「筆先三寸」日記再録 2000年4月
2000年4月1日(土)
今日は知ったかぶりじゃなくて、ぜんぜん知らない話を書く。
先日、科技庁だか裁判所だか国会だかのえらいさんが、「原発の『もんじゅ』ってあるやん。あれもうぼちぼち動かしてもええんちゃうん」と言ったとか言わないとかいうニュースが流れていた、と思う。
しかし、俺ってなんでこんなにいいかげんなんだろう。何のためにインターネット使ってるんだか。どこかのニュースサイトの当てはまる記事を検索してリンク張ればいいだけなのに。
でもまあ、それはただの話のマクラなのでどうでもいいのだが、気になってるのはよくある放射能漏れのニュースのときの話である。
「もれた放射能はなんとかピコキュリーで、これは自然界に存在するものと同程度なので健康には問題ありません」
とかなんとかいうでしょ。かならず。
私は、放射能と放射性物質と放射線の区別がつかないとか、まあ根本的にわかってないのだが、あの表現がどうにもわからない。ていうか、うさんくさいものを感じる。(ただ、「現場周辺の測定値が通常の自然界の値と同程度なのでOK」というのならわかる。)
だって、漏れてる分が自然界に存在するものと同程度だからといって、安全とは限らないと思うんだけれど。それとも、放射能漏れを起こした施設の周辺は、神様が自然界の分をまけてくれるんだろうか。
たとえば、井戸の底で胸まで水につかって立っているとする。そこで、上の奴から、
「ほなら、あと1メートルほど水たすぞー。今つかってる深さより少ないから大丈夫やー」
とか言われたらどうします?
そんなもん、おぼれるっちゅうねん。大丈夫とちゃうっちゅうねん。
それまで鼻の下まで水につかってたとしたら、3センチ足されてもおぼれるっちゅうねん。
だからなんか、自然界と同程度とか、自然界の数%とか言われても信用できないんだけど。
海水の温度や塩分濃度がほんの少し上下しただけで、地球の生態系は大打撃をうけるとかよくいうくらい、精緻なバランスの上で進化も生命も成り立ってるんじゃなかったっけ(いや、これも聞いたような気がするだけの話なのでよくわからないけれど)。
それとも放射線は、ストーブなんかの温風みたいに、普段20度のとこへ20度の温風を吹きつけても40度には感じないとか、そんな感じなのだろうか。どう考えてもそんなことはないと思うけれど。
誰か、理系の人とか関西電力の人とか東海村の人とか広瀬隆とか、くわしい人は教えてほしいと思います。
私は原発どころか反原発もよくわからないので。
2000年4月3日(月)
昨夜、更新できなかったのは、マイマシンにICQを導入しようとしていたせいです。私はいっぺんに二つのこととか、一日に複数のタスクをこなすとかができないたちなのです。
でまあ、なんとかインストールも登録も済みまして、UINというんですか、なんか番号ももらいまして、それであれこれできるというわけらしいです。ちなみに、その番号は、「69608855」となっております。とりあえず、リストへの登録には私の許可が要る設定になっているらしいのですが、めったなことでは拒否もしませんのでお気軽にどうぞ。
しかしまあ、そうは書いてみても、これまた宝の持ち腐れというか、猫に小判というか、豚に刃物というか、そんな感じになってしまうのだろう。そもそも、私の身の回りには、ICQを入れている人間はおろか、知っている人間もほとんどいない。ほんのちょっとしかいないWeb上の知り合いについても、ICQなんてしてらっしゃるのかどうか。
たぶん自分から、見知らぬ相手を検索することなどないだろうし、メールじゃなくてICQでURLやファイルのやり取りを、自分が他人とするとは思えない。
何のために私はこんなもの導入したんだろう。うーむ。考えたら、携帯電話も家族以外からかかってくることはないしなあ(家族以外は今年に入って2回くらい)。iモードメールは、まだ1通も来ないし。あ、普通のメールも、メーリングリストと仕事の連絡以外、長らくやり取りしてない。
我ながら素晴らしい。これだけコミュニケーションツールを持ちながら、ぜんぜん振り回されてない。ていうか、携帯なんてまるっきり金の無駄のような気がする。
ほんと、何のために私はICQなんてはじめたんだろう。
これについても誰か教えてくれませんか?
