感想文あれこれ
旧サイトではマジエッセイのうちの「批評の試み」というセクションに上げていたもの。たいしたことない短文ばかりなのでまとめておく。
串間努『まぼろし小学校』(小学館)
(1999年7月23日公開)
昭和30年代生まれは必読。高度経済成長期の小学校と子どもたちをめぐるさまざまな事象のオンパレードである。文房具(アーム筆入れ、ユニ坊主など)、給食のメニュー(揚げパン、ミルメークなど)、学校行事(運動会、お楽しみ会など)、そのほかさまざまな事柄について、恐るべき記憶力と微に入り細を穿つ調査活動によって、読む者に、単なる「あったあった」を超える感動をもたらしてくれる。
私がなにより感心したのは、それらさまざまなディテール以上に、著者の文章力である。ユーモアも交えてまったくなにげないが、誰もが共通に持つ記憶を手繰り寄せて紙の上に写し取る能力は尋常ではない。
「(土曜の帰りなど荷物の多い日は)ランドセルに体操服の袋と上履き袋が加わり、さらに給食当番の日は白衣も洗うので、指がヒモの筋で真っ赤になるほど何本もの木綿のヒモが食い込んでいった。袋を蹴っ飛ばしながら歩くと回転したヒモがねじれて指に巻きつき、「イテテテテ」となる。」
このような記憶は読む者全員にある(はずだ)。しかし、一読すれば、それをこのような文章にするには、まったく別の才能が必要であることがわかる。この著者にはその才能があふれている。
私がこの本を読みながら、遠い目をして空を見上げたことは一度や二度ではない。
高見広春『バトル・ロワイアル』(太田出版)
(1999年8月15日公開)
これについては、私は冷静には語れない。私にとってはツボにはまりすぎている。
物語は、全体主義国家のもとで、ある中学生のひとクラス42人が、最後の一人になるまで互いに殺しあうことを強制されるという、近未来SFのような話である。
私のツボというのが、そういうことをよく想像した少年だったからということなのである。
さすがに友人たちと殺しあうというような想像はしなかったが、まるで「ドラゴン・ヘッド」のように「このクラス丸ごと洞窟に閉じ込められたら」とか、大学では「学部対抗で戦争がはじまったら」とか、突拍子もない極限状況を空想してはよく時間をつぶした。そして、必然としてサバイバル系や軍事教本系の本もよく読んだ。そんな私だから、この書物を読んでいる間中ずっと、主人公に感情移入しながらも、自分がその場にいればいかに行動したかばかり考えていた。そのせいで、恐怖と緊張で膝なんか震えっぱなしだった。
角川のホラー小説大賞で、前評判は最高でありながら、審査委員の拒絶反応によって落とされたという。まあ、林真理子や高橋克彦に何か期待するほうがどうかしてるんだけれど。
小説のとしての完成度については、池上冬樹の批評(「本の雑誌」7月号)を引用すれば十分だろう。
そして、池上はダクラス・フェアベンの『銃声!』を思い出したという。ゴールディングの『蝿の王』を思い出したというものもいる。みんなそれぞれ自分の中の何かを小説に写してそこに見るらしい。
私は『きけわだつみのこえ』を思い出した。殺さなければ殺されるという極限状況におかれた、それでも人間性を失わない美しい若者の姿を思い出した。
あなたは何を思い出すのだろう。
神戸市立博物館《オルセー美術館展》('99.6/19~8/29)
(1999年8月20日公開)
サブタイトルは「19世紀の夢と現実」。その名のとおり、19世紀半ばから20世紀のごく初期にかけての作品が約二百点展示されていた。
私はそれほど美術に詳しいわけではないので、1986年に生まれたという(それまではなんと駅舎)オルセー美術館の位置付けやコレクションの総体についてはよく知らない。ただ今回は、当時まさに百花斉放というにふさわしく生まれつつあった芸術の新しい潮流(あるいはその萌芽)を、正面からとらえることについては慎重に避けるような展示構成になっていた。嵐の前の静けさというべきか。(新しい潮流というのは、後期印象派、アール・ヌーヴォ、フォビズム、ドイツ表現主義、その他もろもろの新しい運動を指す。)
