本社の指示ですかと尋ねると、所長は言葉を濁した。いずれにせよ、佐々木があちこちへ駆け込んだんだろう。あの課長では無理ですとか、自分の方がはるかにいいものにして見せますとか。仕事のためなら寝技も裏技も結構だが、我を通すのに上司の頭越しに裏から手を回すとは。
やむを得ず、奥田係長との役割分担も含めて、課長補佐に仕事を引き継いだ。佐々木が繰り返し見せるしてやったりという表情には穏やかではいられなかったが、極力顔には出さないように努めた。合わせて、佐々木が持ってるいくつかの仕事を引き受ける羽目になった。
「おかげで飛び回ってくれてるので、顔を見なくてすむのはありがたいが、いちいちめんどくさいんだこれが」
金曜日ということもあって、本当なら総務課長を誘うつもりだったのに、本社の会議に呼ばれているとかで、いつの間にか麻野さんを相手に愚痴っていた。会社帰りのサラリーマンでにぎわうような居酒屋だが、会社から離れた店を選ぶ程度の分別はある。
「沢田課長が部下のことで愚痴るのって珍しくないですか。〝仏の沢田〟って聞きましたよ」
「あんなの部下じゃないよ。あいつの方がえらそうなのに」
白茄子が目の前をうろちょろしていたが、無視してハイボールのジョッキを呷った。
「こないだも、太田が大口の納期の件でアップアップしてたら、横から口出してきて『部下の進捗管理くらいしたらどうなんですか。あいつ困ってますよ』ときた。課長補佐なんだから、てめえが目配りしろってんだよな。そもそも自分が噛んでた案件なのに」
麻野さんはくすくす笑って聞いている。
ハイボールのジョッキの後ろから白茄子が現れた。
「ナンダナンダ、ドウジョウカッテクドコウッテカ」
私は黙ってジョッキをそいつの上に押し付けた。ぎゅぎゅぎゅ。ぽふっ。
「自分の部下のことを、他人にそんなふうに言っちゃいけないのはわかってるんだけどね、もうこのごろたまってきちゃって」
「わかりますわかります。いくらでも言ってくださいよ。聞いてますから。口は堅い方ですし」
オクラの天ぷらを口に放り込んだ。さっくりした衣とオクラの歯ごたえの対比が面白い。
また白茄子が出てきた。
「ノッテクレテルジャン。イヨイヨコンバンイケルカモナ」
無視した。
「文殊精機の百周年だって、せっかく苦労して積み上げてきたのに、おいしいとこだけ持って行くような真似しやがって。それで自分が食い散らかした仕事をこっちに押し付けてさ、経過も進捗状況もわかんないから、佐々木に訊いたらなんて言ったと思う」
麻野さんは微笑んで小首をかしげている。
「『わからないなら前の記録調べるとかできないんですか。それに進捗なら、まめに聞いてくれたらどうなんですか。いちいち教えてられませんよ』とぬかすんだぜ。報連相は部下の仕事だろうが」
もちろん怒り口調で話すわけではない。麻野さんが面白がってくれるので、ついつい恨みがましい嘆き節になる。
「報連相と言えばさ、自分の知らないことを電話で聞かれたとかで、『ぼくは課長補佐なんですから、ちゃんと情報共有はしといてもらわないと。課長だからって、情報抱え込むのやめてもらえますか』とか文句言ってくるんだ。なんで、上司が部下にいちいち報連相しないといけないんだ。必要な情報は共有してるっての」
私がぼやく、麻野さんが笑う、そして飲んで食べてを繰り返してずいぶん時間を費やした。いちいち白茄子が口説けだのやっちまえだのと話しかけてくるのには閉口したが。
「今日はくだらない話を聞いてもらえてすっきりしたよ。どうもありがとう」
私は心からお礼を言った。
「でも楽しくなかっただろう。おじさんのぼやきばかり聞かされて。ごめんね」
麻野さんが笑った。
「とっても楽しかったですよ。おじさんのぼやき。課長がそんな話をしてくれるというのもうれしかったですし」
私は酔いの回った頭を掻いた。ここでもう一軒と言えばよかったのかもしれないし、口説きたい思いがなかったと言えば嘘になるが、そこはなぜかこらえてしまった。臆病だっただけかもしれない。
土曜日はいい天気になった。久しぶりにシーツを洗って、二階のベランダに干した。青空は雲ひとつなく、深い青色をバックに明るい太陽が浮かんでいた。
ベランダから下を見ると、裏の道路から辻原さんが小さく手を振っていた。水色のワンピース姿で、手に紙袋を持っている。
ベランダの手すりに白茄子が座っていた。
「オソナエジャネーノカ。アガッテモラエアガッテモラエ」
冷やかすような口調が癇に障る。うるさいと言いながら外に向かって払い落とした。
白茄子が落ちた先にいたはずの辻原さんの姿が消えたと思ったら、玄関のチャイムが鳴った。
