『大人は判ってくれない』~中二病にすらなれない少年
先週はシャルロットという少女が登場するフランス映画について書きました。
今回は同じ年頃の少年が主人公のフランス映画を紹介します。
映画のタイトルは、『大人は判ってくれない』(Les Quatre Cents Coups)
1959年に公開されたこの映画は、フランソワ・トリュフォー監督の長編映画第一作です。
私が「名作」と言うまでもなく、フランスでも英語圏でも、もちろん日本でも、ヌーヴェルヴァーグを代表する作品として知られており、仕事として映画に携わる人たちの「研究の対象」になっているような作品です。
孤独な少年
主人公のアントワーヌは、12歳前後で、シャルロットと同じぐらいです。でも、彼は中二病ではありません。
シャルロットと同じように、アントワーヌには、思春期特有の葛藤や反抗心、自由への渇望があります。
この心情がこの映画のテーマだと思いますが、彼は何よりも孤独です。
この点が、周囲の人に愛されているシャルロットと大きく違います。
アントワーヌは、貧乏だし孤独だから、中二病なんて、ぜいたくな病気にはかかることができません。
大人と子どもの断絶
邦題が示すとおり、大人たちはアントワーヌの気持ちを理解できません。と言うより、そもそも理解しようとしません。
この映画に出てくる親や教師は、彼の言うことに耳を傾けず、しばしば「いきなり殴る」というコミュニケーション法を取ります。
もはやそれはコミュニケーションではなく、そこにあるのは大きな断絶です。
アントワーヌは大人から見ると、牛乳やタイプライターを盗んだり、学校をさぼったりする不良です。でも、意外にいい子だと思います。
見た目も利発そうでかわいいです。日本人の私から見ると、ただの黒いとっくりセーターを着ているその姿が、おしゃれに見えます。
アントワーヌは家の手伝いもするし、両親(実母と母の夫)に気を使ってもいます。
すぐに怒るお母さん
周囲の大人は皆アントワーヌを理解しようとしませんが、一番ひどいのはお母さんです。
このお母さん、自分の子どものアントワーヌをうとましく思っています。
アントワーヌの両親は共稼ぎ。彼は鍵っ子のようです。
仕事から戻ったお母さんが、家にいるアントワーヌを見ます。
普通は、「今日、学校はどうだった?」と聞くところです。ところが、このお母さん、いきなり彼を怒鳴ります。
アントワーヌが小麦粉を買い忘れたからですが、小麦粉ごときでそんなに怒鳴らなくてもいいでしょう。
パリはいろいろな店が手近なところにあるのだから、「自分で仕事の帰りに買ってこいよ」と思います。
でもお母さんは「仕事で疲れているから」、用事はアントワーヌに押しつけます。
根はいい子のアントワーヌ
この家族は狭いアパルトマンに住んでいるので、アントワーヌは自分の部屋もデスクもないらしく、食卓の上で宿題をします。
自ら宿題しようとするいい生徒です。
ところが、お母さんは、「宿題なんていいから、食卓の支度をしろ」とまた怒鳴ります。
素直にお皿を並べるアントワーヌ。
そんなふうに、やたらとヒステリックに怒鳴るお母さんですが、時々やさしい声で「今度の作文テストでクラスで5番以内に入ったらお小遣いをあげるわ」なんて言います。
そのときの気分で息子に接する困ったお母さんです。
ちなみに、このお母さんは美人で、「母親」というより「女」という感じです。
週末は、両親がそれぞれ好きなことをしに出かけてしまうので、学校が休みのときもアントワーヌは一人ぼっちです。
お母さんをかばうアントワーヌ
アントワーヌは、寝袋で寝ています。
私のように「ミニマリストだからベッドを捨てて、寝袋に寝ている」というわけではありません。
お父さんが、アントワーヌの寝具を買うお金をお母さんにあげたのに、お母さんは別のことに使ってしまったらしく、寝具は調達されず、彼はソファらしきものに寝袋を置いて寝ています。
そのことをお父さん(お母さんよりはやさしいけれど、後半でアントワーヌを殴る)がお母さんに指摘すると、アントワーヌは、「暖かいから、僕、寝袋がいいんだ」とお母さんをかばいます。
お母さんが大好きだったのに
ひどい母親ですがアントワーヌはお母さんが好きで、後半で親に鑑別所に入れられたときも、お母さんが会いに来るのをずっと待っています。
ずいぶんたってお母さんは彼に会いに来ます。
アントワーヌにはルネという親友がいて、ルネはアントワーヌの母親と一緒に鑑別所を訪れました(私の記憶では)。
アントワーヌは窓からルネを見つけて、すごく喜んで手を振ったり、呼びかけたりしていましたが、ルネは、面会を認められませんでした。
子どもだからだと思います。
アントワーヌの母親もいたのだから、ルネも一緒につれていけばいいのに。
ルネは会いに来たのに、鑑別所の規則、つまり、大人の都合のせいで、アントワーヌに会えず、自転車に乗って帰っていきます。
お母さんは、面会でアントワーヌに、「おまえなんかには、ここがお似合いだよ」みたいなことを言います。
家庭でも学校でも居場所がなく、鑑別所に入ってますます孤独になっていたアントワーヌにとどめの一撃です。
お母さんを見限ったアントワーヌ
このあと、彼は大きな決断をしますが、そのきっかけはお母さんの冷ややかな言葉にあったと思います。
鑑別所に入ったアントワーヌにとって、血のつながったお母さんは、最後の希望のはずでしたが、このお母さんからは、彼に対する愛情はまったく出てきませんでした。
この映画は、実際に母親の愛を得られなかったトリュフォーの自伝的な作品なので、映画に出てくるお母さんは彼の目から見たお母さんであるため、いつも冷たく身勝手です。
この映画のエンディングはとても有名です。人によって、どうとでも取れる終わり方で、実際、さまざまな解釈がなされています。
私は、アントワーヌがとうとうお母さんを見限って、1人で生きていく決意をしたと感じました。
彼の表情に、「僕、もうあきらめたし」と言う声を聞いたわけです。
それは同時に子ども時代の終わりです。
子ども時代が終わっても、それは人生の終わりではありません。
トリュフォーのメッセージ
トリュフォー自身は、10代半ばで、彼の人生において、ひじょうに重要な役割を果たす人との出会いがありました。
メンターであり、父親的な存在になるアンドレ・バザンという映画評論家と出会ったのです。
トリュフォーは映画が異様に好きだったので、その名も「映画マニアサークル(Cercle Cinemane)」という、映画を上映し、議論するクラブを作って、そこで、バザンと出会いました。
彼は、母親の愛情の欠落を映画への愛で埋め、映画監督として成功したと言えます。
そういう意味で、『大人は判ってくれない』は、思春期にある子どもたちだけでなく、生きづらさを感じている人全員を力づける映画だと思います。
周囲に理解されなくても、疎外感を感じていても、自分のほうに何かに対するあふれるような愛情があれば、人生は生きるに値する。
私はそんなメッセージを受け取りました。