ICQで。
2000年4月4日(火)
えーと、木村拓哉と常盤貴子の「ビューティフル・ライフ」が先日最終回を迎えましたが、みなさんご覧になりましたか。
私は見てません。1回も見てません。
だから、自分で書き出しておきながら大変恐縮なんですが、この話はこれでおしまいです。続けようがありません。
ただ、昨今のトレンディードラマとやらを見ていると、私にはとても残念なことがあります。
日本には本物のセクシー女優がいないのです。タフで知的でしびれるような。
今、私は「氷の微笑」なんかのシャロン・ストーンを思い浮かべているわけなんですが、日本には彼女に対応する女優っていないような気がします。
セクシー女優の条件を極めて単純化して、「知的(かつ精神的にタフ)であること」と「ナイスバディ(かつセクシー)であること」の二つとしますが、現在の日本ではこれらを両立させることは許されていないようです。
トレンディドラマのヒロインは、先の常盤貴子や中山美穂などが代表格なのでしょうが、必ず性的魅力は抑える形でのキャラクターないしは役作りが要請されています。深津絵里であろうと菅野美穂であろうと中谷美紀であろうと。
また、こちらはバラエティー路線が多いのですが、山田まりあや優香、釈由美子、さとう珠緒などは、その魅力的な肉体にもかかわらず、「なんでそこまで」と思うくらい馬鹿であることを要求されています。
切り札としては、藤原紀香と松嶋菜々子がいますが、これらも芝居そのものに難があるせいか、もうひとつしっくりきません。将来、川島なお美化せぬことを祈るばかりです。
逆に日本で人気のあるのが、少女っぽさを引きずってる系ですね。広末涼子とか田中麗奈とか。
なんでかなあ、とも思いますが、だいたい想像はついています。日本の男が腰抜けなのです。
タフで知的で性的魅力にあふれた女性に、きちんと対処することができないのです。だから、(Vシネマなんかはまだしも)テレビのような生活空間を侵すものの中にそれらの存在を許さないのです。怖いからね。
まことに情けない話ではありますが、実は女性にとってこそ不幸だと思います。だって、「カッコイイこと」が許されないんだから。
昔は夏木マリとかいたのにね。そのもっと昔は鰐淵晴子とか。
2000年4月5日(水)
私は大阪でもずいぶんと郊外の方に住んでいるのだが、そのせいか妙なヤンキー車を見ることが多い。あの手の車って、中途半端な田舎になるほど多くなるような気がする。
まずシャコタン、そして大仰なエアロパーツ。真っ黒なスモークガラスに、拳骨が楽に入りそうな排気管。ズボボボボボと地響きがするような排気音と豪華カーコンポの大音響もポイントである。そこへなぜか真っ青のフォグランプがついてたりする。
まあ、夜中に住宅街を走るのさえやめてくれたら、とやかく言うような趣味ではない。でも、そういうのが趣味の人には悪いのだが、私はそういう車を見るたびにつぶやいてしまうのである。
「あ、アホの子や、アホの子。アホの子の車や」
子どもの手を引いていても、家族で車に乗っていても、必ず言ってしまう。「うわ、めっちゃ頭悪そう」とか。
それで、先日、上の息子と近所のコンビニへ行ったときのことである。
買い物を済ませて店を出るのと同時に、そういう車が駐車スペースに入ってきて、目の前に止まったのである。
ボッボッボッボッボッとうなる車から出てきたのは、見事な金髪のヤンキーであった。それも眉毛がない。
私は思わずいつもの口癖を呑みこんだ。
すると、私の代わりに息子が、
「お父さん、ちょっと見てー。アホの子や。車もアホの子の車や」
と、大きな声で言ってくれた。父親の言葉を聞き覚えていたのだろう。
もちろん相手にも聞こえたらしい。私と息子は物凄い目でにらまれた。
たとえ相手が野生のライオンであっても、身を挺して息子を守るのは父親の義務である。私は息子に言った。
「ぼく、どこから来たん? お母さんとお買い物か?」
2000年4月6日(木)
今日の更新:バカエッセイに「親父のロレックス」
上の息子が、唐突に言った。
「インドの首都はニューデリーやねんで」
急に何を言いだすのやら。なんでも、保育園では教室で時間を過ごすのに、お絵描きや粘土遊びのほかにも、国旗を覚えさせたりもするらしい。まあ、遊びのようなものらしいのだが。
「すごいすごい。そうやそうや。よう知ってるなあ。かしこいなあ」
何でもかんでもほめておくのは、子育ての基本である。
で、もっと知ってるかと思って聞いてみた。
「ほな、アメリカの首都は?」
「しらん」
「イギリスの首都は?」
「うーん、しらん」
「え、フランスは?」
「わからーん」
これはまずい。やさしいのを聞いて、もっとほめたおしてやろうと思ってたのに。有名な国であることはどうやら気づいているだけに、息子もちょっとへこみかけている。
「んーと、じゃあ、ほかにどっか知ってる?」
「うん。セントクリストファー・ネイビス!」
なんやそれー。どこの国やー。お父さんは、そもそもそんな国があることさえ知らんぞ。
「えー、そんな国あるのか。お父さん知らんぞ。ほな、首都は?」
「バセテールやん」
息子は小鼻をふくらませて自慢げである。
「なんでそんなわけのわからん国を知ってんねん」
ほめるつもりも何も、くやしいお父さんに変じた私は、もはや詰問口調である。セントクリストファー・ネイビスとやらの国民には申しわけないが。
それではここはひとつ、お父さんも名誉を挽回せねばなるまいと、切り札の質問をした。これを聞くとなると、こちらの勝利は疑いないので、私はニヤニヤして聞いた。
「そしたらな、スリランカの首都は知ってる?」
しかし、間髪を入れず、息子は胸を張って答えた。
「スリジャヤワルダナプラコッテ!」
……なんでそんなもん知ってる。ロンドンもパリも知らずに、なんでそんな首都名が言える。