「おはようございます辻原です。今日は順子さんの月命日でしょう。お供えを持ってきましたの。またお線香あげさせていただきたくて」
私の返事も聞かずに上がって来て、すたすたと奥に向かった。奥の和室にしつらえてある順子の遺影を飾った棚の脇に紙袋を置いた。
写真に向かって短く手を合わせると、振り返って部屋の中を見回した。
「相変わらずきちんとしてらっしゃるんですね」
今日は先日のような奇妙な雰囲気はないようだ。きちんとメイクをした目元を緩めて微笑んだ。
「まあ、片づけるのはきらいじゃないので。一人暮らしだと散らかしようもないですし」
そのとき、二人の間の畳の上に三匹の白茄子が現れた。輪になって変な踊りを踊っている。
「サセテモラエサセテモラエ。ユウベノリベンジダ。キョウモイッパツサセテモラエ」
私は三匹をまとめてつかんで横の壁にたたきつけた。もちろん何の音もせずに消えた。
辻原さんは私の急な動作を気に留めた様子もなく、両手を頭の後ろに回して髪留めを外した。ほどけた長い髪がふわりと肩にかかって、甘い香りが鼻先をかすめた。
「でも、何かと不自由なさってるんじゃないの」
辻原さんは座ったままにじり寄ってきた。
「辻原さん、ちょっと待ってください。いくら何でもこないだのようなことはもう」
辻原さんは立ち上がって、座った私の目の前でワンピースのスカートをまくり上げた。スカートの下には何も身につけていなかった。辻原さんは、のけぞる私の頭にスカートをかぶせてそのまま胸元に裸の尻を乗せた。あおむけに倒れた私の顔に、たっぷりと潤んだ性器を押しつけてきた。鼻の頭に陰核が当たった。生臭いような甘ったるいような愛液の匂いに包まれて、私は辻原さんの膣口に舌を挿し入れていた。
辻原さんはしばらく楽しんだあと、体の向きを変えた。二人とも服を着たままのシックスナインになった。結局、私もズボンとパンツを脱いで、後ろからたっぷりと注ぎ込む羽目になった。
辻原さんは重ねたティッシュを股間に挟んで立ち上がった。私は体液まみれのペニスをさらけ出したまま横たわって、トイレに入る辻原さんを見ていた。辻原さんはトイレから出てくると、こちらを見もせずに玄関から出て行った。
ひと月もたたないうちに、文殊精機の件で話があると、再び営業所長に呼ばれた。どうやら会長からじきじきに所長に電話があって、課長はどうした、なんで佐々木みたいなやつを寄越すんだとえらい剣幕だったらしい。佐々木が何かやらかしたのだろうか。あの外面のよさは特筆に値するし、クライアントには抜群の営業姿勢のはずなのだが。奥田に対する態度や、自分の仕切りに対する自信満々なところが見透かされたのかもしれない。職人気質の会長は、そういうのを最も嫌うはずだ。
それなら、所長から伝えてくださいよ、これ以上あいつと関係が悪くなるの困るんですよ、絶対あいつ逆恨みしますからと訴えたものの、結局、君から課長補佐にはうまく言ってくれと、体よく汚れ仕事を押しつけられた。
とりあえず佐々木を会議室に引き込んで、所長の話を伝えた。
「なんなんですかそれは!」
反発は予想したが、大声を上げて激昂するとは思わなかった。
「声が大きいよ。なんでも、会長のご意向らしい。所長に直接電話があったってさ」
会長が佐々木の態度に怒ってたとか、そんなことまで伝える必要はない。
「お前が裏から余計なことを吹き込んだんじゃねえのか!」
ぎょっとした。ここへきてお前呼ばわりか。会議室で二人きりというのもあるのだろうが、完全に会社員として常軌を逸している。
「俺が引き継いでこの数週間、細かな調整にどんだけ苦労したかわかってんのか。それを見てるだけで、指示もない助言もない支援もない、お前それでも課長か!」
何言ってんだこいつは。口出したら文句言うくせに。私は怒る気にもなれず、肩をすくめた。
「君が何をやらかしたのかなんて興味はない。ともあれそういうことだ。八王子へは明日から俺が行く。引き継ぎなんてやる気はないだろうから、詳細は奥田係長から聞く。君は明日から前の業務に戻れ。ここしばらく私が担当していた分については、必要なことは小林係長に伝えておく」
佐々木は黙って立ち上がった。
「営業回って直帰します」
早口で吐き捨てるように言って、ごみ箱を蹴飛ばした。ごみ箱は大きな音を立てて壁にぶつかって倒れた。佐々木は、荒々しい動作で会議室のドアを開け、足早に出て行った。
「ぶち殺すぞクソが!」
廊下の向こうから大きな声が響いてきた。
近所のファミレスで簡単に夕食をすませて帰宅した。郵便受けをさらえた紙束とカバンをソファに放り出して、スーツを脱いだ。冷蔵庫から缶ピールを出して、そのまま床にあぐらをかく。
