百万ドルのオレンジ
1999年7月23日公開。これももとは上方落語ネタ。
三友物産の社長令嬢、三友初美が病に倒れた。原因不明の高熱と血圧の低下が何週間にもわたって続き、三友系列の総合病院の医師団も首をひねるばかりであった。このままでは生命すら危ぶまれると、日本屈指の設備を駆使した検査が連日行なわれたが、治療方法はおろか、原因に関する手掛かりすら得られない状態が続いた。
そんなある日、初美のうわごとのなかに「マクンバのオレンジ」という言葉がたびたび現われることに気付いたものがいた。何度目かの見舞いに訪れていた、三友物産社長室長の飯田である。その言葉に閃くものを感じた飯田は、部下の社長室調査課第一係長の加納に調査を命じた。
社長室調査課。その存在は社員の誰もが知っているが、その実態を知るのは会長と社長、そして社長室長の三名のみである。名称こそ通常の業務を行なうもののようであるが、世界情勢や商品相場、政治問題に関する通常の調査分析は総務部の調査課が行なっている。社長室調査課が行なうのは、国内や社内におけるカウンター・インテリジェンスとそれに伴う各種の特殊工作、そして国外のトラブルや営業政策に関わる各種の特殊工作である。通常は前者を第二係が、後者を加納の第一係が担当している。無論特殊工作という言葉には非合法活動も含まれており、産業スパイの排除や海外でのテロ活動、反共ゲリラの支援なども調査課の業務である。その係員の統制、有能さは日本にも比類がない。匹敵するものがあるとすれば、あの非合法丁稚定吉七番を擁する大阪商工会議所秘密会所ぐらいであろう。
「マクンバのオレンジか……」
加納は精悍な眉根を寄せて呟いた。その言葉を聞いた瞬間、おおよその見当はついていた。腐った林檎を知らずにつかんでしまったときのような悪寒が背筋を走った。
問題は西インド諸島にある。昨年のことである。三友物産はキマナという小国の領海に莫大な石油が埋蔵されているとの情報を得た。そして激烈な競争の結果、その採掘権を獲得したのである。資本と労働力の大半をキマナに依存しつつ、資材と技術を供与することで、米国メジャーに互しうる石油を手に入れる予定となっていた。しかし、三友物産はそこで思わぬ事態を見た。内乱の勃発である。三友も相当の援助を政府軍にたいして行なったが、内乱は国を二分する勢いで長引き、ついに石油開発自体が宙に浮く状況となってしまった。三友自身もかなりのダメージを受けながら、きっぱりと石油開発から撤退した。そのときのことである。返せるあてのない債務を抱え、内乱の行方も分からない国となったキマナ政府のゴンゾ大統領は、名指しで三友物産社長を非難したのである。我が国を見捨てた貴様を呪う、とテレビカメラに指をつきつけて叫んだその姿は鬼気迫るものであったという。
その西インド諸島の邪教、ヴードゥー教の司祭をマクンバというのである。
加納をリーダーとする調査第一係の面々は、十分の装備とともにキマナに潜入した。
それまでに得た情報で、キマナ随一のマクンバが大統領の命を受けて、三友初美に対する呪法を行なっていることを突き止めていた。オレンジもまた、そのマクンバの庭になる人間の生き血と骨灰によって育てられているものであるとの情報を得ていた。
また、初美の加持祈祷に訪れた高野山の大阿闍梨、全海の言によると、そのオレンジこそが、初美の病を癒す唯一の薬であろうということであった。
マクンバの屋敷を見下ろす尾根に立ち、加納は緊張の極にあった。敵はヴードゥーの大マクンバ、生ける死体ゾンビを手足のごとく使うという。調査第一係の腕利きも、死人を相手にしたことはない。これまで敵が一個大隊の軍隊であろうと、ひるむことのなかった連中が、今度の戦闘ばかりは勝手が違うとでも言うように緊張している。
戦闘は熾烈をきわめた。数百はいようかというゾンビたちは、棍棒以上の武器をもってはいないのだが、不死身なのである。片手を吹き飛ばそうが、腹を撃ち抜こうが、平気な様子で向かってくるのである。M16A1アサルトライフルも357マキシマムも、まるであてにはならなかった。加納が連れていた十一人の部下のうち、八人までがゾンビの群れに呑み込まれて命を落した。
役立ったのは、唯一焼夷手榴弾のみであった。銃で膝なり足首なりを撃ち砕き、動きを封じたところで焼き払うのである。それしか手はなかった。そして、加納たちは大半のゾンビを灰にした。
マクンバを倒したのも加納であった。屋敷内の祈祷場で、化鳥のように舞う敵をカミラスのコンバットナイフの一閃で葬った。
そしてとうとう、広場の中央に立つオレンジの木にたどり着いた。その時、広場を取り囲む森が揺れたかと思うと、銃を構えた兵隊が何百となく出現し、加納たちを中心とする円を描いた。そこへ、ハンドマイクを手にしたゴンゾ大統領が現われた。
「とりあえず、武器は捨ててもらおうかね、ミスタ加納」
加納たちは武器を足下に落した。
「くそ生意気になったマクンバまで殺していただいたことに礼を言おう。そしてだ、私は君の欲しいものも知っている」
「なぜだ」
「わかりきった質問はよしたまえ。先ほど、三友から電話があったんだよ。すべてこちらの言うとおりの条件は呑むとのな」
「君は、オレンジを奪うためではなく、私のためにマクンバを殺しにやって来たということになる」
加納は愕然とした。すべて話はついていたのだ。八人もの部下を失わずとも、オレンジは手に入ったのだ。マクンバを殺すだけなら、ほかにも手はあったのだ。
「さあ、オレンジを持ちたまえ。三友はそれひとつを百万ドルで買ったよ」
加納は、歯を食いしばってオレンジをもぎ取った。
空港を飛び出すようにして、加納は病院へ急いだ。
病室で紙袋からオレンジを取り出し、果物ナイフで二つに切った。病室中に甘酸っぱい香りが立ちこめた。加納は半分に切ったオレンジを初美の唇の上に傾け、そのしずくを垂らした。するとどうだ、初美の紙のような顔色に赤味が差したではないか。数滴静かに垂らすうちに、初美は意識を取り戻した。あまつさえ、自分の手でスプーンを取り、オレンジを半分平らげてしまった。そのときには既に、病気などなかったかのような健康体に復していた。
加納は、手のなかに残ったオレンジを見詰めた。
「これ一個で百万ドルか。半分でも六千万円はあるぜ。六千万ありゃあ……」
加納は、そのオレンジを持って病室から消えた。その行方は杳として知れない。
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