クィンテッセンスという考え方
1999年7月23日公開。昔から気になってるんだけど、あまりうまく書けてない。
ここで書こうとしていることは、かなり以前に片岡義男のエッセイで読んだ内容を踏まえているので、とりあえずお断りしておく。興味のある方は、そちらも当たられたい。本来ならどの本に収められているかを明らかにしなければならないところだが、「二階の押し入れの奥にある十数箱の段ボールのどれかに入っている」という状態なので確認できない。これについては心よりおわびする。
さて、本論である。Quintessenceという語は、一般には「真髄」なり「精髄」と訳されることが多い。ここでの用法は少し異なるが、語義はさして重要ではない。ニュアンスだけが伝わればよいと思う。
片岡義男は、たとえば鉛筆のクィンテッセンスとして「ステッドラーの2B」を、ケチャップのそれとして「ハインツのオクタゴナルボトル」を挙げていた。
なにぶん学生時代、つまり十年以上も前に読んだだけのエッセイなのでディテールに自信はないが、彼はそれら(もっとたくさんの例があった)を挙げつつ、「ベストというものは常によりすぐれた何かに取って代わられる可能性がある。しかし、これらクィンテッセンスというものは決して他のものでは代替できない」というような意味のことを述べていた。
これだけでもおおよそのニュアンスはご理解いただけると思うが、この考え方は私に非常に影響を与えた。今も捕らわれていると言ってよい。
ある一般名詞に対する、典型としての固有名詞。あるものについて、「それ」と「それ以外のもの」とに分類できるほどの力をもつもの。そういったものをこそクィンテッセンスと呼ぶ。
私が、自己紹介の「好きな食べ物」に「吉野屋の牛丼」を挙げたのも、その考えによる。もちろん吉野屋のそれよりうまい牛丼はいくらでもあろう。たとえば、「どっちの料理ショー」に出てきたもの、道場六三郎の作るであろうもの、あるいは難波道頓堀「はり重」のそれ。しかし、それらは「ベスト」を競うものでしかあり得ない。
私は、牛丼のクインテッセンスは吉野屋のそれであると思う。安っぽさも、肉のレベルも、汁の味付けも、「牛丼」といえば吉野屋のものが即座に思い浮かぶし、それが牛丼というものの精髄であろうと考える。「おいしい牛丼」ではなく、「豪華な牛丼」でもない、形容詞抜きで定冠詞のみの「牛丼」は吉野屋にしかない。
そして、私はとくにブランド信奉者ではないし、買い漁ろうとも思わないが、腕時計は中クラスのロレックスを使っている。これも同じ考え方による。金があったところで、ピアジェもブルガリも欲しいとは思わない。
スーツなら初期のポール・スミス。カジュアルならポロではなくてJ.CREW。値段も手頃でデザインはオーソドックス、しかも洒落ている。王道というのとも少し違う(それならサヴィル・ロゥやブルックス・ブラザースを挙げるべきかも)。多少の遊び心も含めて、私は男の衣服のありようをそこに感じる。
たしかに、時計も服も同じようなものは掃いて捨てるほどあるし、もっとリーズナブルなものも、もっと高級なものもごまんとある。でも私はそれらを必要としない。私がクィンテッセンスであると思えるものが身につけられればよい。
クィンテッセンスという考え方は案外退屈かもしれない。しかも保守的に陥るおそれもある。しかし、自分なりの判断でクィンテッセンスを見つける作業そのものは少なくとも面白い。おそらく自分の趣味を磨き、眼力を鍛える効果くらいはある。軸を決めることによって、そこからずらす面白さも味わえる。
「どっちでもいいけど、こっちかな」程度のことしか言えず、自分で選択できない人間の方がよほど退屈ではないか。
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