ローテーブルに夕刊を広げると真ん中に白茄子がいた。
「コロシテヤロウカ、アイツ」
いきなり物騒なことを言った。
私は目を閉じた。私に向かって蔑むように唇を歪めた佐々木の表情が験の裏に浮かんだ。
「馬鹿なことを言うな。茄子のおもちゃのくせに」
幻が何を生意気なことを。そして今日のことを思い出した。私は目の前の幻覚に、無意識の願望をしゃべらせているのかもしれない。
「あんな奴でも家族がある。軽々に死ぬようなことがあってたまるもんか」
「トイレデヨク、シネトカイッテルジャナイカ」
「あんなものは舌打ちと同じだ。本気で死ねばいいと思ってるわけじゃない」
私は缶ビールを一口飲んで夕刊のページをめくった。白茄子はそこにもいた。
「コロシテヤルヨ」
よせ、と言いかけたが無視することにした。相手をしてもからかわれるだけだ。
「ミテロ」
「見てろじゃねえよ。馬鹿なことはよせ」
本当か。私は本気で止めようとしているのか。ひょっとするとと面白がる、万が一にもと期待する気持ちはないか。佐々木の顔が浮かんだ。思い出すのも不愉快だが、死ぬところまでは想像できない。
「デキルモンナラヤッテミロトイウホンネガミエテルゼ」
冷やりとしたものが背筋を走った。そんな本音は持ち合わせていない。そんなものが本音であってよいはずがない。
しかし、と私は自問する。佐々木が死ねば私はどうするだろう。悲しむのか。喜ぶのか。笑いはしないだろう。涙を浮かべるくらいはするかもしれない。しかし、自分に責任がないとなれば、私はきっと腹の底で喜ぶだろう。いい気味だと思うだろう。そして、いつかかわいそうに思うようになるだろう。
くだらないことを考えていても仕方ない。不快なものを突きまわしても頭の中に腐臭が広がるばかりだ。
私は缶ビールを飲み干し、脱いだものを片付けて風呂に入った。
それでも今日のやつの態度を思い出した。「死ねばいいのに」と、シャワーで頭を流しながらつぶやいてしまった。
「ホウラ、ヤッパリ」
白茄子が一匹、湯船に浮かんでいた。私は無視した。
「ドンナシニカタガイイ?」
私は風呂から上がって体を拭いた。
「トツゼンシトカ、ジコトカ、ザンコクナノトカアルダロウ」
洗面所にある洗濯機の上から白茄子が話しかけてきた。
「ああもうとにかく、痛くて残酷なやつにしてくれ」
私は手のバスタオルを叩きつけた。もう白茄子はいなかった。私はバスタオルを洗濯機に入れた。
「ヨーシ、イタクテザンコクナヤツダナ。マアミテロ」
どこからか甲高い声が聞こえた。
「だからやめろバカ。殺すとか言うな」
「タノシミナクセニ」
私は黙った。裸のまま洗面所に立って、奴の死ぬところを想像した。怒りや憎しみが高じたからと言って、本気で死を願うのは短絡的に過ぎないか。
しかし私は気づいてもいた。奴が本当に死ねばどれほど溜飲が下がるだろう。
翌日、佐々木は出てこなかった。無断欠勤などする男ではない。私は胸騒ぎを抑えて、他の部下に聞いた。
「今日、どっか直行するとか聞いてないか」
誰からも反応はなかった。奥田係長も小林係長も肩をすくめた。
佐々木の奥さんから電話があった。昨日佐々木は帰らなかったらしい。今日は出勤していますかと聞かれたが、連絡もなく、出てきてもいないことを伝えた。携帯電話に何度電話しても出ないんですこんなことははじめてですと、こちらの胸まで苦しくなるような声音で、心配していることを訴えられた。
奥さんは警察に相談してみますと言っていたが、事故や事件でないことを願うしかない。昼を過ぎても連絡はなく、携帯電話を鳴らしてもやはり取る様子はなかった。朝送ったLINEのメッセージにも既読はつかないままだ。
佐々木の死ににざまは、連日報じられるような大きなニュースになった。名古屋のアベック殺人事件を思い出すものも多かった。
帰りの電車を降りて、駅前広場でチンピラグループに絡まれたらしい。目撃者もいたが、肩がぶつかったのか目つきがよくなかったのか、原因はわからない。
そこで殴るけるの暴行を受け、奴が土下座して泣きながら許しを請う姿を何人もの通行人が見ていたという。
その姿のまま頭を踏みつけられて鼻が折れたらしく、盛大に鼻血を噴き出しながら、許してくださいと泣いて土下座を繰り返していたらしい。
遠くにパトカーのサイレンが聞こえてくるなり、そいつらは佐々木をワンボックスカーに押し込んで逃げた。ただの喧嘩なら放置して逃げるだけでよかったはずなのに。ナンバーを見られたからなのか、ゆっくりなぶり殺しにしたかったのか、そこまではわからない。
その後の暴行もひどかったようだ。翌日、三十キロも離れた公園の林で見つかった死体は、両腕の前腕と頭蓋骨がぐしゃぐしゃになっていたということだった。