展示は5部構成になっていた。
第1部のテーマは「人間と物語」。聖書、神話、伝説を主題とする作品群である。
ルネサンス以来の伝統的な主題の絵画ではあるが、さすがに19世紀ともなると画家の主観(内面というのか)が画面ににじみ出てくる。
ここいらはあまり好みではないので、足早に通り過ぎたが、ここではドニが面白かった。超古典のフレスコ画みたいでも新しくて。あと、リュシアン・シモン(すまん初耳)の「祭礼の行列」における人々の表情は、描かれた庶民の内面をつかみ出して秀逸。
第2部は「人間と歴史」。戦争にかかわっての作品が少々。19世紀ヨーロッパといえば普仏戦争で、ここでの目玉はルソーの「戦争(駆けぬける不和の女神)」である。
青空、平塗り、オブジェのような木々、といういかにもルソーらしいタッチの大作ではあるが、私は横たわる多くの死体を見て日野日出志を思い出した。マンガを思い出すのもどうかと思うが。
第3部は「人間と現代生活」。ここらから徐々にオルセーの真骨頂、現代絵画らしくなってくる。産業革命以来の「労働者」の増大と、パリ・コミューンの誕生が、画家に生活する人間を描くための筆を執らせはじめたと思われる。
しかし、ミレーとピサロにスケッチしかないのは、ちょっとまてぇという感じで残念だったし、フレデリックの「労働者の一生」とルオーの「夜の風景(工事現場の争い)」は見るのがつらかった。社会の最底辺にある労働者に対してその見方はなかろう、という気がした。私も自分は最底辺に近いと思っているので、どうにも腹が立った。ただ、これは絵を鑑賞する力のない私の誤解かもしれない。その場合は謝る。同じ作者の他の作品に、労働者に対してより暖かい視線のものがあることを望む。
このコーナーの収穫は、何といってもモネの「庭の女たち」である。印象派大爆発の先駆ともいうべきこの有名な作品が見れて単純にうれしかった。日差しがあたたかそうで、風が気持ちよさそうで、印象派というだけで持ち上げる世間もどうかとつねづね思っている私ではあるが、やはりモネはよい。
第4部は「人間と自然」。第5部が「孤独な人間」。ここからはビッグネームが続々登場するのでまとめて行く。
ルノワールが2点に、セザンヌが3点。あまり好みではないが、前者の「若い女性のトルソ」、後者の「水浴の男たち」は、独特のタッチにやはり唸る。常に新しい物を求め、キャンバスに自負をたたきつけてゆく芸術家の面目躍如である。ゴーガンも2点、そのうち「アレアレア(愉び)」は、おそらく代表作。二人の女性と前景に配置された赤い犬で知られるこの絵は、ユートピアとしてのタヒチを描いてあますところがない。ロートレック、ホイッスラー、ホーマーが1点ずつ。おかしな書き並べ方だが、どれも「いかにも」の、見て得したと思えるよい絵だった。とくにホーマーの「夏の宵」は、暗い画面の中で海に向きあう人々と夏の残照を詩的に描いて心に残った。失礼ながらアメリカ人とは思えない。
あと、クールベは自画像「傷ついた男」のみ。孤独がしみる。ドガは(素描、彫刻もあったが)油彩は1点。ルドンが2点。前者の女の表情、後者の精神性は、たしかに新しい芸術の息吹を感じさせる。
ゴッホ、ムンク、クリムトも1点ずつ。ただ、この3作品は、どうも場違いというか、展の全体から浮いていた。3点とも風景画ではあるが、ゴッホの分厚い独自性、ムンクのうねるような不安感、クリムトの超然とした装飾性は、時代の流れから屹立しているがゆえに、時代を表現しようとする展のテーマにそぐわない。その点、初期の風景画が1点あったモンドリアンは立派である。埋没してたけど。
あと、マネは点在してたがパス。あまり印象がない。ルネ・ラリックとガレのデザイン画や小品があったのはうれしかった。代表作というのはなかったと思うが、実物をちゃんと見たことがなかったので。
とにかく、観覧者が多すぎて、落ち着いて見られなかったのは残念。本当なら休み休み丸一日かけて見たかった。
