春日牛一

2009年12月23日公開。第9回雑文祭参加作品。


 星の数ほどいる戦国武将のうちでも、華々しさと実力を兼ね備え、カリスマ性でも抜きんで出ているといえば、好き嫌いを別にして、織田信長を第一に挙げることに異論はないだろう。
 とはいえ、我々後世の人間が信長を直接知っているわけではない。私たちの持つ信長という人物の印象は、各種の史料をベースにしたさまざまな時代劇や時代小説によるところが大きい。
 そして、それら史料のうちの第一等が、太田牛一の著した「信長公記」なのである。
 と、長い枕をふっておいて申しわけないが、今回は織田信長のことを書くわけではない。太田牛一のことでもない。雑文祭にかこつけて、近頃はやりらしいレキジョとやらに媚びを売るような文章を書くほど軟弱な私ではない。そういうのは雑文祭とは別に、あらためてじっくり書きたいものである。

 ここで書こうというのは春日という年若い知人のことである。
 先に断っておくが、春日の本名は牛一ではない。むろん俊彰でもない。それはオードリーである。歩でもない。それではマンガであり大阪である。当然大社でもない。そこまでいくと人間ですらない。建築物である。部市でもない。そんな名の人間がいればそれはそれで面白いが、親の正気が疑われる。
 いずれにせよ、春日の本名がなんであろうとこの文章とはまったく関係ないという事実の方が重要であろう。関係ないのかよ。
 その春日が、ある日「牛一と呼んでください」と言い出した。なんでも、最近になって加藤廣の『信長の棺』を読んだらしい。愛読していたという小泉純一郎の人気がピークだった頃ならともかく、福田安倍麻生ときて政権交代までしちゃったこの時期に、なにを三日前どころか去年の夕刊みたいなことをぬかしておるのかこの男は。
 「あのですね、本屋で読むものさがしてたんですけど、ちょうどこの本がこの手の届く距離にあったんですよ。運命ってのを感じちゃいまして。幹事長も感じちゃうってやつっすか?」
 めんどくさい奴である。本屋なら手の届く距離にいくらでも本はあるだろう。だいたいそれはいつの縛りだ。

 それはともかく、友人一同、春日の奇矯な言行には慣れている。その日から春日の呼び名は、「牛一」もしくは「牛ちゃん」と相成った。
 傍目にはそんなにしゃれた呼び名でもないと思うのだが、ていうかはっきり言ってもっさりしてると思うのだが、よほど小説の主人公である太田牛一に惚れたのか、本人はいたくお気に入りで、「惟任ご謀反」だの「お屋形さま」だのまで言葉の端々に混ざるようになってきた。

 ところが、ほんの一週間ほどで、春日が「もう牛一はやめにします」と神妙な面もちで言うのである。なんだなんだ、今度は「兼続」か「好古」か。まさか「篤姫」ではなかろうな。と思ったら、常日ごろ春日がにくからず思っている女子の人に、「“牛ちゃん”はない」と言い渡されたらしい。
 もう呼び名なんてなんでもいいじゃないかとか、本名じゃだめなのかとか、おまえはあほかとか、いろいろ言いたいことも思い浮かんだのだが、春日が見る影もなくへこんでいるのであまり厳しいことも言えずにいた。
 「牛一、いいと思うんですけどねえ。かっこいいのに」
 かっこいいか、牛一。どんだけ好きなんだ牛一。
 「じゃ、どうすんの」
 と訊く私の前で、春日は目の前のメモ用紙にあれこれ書き殴りながらしばらくうなっていたが、突然がばと顔を上げた。
 「アークトゥルスでお願いします。あ、アークでいいかな。失われたアーク。じゃないや、でもロッカーみたいでシブいっすよね」
 知るかよ。なんで唐突に外人になるんだ。ていうか、それは星の名前だろう。
 「知りませんか。春の大三角形じゃないですか。獅子座で一番明るいやつ」
 おお、意外と物知りなのか春日。しかし私はもう我慢できなかった。
 「だから、なんで急に牛一からアークトゥルスなんだ? 大丈夫か、頭」
 「なんでって、代表的な春の星じゃないですか。スピカとかでもいいけど、あっちは乙女座っしょ。春の星ってのが肝心なんですから」
 「牛一はあきらめて、こんどはギリシャ神話にするのか? 岩波文庫でも読んだのか?」
 「あきらめてませんって。あくまでも春日牛一で。見てくださいよ、春日牛一って縦書きでぎゅっとぺちゃんこに書くんですよ」
 春日はメモ用紙を回してよこした。そこにはひしゃげたような文字で春日牛一と……あ、春星。


「第9回雑文祭」

・題名:「星」を含むこと。(例:「星の王子さま」「きらきら星」など)
・書き出し:書き出しをひらがなにしたとき「ほし」と表記できること。(例:「星空」「干し芋」「保守」など)
・文中に以下の3つの縛りワードを含むこと。
  縛りワード1:「この手の届く距離」
  縛りワード2:「我慢できなかった」
  縛りワード3:「牛」
・結び:「星」で終わる。ただし、句点(。)、疑問符(?)、三点リーダ(…)、その他の文章記号をつけてもOK。

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