両腕で頭をかばおうとしたところを、鉄パイプで滅多打ちにされたのだ。いくら腕の骨が砕けようと、頭の骨が割れようと、相手は正面から執拗に殴り続けたのだ。
それらはすべて報道で知った。白茄子は何も教えてくれなかった。白茄子の仕業でもなんでなく、ただの偶然だったのかもしれない。
「お前ら本当に」
私はテーブルの上で車座になっている五匹の白茄子に声をかけた。
「ナンノコトカナ」
白茄子はキュウキュウとした音を立てた。これは笑い声なのか。
私はこみ上げる怒りに震えた。手に持った新聞を叩きつけた。いつものようにぽふっという手ごたえがあっただけで、新聞の下には白茄子の影も形もなかった。
廊下の奥に白茄子がいた。
「ランボウナヤロウダナ」
「貴様らこそ人を殺しておいて」
「オマエガノゾンダンジャネーカ」
私は黙った。本当か。本当に望まなかったのか。佐々木が私を憎み軽んじ苛んだとしても、家族のいる一人の男に対して、私は死を願ったのか。あるいは願わなかったのか。
私は天井を仰いで、鼻の付け根をつまんだ。本当にこいつらは。
「だから、なぜ俺につきまとうのかだけでも教えてくれ」
「アンタ、アレ、オモイダサナイト」
「なんのことだ」
「タマゴヲカイニイッテ、オオゲンカシタヒノコト」
検死の都合があるとかで、佐々木の告別式は数日後に営まれた。香典も供花も一切受けない家族葬ということなので、社内報への掲載は後日ということになった。
会社からの会葬は固辞するとのことだったが、私一人で通夜に出かけた。大きな葬祭ホールのこじんまりした一室で、家族に見守られながら焼香だけさせてもらった。棺の小窓は閉じられたままだった。すでに泣き疲れたのか、放心したような小学生の息子の姿が痛々しかった。
私は焼香をしながら、たしかに悲しんでいた。もちろん私が奴の死に関係があるとは思わない。遺族に子どもが二人もいたらなおさらだ。私を憎んでいようと、理不尽な言辞を繰り返し投げつけてこようと、仕事はできたし、よき父親だったはずだ。
土曜日は昼まで寝た。起きてすぐにご飯を炊いて順子の位牌の脇に供えた。そばに白茄子が現れたが無視した。
「なあ、おかしなことがあるもんだよ」私は妻の写真に話しかけた。
「茄子のおもちゃにしか見えないのに、不思議な力があるみたいなんだ。馬券は偶然かと思ったが、佐々木のことまで偶然なんだろうか。私が殺したことになるんだろうか」
「あんなにひどいことになるなんて」
麻野さんは表情を曇らせていた。涙ぐんでいるようにも見えた。
「僕も驚いた。通り魔にやられたようなものだが、あんな無残なことはない。ご家族のことを思うと気の毒としか言いようがない」
もちろん本心だった。いくら気に食わなかろうと、一人の部下がひどい暴力で殺されてショックを受けない上司があるだろうか。
課長補佐の件でお話させてくださいというので、食事をしながら話を聞こうということになった。人事の手続きや後任の相談などではなく――それなら係長も入れて社内の会議室で十分だ――、自分自身の動揺を鎮めがたいので苦しいということのようだった。私としては話を聞いて安心させてやりたいのだが、私自身も心穏やかではないので雰囲気は湿っぽくなるばかりだった。
カルパッチョの皿の陰から白茄子が現れた。
「キョウコソイケルゼ。クドイテシマエクドイテシマエ」
摘まみ上げて後ろに放り投げた。相手をしている気分ではない。
「ん? ごみがあったもんで」
ビールのあとは白ワインにした。佐々木の話も少しはしたが、どうしても事件を思い出すので二人とも黙り込む時間が多くなった。麻野さんはときおり涙ぐんだりもしながら、総務課のうわさ話なども教えてくれた。
「佐々木補佐は、大下課長にもいろいろ言いに来てたみたいなんですけど、最近は大下課長もあきれてましたね」
「そうなんだ。外面はいいと思っていたが」
「課長の悪口を言いに来てたんです。自分のアピールと」
私は肩をすくめた。もう死んでしまった人間だ。
「チャンスダゼ。ココロボソイトオモッテルトキコソ、アンシンサセテヤッテシマエ」
一匹の白茄子が、オマール海老にまたがってささやいてきた。無視した。
「今日はもう帰ろう。君も落ち着いて早く寝るんだ」
「バカヤロウ。モッタイネエ」
白茄子にフォークを突き立てて、膝の上のナプキンをその脇に置いた。
白ワインをかなり飲んだと思うのだが、一向に酔いが回らない。それは麻野さんも同じようだった。