負け惜しみで言うのではないが、なんだかすごく偏った知識である。
決して負け惜しみではないが、これを偏向教育といわずしてなんという。
産経新聞に投書するぞ。
負け惜しみじゃないぞ。
2000年4月7日(金)
今日の午後、先日の講演のお礼に大阪市立美術館へ行ったので、ついでに「フェルメール展」を見てきた。仕事の合間ということもあり、駆け足でざっと見ただけなので、くわしい感想はもう一度ちゃんと見てから書こうと思う。
でもやっぱり、フェルメールはよかった。驚いた。私には、巷間よく言われる色の話や光線の話はもうひとつピンと来なかった。もちろん、黄と青をあれだけ使って破綻のない画面にするのは当代一流のアートディレクターにも困難だろうとは思うし、おなじみの左上方の窓から差し込む光の静謐さはやはり十二分に素晴らしい。
ここは少しだけ、いろんな絵を見くらべながら感じた直観を書く。たとえば他の画家の描く、静物画は広告写真、肖像画は人物写真、風景画は風景写真、ある種の風俗画は映画のスチール写真に対応するように思えるのだが、フェルメールの絵は映画フィルムの最良の一コマを切り出したように見えるのである。うまく言えないのだが、「ドラマ」ではなく「動き」が、「空間」ではなく「空気」が封じ込められているように見えた。
と、まあ安物の批評家のようなことはさておき、大阪市立美術館は天王寺公園にある。天王寺は一般には阿倍野とも呼ばれ、大阪人にはなじみの深い土地である。動物園があり、新世界の通天閣も間近で、日本橋の電気街も歩いて行けぬ距離ではない。
で、その阿倍野には地下街があり、略称を「あべちか」というのだが、今日そこを通って驚いた。柱という柱に、こんなのぼりや垂れ幕が貼り付けてあるのである。
街娼・キャッチセールス お断り
あべちか環境浄化活動実施中
が、街娼て! そんなん普通、いてたとしてものぼりには書けへんやろ。それとも、目に余るほどたくさんいるのか。
しかし、街娼て……。どこの国やここは。
2000年4月8日(土)
4月5日の日記のラストについて、私が本当にそんな台詞を言ったのかどうかお疑いの向きもあると聞く。
断言しますが、言いましたよ、言いました。
しかし、他人のふりをした後、子どもを一人残して立ち去るだけの根性はないので、これについてはひとつのネタ、というか洒落のつもりで言った。子どもの手も引いてたし。
この辺の呼吸を文章で説明するのは非常に困難なのだが、「びびって子どもと他人ふりをしてしまうお父さん」という、コントではベタなネタが、一瞬のうちに共有されるであろうという確信(あるいは共有させられるという確信)があってこその台詞ではある。
実際に、私は笑顔でそれを言ったし、息子は叱られたことがわかったようだし、肝心の兄ちゃんは「くそ、ほんまにもう」という表情で店に入っていったし。私の目論みは明らかに成功したといえる。
あー、もー、説明しにくいなあ。こういう息や間は、経験を積まないと理解しにくいかもしれない。
他にも実例を挙げてみよう。
その昔、結婚前に高校時代の親友に彼女を紹介したことがある。その友人をひとまずKと呼んでおく。
Kは、待ち合わせた喫茶店に遅れてやってきた。私自身、会うのは一年以上間があいていたので、どうも懐かしい気がしていた。
しかし、Kは現れるなり、「こんにちは」も、「はじめまして」も、「ひさしぶり」も、そして「遅れてすまん」すらなく、開口一番、
「あれ? こないだの子とちがうやん」と言った。
安物のドラマであれば、ここで私は激怒、Kはきょとん、彼女は顔面蒼白、となるところだが、私たち三人は即座に爆笑した。一挙に場がなごんだことは言うまでもない。
その台詞のベタさ加減、台詞そのものがウソであること、「ほんまにそんなこと言うか」のツッコミ、それらの認識が三人の間で寸分たがわず一致したゆえの哄笑である。
ほかにも、Kは、数年間何の連絡も関係もなかった友人に久しぶりに会うなり、「久しぶり」すら言わず、「お前このごろ評判悪いで」と言うこともよくしていた。評判なんて聞いてるわけないのに。
この友人は、今や気鋭の救命救急医なのだが、そのあたりの微妙な読み具合は天才的であったと思う。その才能を職場で発揮してないことを祈るばかりである。
他には、自分が係長に昇進したとして、同期採用の仲のよい平社員にこう言ったとすればどうだろう。
「君、誰やったかなあ。少なくとも、ヒラにタメグチきかれる覚えはないねんけど」
私は、この台詞を言える相手、言えない相手、言えるタイミング、言えないタイミング、すべて一瞬で判断する自信がある。いや、それくらいなら、うちの役所の人間は大半が理解できると思う。
今日はとてもわかりにくい文章のわかりにくい日記で申しわけないが、関西の方ならおおむねわかっていただけると思う。
ともあれ、一瞬の判断で(相手の激怒と爆笑の)紙一重を見切るというのは、実にスリリングでやめられない。
これをお読みのみなさんも、明日から、「しゃれにならないようで、実際面白いネタ」というのを身に付ける訓練に励みましょう。そんな訓練いやですか?
何度も失敗して、他人に怒られながら、ぎりぎりの線を極めたいとは思いませんか? 思いませんか。そうですか。
2000年4月10日(月)
私の職場は事業所でもあるので、勤務時間にも早出と遅出の二種類がある。
早出はA勤とも呼ばれ、これは朝から夕方のごく普通のやつである。遅出はB勤といい、これは午後遅くから夜の十時前までの勤務である。
土日出勤もある小人数の職場で、私たちはそんなシフトをやりくりしながらみんな働いている。
で、今日の話である。
昨夜も遅くまで起きていた私は、眠い目をこすりながら愛妻弁当を抱え、朝のラッシュにもまれながら職場にたどり着いた。
しかし、職場に着くなり上司に言われた。
「あれ? 君、今日B勤とちゃうの」
え?
