パンダ探偵
1999年7月23日公開
古ぼけた雑居ビルの三階から見下ろす夜の街は、着飾った厚化粧の年増女のように、今日も猥雑で醜悪な熱気に包まれていた。電柱の陰で酔っ払いが反吐をついていた。その背中をさすってやっているのは娼婦のユミだ。あの男も、ユミが半年前までは男だったことを知れば驚くだろう。
私は事務所で依頼人を待っていた。時計を見た。予約は九時だというのに、すでに十時を回っている。私は後悔しはじめていた。いくら電話の声が、切迫した調子にもかかわらず妙になまめかしかったからといって、週末の夜になど予約を受けることはなかったのだ。
アパートへ戻ってくつろぐことにしよう。私は自室の天井からぶら下がった大きな古タイヤを思い浮かべた。部屋の隅に積み上げた大量の敷き藁を思い浮かべた。
舌打ちをひとつして椅子から立ち上がったとたん、ノックの音がした。
「開いてるよ」
女は美しかった。肩と背中が大きく開いた深紅のカクテルドレスの胸元が、砲弾のようにこちらを睨んでいた。胸の谷間は、六桁のチップでも押し込めそうなほど深かった。
女はドアを開けたまま立ちすくんでいた。
そう、私の事務所を訪れた依頼人はたいてい驚く。その女もやはり例外ではなかった。
私は女を事務所に招じ入れて、椅子を勧めた。
女は戸惑いがらも腰を下ろし、意を決したように、すらりとした脚を組んだ。深いスリットから、象牙のような太腿があらわになった。
「どうしてそんな格好をしているの」
女は目を見開いたまま訊いた。いくら金曜の夜とはいえ、カクテルドレスを着たまま探偵事務所を訪ねる方もどうかしていると思うが、その点は黙っていた。
「ちょっとしたわけありでね。しかし、これでも特に不自由はない」
私は机の引き出しから、バーボンのボトルとグラスを二つ取り出した。それとひとつかみの笹。
「もしよければ。込み入った話なら、落ち着くのが先決だ」
笹をほおばりながら言う私を、女は言葉を失ったように見凝めていた。
私は二つのグラスに酒を注いだ。女は黙って一つを受け取り、天井を仰いで一息に飲み干した。プラチナのネックレスが輝いて、細い喉がこくりと動いた。
私は微笑んだ。牙をむいただけのように見えたかもしれない。
「いや、この格好もなかなか便利でね。まず誰も探偵とは思わない。地下鉄に乗ったり尾行したりするのはさすがに大変だが、コートの襟を立てて、帽子を目深にかぶり、耳さえ隠したら、ちょっと恰幅のいい紳士に見えなくもない。子どもが寄ってくるのさえ気をつければ、仕事はやっていける」
女は大きく息を吐き出した。小さなバッグから煙草を取り出して火をつけた。私は机の上の灰皿を彼女の方に押しやった。
「で、依頼の件だが」
女は膝に乗せたバッグの留め金をいじっていたが、やがて顔を上げた。
「ええ、夫のことなんですの」
私はため息をついた。最近冷たい。帰りが遅い。携帯電話に見知らぬ番号が残っている。そしてシャツの襟元に口紅の跡。私は女の不安を思った。よくある浮気調査だ。尾行。盗聴。写真。女の不安を裏付ける報告書。そこからはお定まりの修羅場だ。私にはこの後のことが先の先まで読めた。
しかし、こんな女を裏切るとは。毎日ならロマネ・コンティでも飽きるということか。
私は歯に挟まった笹の筋を舌で探りながら、女に先を促した。
「浮気の疑いでもあるのか」
私の予想に反して、女は悲しげに首を振った。
「いえ、あの、夫がペンギンの格好をしたまま……」
女は両手で顔を覆って泣き出した。
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