駅までの道すがら、麻野さんがまだ暗い表情でうつむいているので、手を差し出すと黙って指を絡めてきた。私は頭の中で見覚えのあるラブホテルまでの道順を描いたが、私にできるのはそこまでだった。互いに元気があふれているような時ならともかく、動揺している心に付け込むようなことはしたくない。佐々木のむごたらしい話をした後で、そんな気になれないというのもある。
私たちは手をつないだまま、黙って駅まで歩いた。麻野さんを地下鉄の駅まで送り届けて、私は近くのバーで少し飲んで帰った。今日なら口説けたかもなという思いはどこかにあった。しかし、これでよかったのだ。
「また明日、辻原さんは来るのかな」
なんとなくそんな気がした。今までの二度とも、私が麻野さんと個人的に話した次の日に現れたから。まるで麻野さんを口説けなかった埋め合わせのように。
帰宅したのは真夜中近くになった。真っ暗な家に入って電灯をつけると、リビングのソファに辻原さんが座っていた。心臓が止まりそうになった。「なにしてるんですか!」
思わず大きな声が出た。辻原さんはTシャツにショートパンツという姿で、脚を組んでソファに深く座っていた。ぴったりとしたTシャツに、くっきりと乳首の形が浮き上がっていた。
「遅かったのね」
「遅かったのねじゃないですよ。そもそもどうやって入ったんですか。それに真っ暗な中でじっと座って。どんだけびっくりさせるんですか」
私はこのあとのことが十分想像できた。三度目ともなると戸惑いよりも期待が勝ろうというものだ。私はカバンを置いて、スーツをクローゼットにかけた。下着もすべて脱いで裸になった。辻原さんの真っ白な太腿を見て、私のものは腹を叩くほどの勢いで勃起していた。しかしまずは風呂だ。
「まあ」
辻原さんは頬を赤らめた。ごくりとつばを飲み込む音が聞こえた気がした。
「風呂に入ります。あとでビールでも飲みましょう」
汗を流して風呂に浸かっていると、辻原さんが入ってきた。もちろん全裸だ。乳房の張りも平らな腹部も三十代後半とは思えない。
辻原さんは、私の後ろから湯舟にすべり込んできた。私の両脇に膝を突くようにして背後から抱きしめてきた。私の背中に胸を押し当てて、首筋に舌を這わせた。もちろん右手は前に回して、私のものをあやしている。
「おうちは大丈夫なんですか。ご主人もいるのに」
「いいんです。主人は昨日から会社の仲間とゴルフ旅行にでかけています」
「でもあまりうちに出入りすると噂になりますよ。ご近所なのに」
「それも大丈夫です。誰にも見られたりしていません」
背中に当たる乳房の感触が強くなった。のの字を描くように押しつけてくる。辻原さんの右手は柔らかくさわるどころか、握ってしごくような動きになってきた。首にかかる息遣いも荒い。
私は右手を後ろに回して、辻原さんの陰毛の奥を探った。辻原さんの口から悩ましい声が漏れた。
風呂から上がって、バスタオルで体を拭く。夜は長い。二人とも全裸のまま、ダイニングテーブルでビールを飲んだ。
本格的にベッドで楽しんだ。二回戦を終えて四時近くになったところで、辻原さんは帰って行った。
白茄子が五匹ばかり手をつないで現れた。ラインダンスのように並んで足をあげて歌い出した。
「オサカンデスナー。オワカイデスナー。ウシロカラマエカラ、アンアンアン」
そばにあった枕をたたきつけた。
「お前ら、いったい何なんだこれは」
「オモイダシタノカ。タマゴヲカイニイッタヒノコト」
床で踊っている白茄子を足で蹴散らして、コップに水を一杯飲んで寝た。
「小林係長、課長補佐の持ってた案件、整理はついたのか」
「はあ、もうだいたい」
「だいたいって」
私は佐々木の机の引き出しを開けた。まだたくさんのファイルが入っていた。私はそれらを全部取り出して、机の上に積み上げた
「小林君、横山と丸岡さんと手分けして、これを今日中に整理してくれ。残すものはあるべき場所に、捨てるものは捨てて、引き継ぐものは各担当者に。迷ったら奥田係長にも聞け」
小林係長が口を尖らせた。
「ここのファイルだけじゃない。社内システムにある課長補佐の個人フォルダもきちんと整理しておくように。ログインパスは総務課に言って初期化してもらってある」
「でも私、今日は昼から島之内ビルさんやらスーパーマルハツさんと……」
「なら誰かにきちんと指示を出せ。係長だろう。それにこんなのは課の内部の話だ。適当でも気にすることはない。完璧は求めてないよ」
仕事はもちろん何事もなかったように続く。佐々木の分は奥田や小林をはじめ、他のみんなで分担させた。部下からは文句も出たが、多少は負担にアンバランスが生じるのは仕方がない。後任を引き連れてのあいさつ回りは二日で済ませた。