思わず手帳を確かめると、まさしく今日はB勤にあたっている。
てことは私、もっとゆっくり寝ててもよかったんですか。
てことは、ゆっくり朝ご飯食べてくつろいで、梅田で本屋に寄ったり、おいしいお昼ご飯を食べたり、喫茶店でマンガ読んだりしてから来てもよかったんですか。
でも来ちゃったってことは、私これから朝の9時過ぎから晩の10時前まで働かないといけませんか。
今からA勤に変えてもらうというわけにはいきませんか。ダメですか。そうですか。
もうほんとに、脱力感全開である。
そりゃ、仕事の忙しいときなら、そのくらい職場にいるのは別に珍しくもないが、自分のスカタンが原因でこういうことになるというのは情けないことこの上ない。
疲労感も二倍である。徒労感は十三倍くらいかもしれない(当社比)。
というわけで、家に帰ったら11時半であった。
だからおもしろ日記なん書けるもんか。
ふーんだ。
2000年4月11日(火)
久しぶりに少し本の話。
映画のCMがこのごろよく流れている、ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』(文藝春秋 本体1857円)を、人に借りて読んだ。貸してくれたのは同僚の女性なのだが、「ディック・フランシスの新刊は必ず買う」とか、「うん、クィネルとかも好き」とか、素晴らしいというか恐るべきというか、カッコイイ趣味の持ち主なのである。
閑話休題。というわけで、小説はとても面白く読めた。御都合主義が鼻につくとか、悪役が魅力に乏しいとか、わりと大きな難点はあるものの、魅力的な点も多い。まず、主人公のリンカーン・ライム(頚椎損傷で自由なのは首から上だけという元鑑識のエキスパート)と、アクションパート担当のヒロインでもあるアメリア・サックス巡査の絡みがいい。性格づけが明確で、厚みもあって、アメリアの感情の変化だけでも読み応えがある。もちろん多くの脇役もキャラが立っており、会話を読んでいるだけで楽しい。これは明らかに作者の才能であろう
それと、ライムを中心とするチームが犯人を追い詰める武器でもある、鑑識手法のディテールが妙に詳しいのもうれしい。私は結構、ガスクロマトグラフがどうとか、指紋採取がこうとかいう薀蓄が好きなのだ。
しかし、「新米の美人女性捜査官」と「超一流の腕利きでも偏屈(もしくは変人)オヤジ」のコンビが活躍するミステリって、最近増えてるような気がする。もちろんブームの嚆矢は、トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』なのだろうけれど、ダニングの『幻の特装本』といい、ディヴィッド・ローンの『音の手がかり』といい、それぞれ工夫を凝らしているのはよいのだが(小説としては極上)、どうも設定に関しては食傷気味である。あ、マイクル・Z・リューインの『刑事の誇り』てのもあった(すごい好き)。でもあれはもうひとひねりして、新米の女性刑事の方が車椅子なのだった。
鼻っ柱の強い、美人で若い女性刑事が、伝説の大先輩に挑みかかる図というのは絵になるのはわかるが、もうそろそろ、それはやめとこうと誰かが言い出してもいいんじゃないだろうか。
逆のパターンで、「若い男性刑事と有能な中年女性」では本が売れないとか、映画にならないとかあるんだろうか、やっぱり。すると、ヤッフェの「ブロンクスのママ」シリーズは、例外中の例外ということか。面白いのに。
新人が一生懸命で、それを導くベテランはプロ意識の塊というのも、ひとつの紋切り型になってしまったようである。
なんかこう、新機軸はないもんでしょうか。「優秀な若手」と「どうしようもない上司」とか。
あ、それは「ドーヴァー」シリーズか。
2000年4月12日(水)
昨日は突然ミステリの話なんか書いてるけれども、昔に読んだ本ばかりなので、勘違いとかにお気づきの方は掲示板ででもつっこんでください。だいたい、作者と書名はかろうじて覚えてても、主人公の名前すら覚えてないような状態なんだから。話の中身もかすかに残ってるイメージだけだし。
よく書評とかエッセイでは、博覧強記というのか博引傍証というのか、いろんな本を引き合いに出して書く人がいるけど、あれは全部覚えてるんだろうか。引用なんかだとよほど覚えこんでしまってるところ以外は無理だろうけれど、あらすじとか概要とかなら読み返したりしなくてもいいのだろうか。本当ならマジ尊敬してしまう。
家に字引を置くのを恥としたという清朝学者じゃあるまいし、私には絶対無理。読んだ本は読むそばから忘れる。「読んだかもしれない」という記憶だけが、うっすらと残るくらいである。だから、私は本棚の前に立つと「未読」の本ばかりでうれしくなる。うーん、かなり痴呆が入ってるような気がしてきた。私も若いうちから苦労なことである。
でまあ、話は変わりますが、「ショムニ」が再開しましたね。もうすでに原作から遠く離れて、現代OL版の時代劇のようになってしまっています。前作では、京野ことみがあまりに「塚原」だったので、立ち姿だけでも笑えたんだけど。
しかし、結局これは見てしまうような気がします。コメディ好きだし。それに、ローアングルを多用するカメラワークは、制服フェチと脚フェチにはたまらないのではないでしょうか。ないでしょうかって聞いてますが、少なくとも私にはたまりません。一点残念なのは、後テーマでしょう。江角さんが踊りながら歌ってますが、かなりアレです。歌える女優今井美樹の敵ではなさそうです。
そして10時からは「明石家マンション物語」です。さんまは離婚して以来、抜群に面白くなったような気がしませんか。攻撃的なツッコミだけで笑いを取ることがずいぶんと少なくなって、余裕を持って自分を笑わせることができるようになったように思います。「から騒ぎ」もその意味ではさんまにとっては究極の研究室なのでしょうが、本当に笑って見てしまいます。ベタにもなりきれず、前衛的というわけでもなく、そこそこ保守的で、「芸のないのが芸」なのは事実ですが、さんまさんのあの呼吸は日常生活でもとても参考になります。参考にするなよ。
なので、ここしばらくは水曜日の更新は期待しないでくださいね。テレビ見るのに忙しいので。
2000年4月13日(木)
アクセス解析を見てると、なんだか日記からトップに戻ってくる人が急に増えています。たぶんまた誰かが日記に直リンクを張ってるのだろうと思ってたら、速攻で見つけちゃいましたよ。
なんとまあ、旧ホソキンこと愛・蔵太さんの「ヘイ・ブルドッグ」が犯人なのでした! 犯人っていうな。
それも4月13日付の「今日の言葉」と「仮想日記」の両方に! それもほめてますよ!
