ミスコンテストには反対だけれど

「マジエッセイ」第1回(1999年7月23日公開)
 考えはあまり変わってないけど、固有名詞が古いのは如何ともし難いな。


 「ミスコンテスト」の評判が悪い。曰く、女性をモノ扱いしている。曰く、性の商品化に拍車をかける。曰く、○○に相応しい女性をといいながら、水着審査に何の意味があるのか。曰く、女性の人格はひとり一人かけがえない、容姿で優劣をつけるとは何事か。というふうに、それこそ批判の嵐である。それに応じて、自治体などではミスコンテストを取りやめるところが多くなってきた。
 私は、これらの批判はすべて正しいし、フェミニズムの流れからも正当化されると考える。そう、これまでのような「ミスコンテスト」は全廃されればよい。
 だいたい「容姿のみならず人格も考慮して」だの、「未婚女性に限る」だのというのが、そもそも欺瞞に満ちているし、そんなふうに女性を商品化しておきながらキレイごとで糊塗しようとするから、フェミニストの怒りを買うのである。
 私は、現行のあらゆるミスコンテストに反対するフェミニズムを支持する。

 あらゆる女性の人格や人間的価値は平等である。年齢、容姿、学歴、収入その他によって差別されることなど決して許されるべきではない。
 現在の(男性中心の)社会的には、美しい女性は善であり価値が高いとみなされているゆえに、「美をもって人間の価値を測る」がごときミスコンテストが批判される。当然である。私も、美醜の差を価値の差にすりかえるようなコンテストには憤りを禁じえない。

 しかし、しかしである。
 私は美人を見たい。それも目のさめるような。目が合うだけで卒倒するような。
 いや、それがあまりに個人的な欲望であるというのなら、言い換えてもいい。現在の日本の、女性の美的スタンダードと、その頂点に最も近い女性を見たい、と。
 あらゆる女性の人間的価値に上下はないけれども、美醜の差はある。これは批判を承知で言うが、絶対にある。そこで、その美醜の美側の頂点にいる女性がいるならそれを見たいというのである。
 たとえば、かつての井上晴美や後藤久美子。現在の葉月里央菜。女優やタレントしての魅力はともかく、唇をきっと結んでカメラの前に立てば、完璧なまでの造型を感じさせる顔であると思う。
 そして、かつてのクラリオンガールたちから現在の藤原紀香にいたるナイスバディの系譜。
 美人であることだけを競う、究極の美人コンテストが行われて、そんな女性たちの中から選ばれた優勝者を見て単純に「すっげぇ!」と感動したい。あるいは、「現代の日本の美人はこの線なのか」と感心したい。

 そこで、私の考える美人コンテストの条件を挙げる。

 (1) 年齢・婚姻関係・人格・犯罪歴・病歴・戸籍上の性別・国籍・美容整形手術歴その他、資格は一切不問。
 (2) 人種は東アジア系。
 (3) 審査員は無作為抽出の一般市民男女同数で、最低千人。
 (4) 審査は水着審査のみ。特技披露や筆記・面接などは一切なし。
 (5) 高額賞金で定期開催。
 (6) 美男コンテストも同時開催。
 (7) 企業や自治体の冠をつけない。

 こんな感じで、開催してほしい。
 ただ、人種の制限についてつけくわえると、いろんな人種が参加すると、優劣をつけられなくなる。ナオミ・キャンベルとシンディ・クロフォードのどっちが美人かなんて、寿司とカレーじゃどっちがうまいかというようなもので、くらべようがない。だから、私は、ミス・ユニバースの世界大会なんて政治臭が鼻について仕方がない。

 と、以上のようなことを思うのだが、危険な点、批判されるべき点は多いかもしれない。最大の問題は、やはり、健康な美人に価値を置くと、相対的に不美人や障害者を排除する社会意識を温存・助長する可能性があるという点であろう。
 しかし、これらはむしろ、学校教育や社会教育で解決すべき問題だと思う。美人コンテストがあろうとなかろうと、そういった意識とそれを強化する言説は巷にあふれているのだから。
 そして、このコンテストの「資格一切不問」宣言は、先に書いたような、美醜を人間的価値にすりかえるのはよそうと訴えかける、逆説的なきっかけにもなると思うのだが。

よろしければサポートをお願いいたします。いただいたサポートは、創作活動の大きな励みになります。大切に使わせていただきます。