翌日、課内でミーティングを開いて小林係長と奥田係長の報告を受けた。佐々木の残務については、昨日のうちに大方割り振りをすませたらしい。区役所の件は太田と奥田で、浦和の件は私が詫びを入れてあとは向こうに任せることにする。キドテックスは主には竹内、小林がフォローに入る。
私はきれいに片付いた佐々木の机を見た。誰かが小さな花瓶に花を飾ってくれていた。総務課に聞いてみたが、後任はまだ決まらないらしい。沼津営業所の河田や本社の事業部にいる後藤なら気心も知れてるし、呼んでもらえるとありがたいと人事には伝えた。
佐々木が死んでふた月ほどたった。
私は、その日も何匹もの白茄子を引き連れて、会社の外に出た。
午前中なので、まだ日は高い。
私は会社の近所の仏具屋で、きれいな箱に入った線香をひとつ買って電車に乗った。
四十九日が終わって何週間かたてば、家の中も落ち着いただろう。そう思って私は佐々木の奥さんに電話をかけて訪問のアポを取った。
佐々木の家は郊外の駅前マンションだった。
私が訪問すると、佐々木の妻と小学生の息子が迎えてくれた。
仏壇に線香をあげて手を合わせた。死んでしまえば恨みも憎しみもない。家族のことを思うと気の毒だと思って胸が痛むが、こいつに限ってはやはり悲しいという感情はわいてこない。
奥さんが麦茶を出してくれた。
「少しは落ち着きましたか」
奥さんは首を振った。
「なにしろ突然のことでしたから」
なるほど葬式の時よりやつれているかもしれない。
小学生の息子は、大人の話だからと母親に部屋に戻れと言われても、リビングの入り口で家具に隠れるように体育座りをしていた。
「そうだな。知らないおじさんが来てお母さんが心配だもんな。えらいなぼく」
私が声をかけても、唇を引き結んで前を向いたままだ。父を亡くして、母を守るのはもう自分しかいないという思いなのだろう。
「いい息子さんですね」
私は微笑んだ。
「父親に似たのか頑固なところがあって」
奥さんもつられて頬を緩めた。
佐々木の会社での様子について少し話をした。仕事ぶりにも営業成績にもに文句はなかったので、気兼ねなく褒められたし、惜しい人材をなくしましたと嘘ではなく言えた。
私はぬるくなった麦茶をいただいて、辞去することにした。奥さんはお供物のおさがりをくれようとしたが、妻を亡くしたばかりの独り身に、缶詰や果物はそんなにいりませんよと固辞した。
ああ、そういえば、私も数か月前に連れ合いを亡くしたのだった。
奥さんはお悔やみを言ってくれたが、なんだか主客転倒したようで、互いに困ったような笑みになった。
その時、男の子が顔を向けた。
「おじさん、それ何?」
正座する私の膝の前を指さした。
そこには白茄子が一匹寝そべっていた。
見えるのか。
「え?このコップ?」
「ちがうよ。まっ白なおなすみたいなの」
私は膝の前を手で払った。指先に当たった白茄子がごろごろと転がった。「ほら、何もないよ」
「何か見間違えたんでしょ」
佐々木の妻がたしなめるように言った。
「イテーダロコラ」
「しゃべった!」
男の子が驚きの声を上げた。
私は立ち上がった。気づかぬ体で白茄子を踏みつけた。ぽふっと足の裏で白茄子が消えるのを感じた。
私はそそくさとあいさつを交わして、何か言いたげな男の子の目を見ないようにしながら、佐々木の家をあとにした。
白茄子がブリーフケースに移動したのは気づいていた。
私は駅に向かって歩きながら、鞄のジッパーを開いた。白茄子がいた。
「いいかげんにしろよ。子どもには見えるのか」
「ビックリシタ」
「驚いたのはこっちだ」
白茄子は私の幻覚、私の妄想のはず。他人に見えるわけがない。私はそうしてある意味正気を保ってきたのに。
「あるかのように」接しているうちに、実体化したとでもいうのか。
昼近くなったので、私は駅前の定食屋に入った。天ざるを注文したが、目の前に出てきた揚げたての天ぷらを見て気が変わった。
「お姉さん、冷酒を二合ばかり」
熱々の南瓜や海老の天ぷらをかじって酒をすすった。香りの高いそばに山葵を乗せてたぐった。これはなかなかいい店だ。
白茄子は箸立てにもたれて座っていた。
「イイノカサケナンカノンデ」
「いいんだよ」
私は店を出て会社に電話した。
「奥田か。ちょっと営業回って直帰するから。ああ、区民文化センターからコーシンさんコースだ。夜は杉原部長に誘われてる。悪いがあとよろしく」
肩に乗っている白茄子に話しかけた。
「これでいいんだ」
昼を過ぎたばかりでまだ日は高かった。当たり前だ。
私はほろ酔いで電車に乗り、自宅近くの駅で降りた。駅前の商店街にある行きつけの小料理屋の暖簾をくぐった。そんなに大した店ではない。昼にはランチメニューもあるし、飲み放題の宴会も受ける。ただ、肴はうまかった。