まったくもってうれしい話でありがたいことです。
こういうことを書くと、これまたどこかのお利口さんに、「ホソキンがどうした」とか、「バカみたいにうれしがるな」とか、「大手にヘコヘコしやがって」とか言われたりするのでしょうが、知ったことではありません。
ほめられれば素直に喜んでみせる、お礼のひとつもきちんと言う、それが大人のマナーというものです。
日記中心にテキストサイトを回っていると、いろいろと毀誉褒貶の激しい愛・蔵太さんですが、私は単純に大したものだと思っています。誰に頼まれたわけでもないのに、毎度毎度あれだけ読んで回っていちいちコメントつけて。他人の日記の引用もして、自分の日記も書いて、メルマガも作って、メーリングリストも主宰して。それで孤軍奮闘で敵ばっか作って。そもそもあの人、サラリーマンらしいのにいつ寝てるんでしょうか。
批評の態度や中味については、私も含めて誰しも思うところはあると思います。私にしても、「ある種おすすめ」に挙げられて深く傷ついた人を知っていますし。
しかしながら、あの物量と首尾一貫したスタイルには敬意を払わざるをえません。その他にはどう文句をつけてみても、彼に対する好き嫌いや、趣味や感覚の違いを不満に思うといった、個人的な感情のレベルでの批判になるような気がします。批評そのものは印象批評の域を超えてないわけだし。
ただひとつ残念なのは、ホソキン改名後の「愛・蔵太」というハンドルネームです。ラヴクラフトのつもりだということですが、あれほど本を読んでる人なのに、渋いところを突こうとして俗に落ちてしまっています。敬愛してるというのなら文句をつける筋合いのものではありませんが。
とにもかくにも、私自身は、「とても重宝する」という感じでブックマークしています。それ以外は「特に言うようなことはありません」。
2000年4月14日(金)
今日は人事異動という大イベントがあったのだが、帰り道でもっと面白いことがあったのでそっちを書く。
なんとー! 私は今日、駅から自転車で帰る途中、自動車に轢かれてしまいましたー! ジャジャーン!
事故の状況は、文章では説明しにくいのだが、自転車で歩道をまっすぐ走っていて、交差する道路を横切ろうとしたところへ、左側から右折してきた車に突き当たられたのである。道は暗かったし、道路は車でいっぱいだったので、私の自転車もほとんど見えていなかったのだろう。
でも、事故といっても大したことはない。自転車は、前輪部分を轢きつぶされてパーになってしまったものの、私は膝を小さくすりむいただけでなんということもない。普通に歩いてて転んだよりも、ダメージははるかに少ないくらいである。
驚いたのは、その軽自動車を運転していた女の子のようであった。
あわてて飛び降りてきた。
「だ、だいじょうぶですか? すいません、もうほんと」
という感じで、見事にあわてている。年のころは二十歳そこそこというところか、芯はしっかりしててもおとなしいといった、感じのいい女性である。
思わず大丈夫大丈夫という私に、
「いえ、でも病院近いですから」とか、「警察とか呼ばなくていいですか」とか、なんかJAF推薦というか、非常に模範的なドライバーである。
もちろん私は全部断りました。どこも痛くないし。後遺症もなにも、どこも打ってないし。
でも、前輪がポテトチップのようになってしまった自転車を見下ろして困っていると、彼女が、
「自転車は弁償しますから」
と言ってくれた。そして、
「今、二万円ぐらいしか持ち合わせないんですけど」ときた。
すばらしい。それだけあれば十分である。もとは四万ほどした自転車だが、減価償却は終わっている。
「あ、いや、それで十分ですよ」
と言ったのだが、彼女は聞かない。
「いえ、それだけでは悪いですから。この近くに知り合いがいるので、ちょっと待っていてください。五分くらいで戻ります」
というなり、車でブーンと走っていった。二万でええっちゅうてんのに。
待ってる間に、いろいろ考えた。彼女にしてみれば車を下りてみたものの、相手に怪我もなく、コワイ感じのお兄さんでもないので、さては逃げやがったかとか。知り合いのいかつい男を連れて来るんじゃないかとか。「くぉら、おんどれかい、コイツの車に傷つけたんは」とでも大声で言われたら、小便チビってしまうなあ、とかも思った。我ながら根っからのネガティヴ・シンキンガーであると思う。
しかし、彼女は本当に五分で帰ってきた。おまけに五万もくれた。
「高そうな自転車だし、あと少しお気持ちだけ」とか言って。
すまなかったメロス、私の頬を打ってくれ状態である。疑った私が悪かった。
いくらなんでも五万は多いと思ったが、私の方から値切るのもおかしな話なので、形だけ遠慮して結局もらった。ま、またいい自転車買えばいいやと思って。
それでその場で別れたのだが、心から申しわけなさそうに、心配そうに去る彼女に、私が掛けた声が情けなかった。
「ありがとうございましたー」
少なくとも轢かれた側の人間の言葉ではない。正直すぎるぞ。
2000年4月16日(日)
金曜日に人事異動があったのだが、発令式で、やっぱり私は寝てしまいましたー! ヒューヒュー!
発令式というのは、その日に異動する何百人という人間が大きな会場に集まって、辞令という紙切れを一人ずつもらうための式典なのである。まあ、市長の訓話もあったりして、卒業式みたいな感じである。
集まっているのは当然四十前後の大人ばかりなので、式が始まると水を打ったように静まり返る。私語なんてとんでもない。咳払いさえはばかられるような静寂が、広い会場を覆うのである。そこで一人ずつ名前を呼ばれては、立ち上がって正面の発令台まで辞令を受け取りに行く。
私は最後の方に座っていた。腕時計の秒針を見ながら、一人ずつの呼ばれる間隔を計測した。すると、だいたい一人あたり6秒前後で次の名前が呼ばれる。ということは、私が呼ばれるまで、あと30分は優にある。
よけいな計算はしなければよかった。安心したとたん、私は眠りに落ちていた。
さすがの私でも、名前を呼ばれるまで眠りつづけていたということはないが、あとでそばの人に「君、ええ度胸してんなあ」と言われて少しへこんだ。
で、異動先である。
私はとうとう教育委員会から、ほり出されてしまいましたー! ヒューヒュー!