そんな中で1点、私を釘付けにして長らく足を止めさせた作品があった。モネの「死の床のカミーユ」である。この絵は、幾度となくモデルにもした(さっきの「庭の女たち」もそう)最愛の妻を失ったその日に描かれたという。死の床で安らか眠る妻の姿を、流れるような寒色の筆遣いで埋め尽くし、厳粛な悲しみと安らかなれという画家の祈りを伝えて観るものの胸を打つ。
私は涙がこぼれそうになった。カミーユの死によってではない。画家の悲しみによってでもない。芸術家の業の深さによってである。なぜ死んだその日に妻の死顔を描かねばならないのか。そんな日に、なぜ深い悲しみをこれほどの芸術にまで高めうるのか。
画家は泣きながら描いたのかもしれない。ぎりぎりと歯がみしながら描いたのかもしれない。死んだ妻の手を握って、祈りながら描いたのかもしれない。そんなことは知るべくもない。しかし、これを芸術家の業と言わずして何と言おう。
私はそんなことを思いながら、その絵の前に立ち尽くしていた。
最後に。19世紀は、芸術にとって最後の幸福な時代だったのだな、と思う。どの作品も、芸術の歴史に敬意を払い、芸術の力を信じている。芸術家であることに誇りを持ち、より新しい芸術を求めている。20世紀の芸術がそれらすべてを疑うことを特長とするのとは、まさしく対蹠的である。
ただ、世紀の変わり目あたりから、懐疑が生まれ出す。芸術に対する懐疑ではなく、「こんなのは俺たちで最後かもしれない」という思いである。妄執ではなく、ノスタルジーでもなく、一抹の寂しさと時代に対する期待が感じられ始める。
そのあたりの空気が、私のような素人にも伝わったということでいうのなら、この展覧会は成功したといえるのかもしれない。
手帳あれこれ
(2005年12月2日公開)
長年いろんな手帳を渡り歩いてきた私が、それぞれについて寸評などを。
【綴じ手帳】
能率手帳や高橋の手帳など、ごくオーソドックスな手帳群を仮にこう呼んでおく。サイズはせいぜい文庫本までの、ポケットサイズを前提とする。私は7~8年使った。
結論から言うと、個人のスケジュール管理を主たる目的とするなら、この手の手帳が最もよい。いつも持ち歩けるし、すぐに取り出して確認できて書き込みもできる。この利点ばかりは何物にも換えがたい。しかしながら、微妙にダサいし、何でもはさめるシステム手帳に比べると機能的に見劣りするのでためらう向きもあるようだ。それでも、旅行のときの荷物同様、「小さな手帳で十分」という方がはるかにスマートに見えるというのは気にとめておいてもいい。
内容的には、見開き1週間か2週間のものが使いやすいと思う。見開き1ヶ月ではよほど小さい字が書けないときびしいし、一日1ページだと分厚くなりすぎる。国産手帳が気に入らないという人には、クオ・ヴァディスかモールスキンのダイアリーがいいと思う(でも国産が一番)。
【システム手帳】
ファイロファクスに代表される、便利(そう)な手帳といえばこれ。私は、30mmリングのごついのを十余年、10mmリングの薄手のを三年ほど使った(いずれもバイブルサイズ)。これはスケジュール管理以外に、すべてを1冊にまとめていろいろな情報を管理したい人向けである。TODOや金銭出納やプロジェクトや議事録含めて、何でも入れておけるし、スケジュールにしてもさまざまなレベルでの管理が可能である。近ごろ注目されているクマガイ式夢手帳やフランクリン・プランナーもこのうちに入る。
それと、これはストック情報を管理するのにも適している。むしろそちらが主であるという人も多い。たしかに業務関係や業界関係の参考資料を現在形で更新しつつ、ふんだんに持ち歩けるのはありがたい。
また、サイズ的にはバイブルサイズが鉄板。ミニ6穴は小さすぎて勝手が悪いし(私は3ヶ月で挫折)、A5サイズは手帳としては大きすぎる(各種の資料を整理しながら綴じるのには便利)。
しかしながら、10年以上使ってこんなことを言うのもあれだが、よほど本気の人以外あまりおすすめはしない。そもそも大きすぎる。ポケットには入らないし、分厚いのはカバンの中でも納まりが悪い。第二に、最初のうちは夢も膨らんであれこれのリフィルに手を出しても、結局スケジュールと普通のノート用紙くらいに落ち着く。たくさんの資料が持てて便利でも、そう頻繁に参照するものではない。そうなると、「なんでこんな重いもの毎日持ち歩いてるんだ」という疑問まであと一歩である。