「あら、火曜日なのに早いのね」
早速、女将が声をかけてきた。
主人は、奥の厨房から目だけであいさつをしてよこした。
「仕事が午前中で終わってね。飯はすませたんで、何かつまむものと、そうだな、芋のロックで」
目の前に白茄子が現れた。
「マダノムノカ」
「やかましい」
怪訝な顔の女将に、いろいろ独り言を言うようになってねと頭を掻いた。気にしないでくれと念を押した。
「頭の中で考えることは読めないのか」小声でささやいた。
「ハナシコトバデカンガエテミナ、コタエテヤルゼ」
私は舌打ちした。なら早く言え。
――お前は何者だ。
頭の中で強く思った。
「ダカラー、カミサマダッテイッテンダロガ」
本当に聞こえるようだ。これで独り言だと思われずにすむ。
――神様なわけないだろうが。そのへんちょろちょろしてるだけなのに。
「ジャナンダトオモウンダ」
女将がロックグラスと同時に、お通しらしきオクラの和え物と、平目の刺身を出してくれた。
――茄子の妖怪かなんかじゃないのか。しかしまあ、妖怪や化け物にしては怖くもなければ、貫目も足りないか。
「コロシテヤッタダローガ」
一瞬で酔いが醒める気がした。背筋が伸びた。
――本当にお前の仕業なのか。
「バケンモアテテヤッタシ、キンジョノヒトヅマトイイコトモデキタジャネーカ」
――なんでそんなことをするんだ。そんなことをするために現れたのか。「さっきから怖い顔で小鉢を睨んでるけど、虫でも入ってた?」
鱚の天ぷらを出しながら、女将が話しかけてきた。
「ちがうちがう。ちょっと仕事のことを考えていて」
「大変ね。まあ、おいしいもの食べてゆっくりしていって」
私は生返事をして焼酎を呷った。
小鉢のへりに座ってこちらを向いている白茄子を箸の先でつついた。
「ナニスルンダコノヤロウ」
――なあ、よく言うじゃないか、卵を買いに行った日のことを思い出せって。あれはなんなんだ。
「ソノママダヨ。オオゲンカシタジャナイカ。ジュンコト」
――それが覚えがないんだ。二人でスーパーへ行くことはよくあったけれど。
「ソンナダカラダメナンダヨ」
「なにがダメなんだ」
思わず声が出た。女将が怪訝な顔で振り返った。
女将と目が合って頭を掻いた。カウンターに視線を戻すと、白茄子の姿は消えていた。
ちょうどいい加減に酔いが回ってきたので、私は席を立った。
のれんをくぐって外へ出てもまだ日は傾き始めたばかりだった。白茄子は見当たらないが、じきに姿を見せるだろう。私は家に向かって歩きながら、ふと思い立って、いつも買い物をするスーパーへ向かった。順子がまだいたころ、たくさん買い込むつもりのときは、車で郊外の大きなスーパーへ出かけることが多かった。けれど、二人で卵を買いに出るだけならきっと近所のスーパーだったはずだ。
私はお湯割りのせいで少しふんわりとした気分のままスーパーに入った。プラスティックのかごを手に取った。食パンと卵でも買って帰ろう。トーストとコーヒーがあれば朝食は十分だ。卵があれば料理は何とでもなる。
野菜も少し買い足しておこうかと白ねぎを手に取ったところで、横に順子のいる気配がした。首を巡らせたが、もちろん死んだ妻の姿など見えるはずもない。カゴの中に白茄子が転がっているだけだ。
野菜コーナーを抜けて精肉のエリアまで来たところで、そばに積みあがった卵のパックを見て思い出した。白茄子の言う「卵を買いに行った日」は、順子の癌がわかって間もなくの日のことにちがいない。その日は、たまたま高級な牛肉が手に入ったので、久しぶりに本格的にすき焼きにしようということになったのだ。
卵のパックを手に取って、はっきりと思い出した。すき焼きの用意をしていて、手元の小鉢に入れる生卵が足りないことに気がついたのだ。それで二人でスーパーまでやって来て口論になったのではなかったか。白茄子の言う大喧嘩にはほど遠い、ちょっとした言い合いに過ぎなかったと思う。少なくとも私にとっては喧嘩という印象ではまったくない。
順子は気丈にふるまってはいたが、やはり乳癌の宣告はショックだったようだ。病院から帰って来てしばらくは、感情の起伏が激しくずいぶんと不安定だった。
このスーパーに卵を買いに来たのは、手術の日も決まったころだったので、それなりに落ち着きはじめていたと思う。それでもよく、ふと表情を曇らせてつぶやくことがあった。
「ねえ、私が死んだらどうする」
「死なないよ。手術は怖いだろうけど。先生も大丈夫だって言ってただろ」
私はいつものとは違う、少し高価な卵のパックを手に取った。
「今日はすき焼きだし、少しいい卵を買おう」
「そうね。でも私は死ぬのは嫌」