嫌われてんのか? オレは嫌われてんのか? 名前に「教育」のつく専門職なのに、教育委員会にはいらんのか?
そして今回も本庁ではなかった。市役所に奉職して十余年、私はいまだに市役所内に机を持ったことがない。
またもや出先である。といっても今回は市役所のブランチで、ハコも大きいのでたくさんの人が働いているのだが。
でも、面識のある人が一人もいない。10年以上役所にいても、知らない人ばかりである。
担当するであろう仕事も、今まで私のやってきたのとはぜんぜん違うようである。また、一から勉強のしなおしである。
いじめか? これはいじめか? それともこれはリストラの勧奨か? オレにやめろというのか?
そんなネガティヴ・シンキングはよしにしよう。
これは試練のようにも見えるがチャンスなのだ。私はきっと能力と仕事ぶりを見込まれて新天地へと送り込まれるのである。いわば斬り込み隊長というか、鉄砲玉のようなものであろう。
てことは、使い捨てか? 期待通りの役目を果たしたら、あとはコンクリ詰めで魚の餌か? それに、期待を裏切ったら破門か? もうこの世界では飯が食えなくなるのか?
……うーん、またコワい考えになってしまった。
もっとポジティヴに考えるべきである。
私はやはり期待されているのだ。困難な課題を多く抱える環境で、期待通りの成果があげられるであろうと期待されているのである。
でもそれはどんな期待だろう? 期待を裏切ったらどうなる? やはり使い捨てか?
いかんなあ、もっとポジティヴでないと。
とりあえず、「友だち100人できるかな」で行こうと思う。
仕事は二の次。それだけは今まで通り。←それでええんか。
2000年4月17日(月)
金曜日の人事異動後、今日が事実上の初出勤だった。
以前より三十分以上早く家を出て、新しい職場に着くと、私の机の上は書類の山だった。
前任者に簡単な説明を受けたが、どれもこれも急ぎの案件で、どの案件にも複雑な経過があり、経過の中には重大なものが多く含まれているということだった。
そして、積み上げられた書類も、引出しにぎっしり詰まったフロッピーも、まず整理からはじめなければならないらしい。
それでも、一日の大部分を関係各方面へのあいさつ回りに費やした。
今度の仕事でもっとも重要なのが、さまざまな人間関係であり、信頼されることであり、その信頼にこたえることであるという。
私は今日一日、上司に連れられて、多くの公共施設、たくさんの重要な人物、さまざまな団体、そして夥しい数の人々に、真新しい名刺を配って回った。
何度も何度も頭を下げ、何度も何度もあいさつし、何度も何度も愛想笑いを顔に浮かべて。
夕方席に戻ると、引継いだ書類の山はもちろん手付かずのままだった。そこへ幾重にも新しい書類が追加されていた。机の面などどこにも見えなかった。
私は、山が崩れないようにきちんと積み直しただけで、足早に職場を後にした。
新しい仲間に飲みにも誘われたが、今日のところは一刻も早く解放されたかった。
家に帰って玄関を開けると、下のチビさんが満面に笑みを浮かべて、「おかーりー」と駆け寄ってきた。
鞄を置いて、もうすぐ二歳になる息子を抱き上げた。抱きしめるとまだ赤ん坊の匂いがした。
なぜか胸が詰まった。あふれそうになる涙をこらえながら、はじめて自分がとても疲れていることに気づいた。
2000年4月18日(火)
ゴールデンウィークには動物園へでも行こうか、という話になった。
下のチビは、どうやら動物が好きそうだし。大きな犬に吠えかかられても怖がるどころか、にらみつけながら近づいて、「わんわんっ」とか言ってるし。
でも聞くところによると、お兄ちゃんの方は、この27日に遠足で動物園へ行くという。
「そうかあ。じゃあ、続けて行っても面白くないねえ。動物園はやめとこうか」
そう言う妻に、息子はこう答えた。
「ううん動物園行く。だってな、ともちゃん喜んでるの見たら、なおちゃんもうれしいし、ともちゃん笑ったら、なおちゃんも楽しくなるから。だから動物園行く」
なんと素晴らしいお兄ちゃんではないか。
しっかし、いまどきそんなクサイ台詞、橋田壽賀子でもなかなか書かないぞ。今のシナリオコンテストなら一次選考で落とされるぞ。
でも、審査員はお父さんだから。満点。大合格。お兄ちゃんステキー。
そんなに優しいお兄ちゃんなんだから、ともちゃんも仲良くしないとね。だから、蹴っちゃダメだって。だから、積み木で殴っちゃダメだって。
だから、お兄ちゃんの本を破いちゃダメだって。
こーらー、ともちゃーん!
