斜視をきっかけに考えた
1999年7月23日公開
ずいぶん前になるが、会ったことのない人とのチャットの最中に、私の斜視の話が出て、「でも、恋人と見つめ合えないでしょう」と言われた。心配というか同情というか、とても心遣いの感じられる調子だったので、私は苦笑せざるをえなかった。もちろん、傷つくわけもなく、とくに不愉快にも感じなかった。
許せないのは、あるいはとても後悔したのは、直後の自分自身のレスである。
「そんなことないよ。大丈夫だってば」
もちろん、見つめ合えるから見つめ合えると答えたわけだが、私はそれ以来ずっと、自分の言葉が気になって仕方がない。
(ここで注釈。斜視の人間も恋人と見つめ合える。両眼では困難にしても、ふだん使うドミナントな方の眼は相手にも十分わかるので特に問題はない。)
賢明な方はすでにお気づきであろう。ここでの正しい答えは「それがどうした」である。
喧嘩を売っているわけではない。「万一見つめ合えないとしても、他人に同情される筋合いはない」と答えるべきだったということである。弱った。これもでムキになっているようにに見える。
つまりはこういうことだ。私が本当に眼が不自由だったら、(ディスプレイが見える見えないはこの際関係ない)「そんなことないよ」というレスは決して返せなかっただろうということなのだ。私は無意識のうちに(いや、意識的にか)、「私は健常者の側にいる」と相手に対して主張しようとしてしまったということなのだ。たとえ一瞬でも、「恋人と見つめ合えないのは同情に値する」という価値意識を共有し、まちがった否定の仕方をしてしまったということなのである。
人権感覚の鋭敏な人間は、これを差別意識と呼ぶ。
障害者は一般に「同情」を拒絶する。「かわいそう」という言葉に拒否反応をを示す。『五体不満足』の著者、乙武洋匡氏はそれを明快に「不便と不幸はちがう」と言う。
私たちは町で重度の身体障害者を見て、簡単に「気の毒に」と思ってしまう。電車の中で奇声を上げる知的障害児を見て、ふと「かわいそうに」とつぶやいてしまう。
私はそのこと自体は必ずしも差別であるとは思わないが、一人の人間を一個の個人として見るのではなく、外見を見ただけで容易に「かわいそうな人々」というカテゴリーに押し込めてしまうということについては、常に自戒しなければならないと思う。
「恋人と見つめ合えないこと」は不便ではあっても不幸ではない。見つめ合えなくても、「言葉」がある。「言葉」がなくても、触れ合うことはできる。それさえ無理であっても、「愛」があれば二人は満たされるのではないのか。
私は、そんなふうに答えなければならなかった。
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