今日は気分がすぐれないらしい。家を出るまではそうでもなかったのに。
卵がならんだ棚の前に立って、順子は両手で顔を覆った。卵を買おうとしていた主婦らしき女性が、手を伸ばしたまま驚いた顔で順子を見た。
私は順子の二の腕をそっとたたいた。人前でなければ抱き寄せているところだ。
「ごめんなさい。不安が急に来てちょっとどきどきしちゃった」
「いいんだ。帰ってすき焼きを食べよう」
あの日、順子はすでに予後が悪いことを予感していたんだろうか。
「あなたは器用だし、しっかりしてるから、私がいなくても大丈夫だよね」
「もう、おかしなことを言わないでくれよ。ぼくには君が必要だし、生きていてくれないと困るし、君はきっと癌なんて切り抜ける」
「私はいつもあなたのことを考えている。私こそあなたがいないと困る。ずっとあなたのそばにいたい」
「だからずっと一緒にいられるって。君を一人で死なせたりしない」
私たちはスーパーのかごに卵をひとパックだけ入れたまま、レジに並んだ。
「めんどくさいと思ってない?」
「思わないよ。もうこの話はよそう。君の不安が増すばかりだ」
「だって怖いんだもの。私が死んだら泣く?」
「もうよそうよ。君には長生きしてもらうんだから」
「いいかげんな慰めはよして。私はそんなに長くないんでしょ」
その日はよほど不安定だったのか、順子の話は死の回りをぐるぐるとめぐるばかりだった。
私たちは数百円の支払いを終え、スーパーを出た。空気は乾燥していて、夜風が意外と心地よかった。
夜道を並んで歩きながら、順子がふいに口を開いた。
「ねえ、やっぱり私はこの癌で死ぬと思うんだ」
ぎくりとした。
「ほら。やっぱり私は死ぬんだ」
「いや。急にまた死ぬとか言い出すから」
「やめて。いいの死ぬのはいいの」
「よくない」
「私は死んでもきっとあなたを守りつづける」
「そんなのはいいから。ぼくは君を愛している。君が死ぬまで愛し続ける。ぼくの方が先に死ぬかもしれないけど。それでいいじゃないか」
「そうね」
順子はあきらめたようにつぶやいた。そのまましばらく黙り込んだ。
わが家が見えてきた。順子がにっこりと笑った。
「いい卵も買ったし、おいしいすき焼きになるわ」
大喧嘩でも何でもない。口論ですらない。不安がる順子と堂々巡りの会話をしただけだ。
カゴの中で卵のパックに腰かけている白茄子に話しかけた。
「思い出したよ。喧嘩じゃなかったけど、たしかに卵を買いに行った日のことを」
「タマゴヲカッタヒノコトヲオモイダシタノカ」
「ああ。お前の言うのが、あの日のことならな」
その瞬間、私は雷に打たれたような気がした。かごの中の白茄子を見つめて立ちつくした。
「お前は順子なのか」
絞り出すように言った。競馬で私に賞金をもたらした。会社で私を苦しめる部下をのぞいた。会社の若い女の子と親しくしたら、近所の人妻をよこした。すべて私を守るためではないのか。私の望みをかなえるのではなく、順子の意に添うようなご利益を、私にもたらしたのではないか。
「サアナ。ジュンコナンテシラネーヨ」
私は確信に近いものを感じながら、レジのカウンターにかごを乗せた。レジの女性スタッフは、いつものように手際よくバーコードを読み取っていった。白茄子は卵のパックにしがみついたまま、レジの女性にバーコードリーダをあてられていた。もちろん、バーコードの上に腹ばいになっている白茄子が悪いのだ。
私は買ったものをカバンから取り出したエコバッグに詰め替えて、スーパーを後にした。まだ日は沈み切っていなかった。あの日のような夜風には時間が早いようだ。生ぬるい風が、酔いで火照った頬を撫でていった。
「なあ、そんなに僕が心配かい」
いつの間にか肩の上にいた白茄子に話しかけた。
「シラネーヨ」
季節も変わって、順子の一周忌は無事にすませた。小さい方の骨壺は寺に納めて、位牌を置くために小ぶりな物入のような仏壇を買ってきた。文殊精機の百周年イベントは快晴に恵まれて非常にうまくいった。会長はお気に入りの演歌歌手よりも、たくさんの社員が家族連れでやって来て楽しく過ごしてくれたことがうれしかったそうだ。麻野さんとはその後も何度か食事をしたが、それ以上の関係には進まなかった。そのうちに体調を崩したとかで退職して北陸の実家に帰った。辻原さんはご主人の海外転勤があって、今はシンガポールにいるらしい。奥田係長は浦和の営業所に課長補佐で栄転した。小林係長はまだ私の下でがんばってくれている。佐々木のことはもう誰も口にしない。白茄子の姿はいつの間にか見なくなった。
(了)
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