2000年4月20日(木)
このところ新しい仕事のことが頭を占めていて、日記のネタすら思い浮かばない。本も読めてないし、新聞も上の空だし。
いや、思い浮かばないというより、精神的にまったく余裕がないという感じである。
だからまあ、しばらく無理して更新は続けるけれども、内容は期待しない方がいい。なんなら今月いっぱいは、ほっといてもらってもいい。どうせ、後からまとめて読めるだろうし。
とりあえず、無理に話題を作ろうとして、今テレビのニュースを見てたのだが、なんでも沼津で女子高生を刺し殺したストーカー男は、92年や97年にも同じような事件を起こしていたらしい(前の2回は殺してない)。
こんな人間のクズはとっとと死刑! などという浅はかな言葉がネットの海を飛び交うのが目に見えるようである。
死刑廃止論と死刑廃止反対論、被害者の人権と加害者の人権、ストーカーとセクハラ等々、おかげさまで書きたいことは思い浮かぶのだが、書く気力がない。
まあ、いずれ復活しますので。
2000年4月22日(土)
そんなこんなで大変なところへ、風邪気味でまあ、どうにもこうにも。
前の職場は変則勤務で、たまに平日の午前中がそっくり空いたりしていた。そういう日は夜遅くまでの勤務になるのだが、体力的にはともかく、いろいろと便利なことも多かった。買い物とか、銀行の用事とか。またたとえば、そんな勤務の日は、たいてい息子たちを耳鼻科に連れて行くことにしていた。これまでに日記にもいろいろ書いているので知ってる人も多いと思うが。
しかし、今回の異動で、平日はきちんと朝から夕方の勤務、休みは土日、それ以外はほとんど休みにくい、というところへ変わったので、変則勤務のメリットはすべて失うことになった。
買い物や銀行は何とかやりくりするにしても(昼休みとかで)、問題は子どもたちの耳鼻科である。いつも行っていたのは病院なので、土日は外来診療はやっていない。
そこで、電話帳を繰って土曜日も開いているところを探すことにした。すると、運よく車で10分くらいのところにあった。
そして、今日は、息子たちを連れてそこへ行ってきたのである。。
わりと人気のクリニックらしく、待合室は親子連れでごった返していた。絵本やぬいぐるみも置かれてあり、待合室の雰囲気も明るい。
これはいいかもとも思ったが、私はどこか違和感があることに気づいた。
まず、受付に置かれた12インチほどの液晶モニターに映っているのが「ストリートファイター3EX」のデモ画面である。モニターの後ろにあるのはまぎれもなくPS2! 書棚も微妙におかしい。マンガの単行本もあるのだが、揃っているのは、「ナデシコ」、「イデオン」、「エヴァンゲリオン」、「カードキャプターさくら」、そして「バビル2世」である。絵本といえば、「ポケモン」はともかく、ずらりと並ぶのは「ガイア」、「クウガ」、「セーラームーン」である。
マガジンラックも見てみた。一応「週刊文春」もあったが、場所を取ってるのが「MONOマガジン」、「月刊ASCII」、そしてなんと朝日ソノラマの「宇宙船」である。
私は心臓がドクンと打つのを感じた。私にも昔流れていた血が、この待合室の何かに共鳴するのを感じていた。
「こ、この趣味は……まさしくオタク!」
妻子は気づいていない。教えるべきかどうか、逃げ出すべきかどうか、迷っているうちに名前を呼ばれた。
私たちは診療室に入った。
医者の姿は、私が懸念した通りであった。メガネをかけていた。小太りだった。丸くかぶせたようなヘアスタイルだった。
私は悲鳴を上げそうになった。
いや、悲鳴なんて上げそうにはなりませんでしたけど。オタクだっていいんですけど。
子どもにはやさしいし。腕もよさそうだったし。
まあ、来週以降も通うことになるでしょう。
2000年4月23日(日)
昨日、風邪気味なんて書いてますが、本格的にひいてしまいましたー! もう君とはやっとれんわ!
という妙なツカミはともかく、そんなわけで、今日は午前中に買い物に付き合わされたくらいで、午後からは一歩も家を出ていません。ぐったりと横になって過ごしました。だからとくに日記に書くようなことはなかったのです。
でもまあ、それではあまりに愛想がないので、覚え書きをひとつ。
あれほどエッセイやテレビで、ドラマに出ることはないと公言していた松本人志が、とうとうドラマに出ることになったようです。しかも主人公として。
日本テレビ系の『伝説の教師』です。
不思議なドラマです。各話の核となる事件も、学校側のありようも、説明するのも馬鹿馬鹿しいほどのステレオタイプなのですが、松本と中居正広が演じる教師の姿が斬新で。
深読みすれば、これは従来のすべての学園ドラマのパロディなのかもしれません。ドラマの設定やシチュエーションが、すべてステレオタイプなのは、パロディがパロディであるための必要条件なのです。
そして、ドラマによって厳しい批判にさらされるのが中居の演じる「熱血教師」です。外面的には、従来の「熱血教師」と変わるところはありません。それらしい説教もする、生徒のために駆けずり回る、汗を流すこともいとわない、やさしい言葉もかけてみせる、泣いても見せる。ただし、中居の場合は極めてエゴイスティックなモノローグかかぶさって、「熱血教師」的な意味付けは拒絶され、視聴者に対しては「腹黒保身教師」になります。
そして、いろいろな問題に対する、中居の「熱血教師」的な対応はすべて失敗して、松本の「異常な」教師に敗北することになります。
これはパロディですらないのかもしれません。夏木陽介や竜雷太にはじまり、武田鉄矢で完成を見た、「立派な教師の物語」に対する、あからさまなアンチテーゼなのかもしれません。
「型破りな」教師は、これまでになかったわけではありません。ドラマでは矢沢永吉が演じていましたし、「GTO」もまさしくそうでした。マイナーですが、「ビッグマグナム黒岩先生」というのもありました。
しかし、松本の教師はそれらとも違うようです。
従来の「型破りな教師」は、いわば「教師という枠に収まらないスゴイ男」であったわけで、最終的に(視聴者も含めて)誰もがそのスゴサにひれ伏したわけです。
松本の教師は違います。戸惑う、ビビる、すぐキレる、正論や正義を嫌う、教え子を大切にしない、非論理的で筋が通らない理屈をこねる等々、教師である前に人間としてどうかと思うような属性ばかりを持っています。スゴイといえばスゴイのですが、ぜんぜん意味が違います。