たくさんのカードや小物もまとめて持てるし、使い込んだ革のカバーは、たしかにかっこいいんだけど。
【PDA】
ソニーのクリエ(N-750)を丸4年近く使った。これは確かに便利である。PCにあるものならどんなデータでも持ち歩けるし、即座に参照もできる。資料やスケジュールをキーワードで検索するなんてこともお手のものである(あれいつだっけ、あれどこだっけに対する検索機能はどんな手帳にも勝る)。音楽だって聴けるし、通信端末をつなげばウェブも見られるしメールも扱える。おまけにゲームまでできる。ちょっとしたメモなら書き込みも苦にならない。たいていポケットサイズで小さいし(変に高機能なものは除く)。
これは本当に便利である。ずっと楽しんで使わせてもらった。それはそれは便利なのであるが、実を言うと、これもPCとのシンクロが趣味の域にまでなってるような人でないとおすすめはできない。スタンドアロンで使っても魅力は十分の一くらいしか感じられないだろう。
それと、一覧性や書き込みの気軽さでは、やはり紙の手帳にははるかに及ばない。PDAも見やすい使いやすいと強弁する人も多いが、これは紙と並行して使ってみればよくわかる。それに、落とすと壊れるとか、尻ポケットは鬼門だとかというのも減点対象である。
じつは、今年の春まで2年ほど役所のシステム構築の関係で、大手のSEさんたちといろいろつきあいがあったのだが、みんな小ぶりな綴じ手帳を使っていて、せっかくクリエを自慢して喜んでたのになんかへこんだ覚えがある。
あと、私はキーボード主体のシグマリオンIIIも使っているが、これは手帳としての利用ではないのでここでは触れない。サイズ的にはバイブルサイズのシステム手帳とぴったり同じだし、MSOutlookとシンクロするし、起動もスタンバイも一瞬なので手帳として使えるような気もするが、紙とボールペンの手軽さには遠く及ばない。
【デスクダイアリー】
A5やB5のノート型のやつ。A5のシステム手帳もここにはいる。
これはたくさん書き込めて便利そうだが、その名の通り持ち歩くものではない。かばん持ちを連れ歩けるような人なら別だが、そうでないなら手帳とノートを別に持つほうがずっと現実的だろう。
【超整理手帳】
以前、クリエの合間に3ヶ月ほど使ったことがあって、今年度復活。
じつをいうと、これは手帳ではない。ただのA4用フォルダである。A4を四つ折りにすればなんでもはさめるので、仕事の資料から何から、全部縮小コピー両面コピーを駆使してはさんでおくことができる。切る手間も穴をあける手間もない。
メーカーは、先のほうまで見渡せるとかいいながら蛇腹式のスケジュールリフィルを推奨しているが、あれは案外使いにくいので固執する必要はない。
私は自作のスケジュール用紙とメモ帳(A5のノートを縦に切ったやつ)を中心に、資料をあれこれはさんである。
実は、この春職場が変わって、月間スケジュールだけでも自分のもの以外にグループ別や事業別に複数枚持ち歩く必要が出てきたのでこれにしたのである。そんなものいちいちシステム手帳に書き写してられないし、PDAに取り込むのも面倒である(縦30日横20人のローテ表などそのまま持つに如くはない)。
普通の長財布より幅は細いし、いろいろ入れても厚みは1センチほどだし、即座に気軽に書き込めるし、1ページがA4丸々なので一覧性は天下一品だし、大量の電話番号簿でもカレンダーでも青空文庫のプリントアウトでも、簡単に自作して穴あけもなしにはさめるし、とりあえず私の現環境での利便性では非の打ちどころがない。
ただ縦長で不細工なんだよなあ、これ。すくなくとも一生使いつづける気にはなれない。ファイロファクスもクリエも、気に入っている間は「一生これでいくかも」と思えたのに、超整理手帳だけはまったくそんな気にならない。それだけはすごい難点だと思う。
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