ドラマでは、そんな男が、「熱血教師」の策を超えて、問題を解決するようになっています。
視聴者は、どうにもこうにも理解できない松本の外から(あるいは中居に感情移入しながら)、ほっとしつつも釈然としない結末を迎えることになります。この手のドラマにありがちなカタルシスはどうも得られないようです。
さすがは松本人志であるなあと思います。あれほど感情移入できないキャラを見事に立てて、「面白いドラマ」にしてしまうのですから。
(あ、そうそう、毎回ちょっとだけ出てくる竹中直人は必見。ひょっとして松本より必見。)
2000年4月25日(火)
そんなわけでですね、風邪ひいてるのに、昨日も今日も飲みに行きました。倒れそうです。
ていうか、そんなことより、帰りの遅い日が続くと、子どもたちと遊べないのでつまらないです。
お兄ちゃんは、ゲームボーイのポケモンにはもう飽きたらしく、今は同じゲームボーイで、私が貸し与えた『ゼルダの伝説~夢を見る島DX~』(ずいぶん以前のソフトですが)に熱中しています。
しかし、自分はフィールドをのんきに歩き回っているだけで、ダンジョンで行き詰まるとすぐに、「お父さん、あと、やってーやー」と私に押しつけてきます。ボス戦などは絶対自分でやろうとはせず、「だって、なおちゃんヘタクソやねんもん」と私にやらせて、自分は手に汗握って見ています。
甘やかす私も私なんですが、そこはやはり父の威厳と偉大さを見せつけておかなければなりません。
「よっしゃー! まかせとけー!」と、手につばをして腕まくり、悪戦苦闘して難所をクリアしてみせると、息子の父を見る目もちがってくるというものです。
ただし、ふと気づくと2時間ほど経ってたりして、妻の私を見る目も違ってきたりします。
下のチビは、ぼちぼち反抗期というのでしょうか、やっとこさ二歳になるというチビすけなのに、何を言っても逆らいます。
寝る前だって、
「ともちゃん、お着替えしようか」
「いややー」
「歯磨きしようか」
「いややー」
「おしっこは?」
「いややー」
てな調子です。
遊びでも、食事でも同じです。ただ、こちらは返事とは裏腹に、食べたり遊んだりするのですが。
「ともちゃん、ごはんは?」
「いややー」
「パン食べる?」
「いややー」
「アンパンマンであそぼうか」
「いややー」
「ブーブーは?」
「いややー」
「じゃあ、『いやや』って言うてみ」
「いややー」
ほっほっほ。愚か者め。これが大人の知略、権謀術数というものだ。
意味ないけど。
2000年4月26日(水)
営利目的で誘拐されていた小学生が、無事保護されたとの報道があった。そして犯人も捕まったと。
まったくの赤の他人だけど、まるで自分のことのように、心の底からよかったなあと思ってしまう。
昔はそんなニュースを見聞きすると、
「営利目的で、逃げ切るつもりなら、できるだけ早い段階で殺しとかな」
などと鬼畜なことを考えたりもしたが、今はもうぜんぜん違う。
年のせいというより、子どもを持ってから、自分でもその辺はがらりと変わったと思う。
それより、営利誘拐って成功した話を聞いたことがない。
5000万円をカツアゲされた中学生がそうだったように、警察にも知らされずに成功したような例もあるのかもしれないが、「誘拐事件でまんまと金を取られたまま未解決」という事例は、日本ではあまり聞いたことがない。
結局、最大のポイントは金銭授受の方法だろうと思う。現金を持ってきた相手を、公衆電話や携帯電話で引きずりまわそうと、黒澤明の『天国と地獄』みたいに列車を利用しようと、高速道路の立体交差を利用しようと、グリコ・森永犯のように第三者を利用しようと、おそらく今の警察のシステムの裏をかききることはできない。捕まらないまでも、金をそっくり受け取るのは不可能であろう。
今回の誘拐犯は、プリペイド携帯と架空口座でATMを利用したということで、多少の金は手にしたようだったが、結局ビデオと引き出し場所からアシがついた。
成功させるのが実に困難な犯罪であると思う。銀行強盗のほうがよほど成功しやすそうである。
古今のミステリ作家が、小説の中だけでも成功させようと、完全犯罪に挑むのも当然といえよう。
というわけで、私のオススメ。古いけど傑作を。
天藤 真『大誘拐』(角川文庫)……映画化もされたので有名すぎるか。でも誘拐されたばあさんが、自分から身代金を百億円に上げさせるという設定は見事。読後感も爽快。
リチャード・ジェサップ『摩天楼の身代金』(文春文庫)……今も売ってるかどうか。これはビルの爆破予告で脅迫して金取る話。犯人の狡猾さ、現金の入手方法の新しさ、そして何より小説の面白さが最高。
2000年4月27日(木)
桂米朝の『落語と私』という本がある。今も文春文庫にあると思うのだが、私の大好きな本の一冊である。
もともとは中高生向けに書かれた落語の入門書であるらしいのだが、平易な文章でありながら、その内容は凡百の類書の及ぶところではない。
落語の妙味の味わい方、楽しみ方、落語の成り立ち、江戸以来の名人上手の紹介等々、決して気取らず驕らず、自らと落語との関わりも含めて書ききって余すところがない。
落語聞くのちょっと好き、という方からマニアの底の方の人まで、とりあえず必読。
とまあ、ベタボメで紹介しているけれど、私がこの本の中で何度も何度も読み返すのが巻末の以下のくだり。桂米朝が師匠の四代目桂米団治に聞かされたという言葉である。
「芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒がええの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間が決めてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へお返しの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」
私は芸人ではないけれど、何も生み出せぬ小役人であるからか、この言葉は何度読んでも胸にこたえる。
その一方で、むさぼりまくり、驕りまくりで、覚悟なしの芸能人どもに、叩きつけたくなるんだけど。
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